『羽化』
「宗次郎・・・」闇が濃く残る部屋に、土方の声が静かに響いた。
良く通る低い声に、床の宗次郎は、うっすらと目を開けた。
寝惚け眼(まなこ)で見廻せば、蚊帳の向こうで、黒い影が手招きしている。
「・・・としぞう、さん・・・?」
「そうだ。・・・おいで」
蚊帳を抜け出した小さな躰を、土方は抱き上げた。
廊下には、涼やかな夜の風が吹いていた。空も、闇が勝(まさ)り、星が瞬いている。
腕(かいな)の宗次郎は、眠い目を擦った。
「・・・朝?」
小さな額に額を合わせ、土方は囁いた。
「明け六つには少し早いが、いいものを見つけた」
「・・・なあに?」
宗次郎は、ぱっちりと目を開けた。
開けたと同時に、可愛らしい眉をやや顰める。
懐で、しきりと身動ぐ様子に、土方は苦笑した。「・・・随分落としたんだが、まだ匂うか?」
宗次郎は、おずおずと土方を見上げ、コクリと頷いた。
その正直な反応には、笑うしかない。
「それは、悪かったな。後でちゃんと水を浴びるから、少しだけ、我慢しろ」
「・・・はい」
宗次郎は、九つの子供なら当然の事ではあるが、白粉の匂いがひどく苦手で、それ故、僅かな残り香にも敏感である。
廓を出る前、風呂まで使ったのだが、このチビ助の鼻は誤魔化せなかった。
土方は、直接庭に下りて、試衛館の門前へ廻った。闇の薄れ始めた門前は、普段と変わりの無い佇まいを見せている。
門柱の前に、しゃがみ込もうとして、宗次郎が裸足なのに気が付いた。
「履物を忘れたな」
「裸足でも、平気だよ」
元気よく応え、腕を解こうとする宗次郎を、土方は離さなかった。
「地面は冷たい。身を冷やして、熱でも出したら大変だろう」
「平気」
「平気じゃねぇだろうが」
宗次郎は、土方を見上げた。
「お熱はね、この前出したばかりだから、もう出ないよ?」
「馬鹿を言うな。そんなに、都合よくゆくか」
土方は、苦笑した。
「しっかり摑まっていろよ?」小さな躰を両の手で抱え直し、しゃがみ込む。
「門柱の下の、地面を見てみろ」
薄闇の中で目を凝らすと、地面に、ごく小さな穴が開いていた。
細い棒を、真っ直ぐに突きたてたような穴である。
土方は、すぐ上の門柱を指差した。
「・・・わかるか?」
土方の指先を辿った宗次郎は、目を丸くした。
門柱に、小さな塊がしがみ付いている。それは、一寸ほどの茶色い抜け殻に摑まった、まだ、翅(はね)の濡れている蝉だった。
蝉は、やや白っぽい色で、じっと動かない。
濡れた翅は、やはり白色をしているが、これはすっかり伸ばされていた。
「蝉・・・?」
身を乗り出そうとする宗次郎を、土方は慌てて制した。
「落ちるぞ、しっかり摑まっていろ」
宗次郎は、土方の首に抱き付くと、大きな瞳を輝かせた。
「歳三さん、蝉だね」
土方は、笑って頷いた。
「多分、昨日の夕刻から、此処で頑張っていたんだ」「夕刻から?」
土方は、抜け殻を指差した。
「抜け殻の爪が見えるか?門柱にしっかり摑まっているだろう?」
主の抜け出た殻は、門柱に、深く爪を食い込ませていた。
宗次郎は、土方の首に抱き付いたまま、じっと見つめる。
一番上の、鎌のような大きな前脚が、門柱に深く爪を立て、他の脚も、しっかりと門柱を抱いていた。
「足場を固めた後、背が割れて、まだ色の無い、白っぽい蝉が出て来るんだ」土方の説明の内にも、蝉の翅は、少しずつ色付き、硬質になってゆく。
「慎重に、殻から脚を抜き出して、まず脚を固めてゆく」
「脚?」
土方は、頷いた。
「しっかりと脚を固めて翅を伸ばす、それから、ゆっくりと、体と翅を固めるんだ」
「夕方から、朝まで掛かるんだね」
宗次郎は、感嘆の声をあげた。
「羽化が少しでも遅れるとな、鳥や、他の虫の餌になっちまうんだ」
薄闇色の瞳が、不安気に揺らいだ。
「・・・この蝉は?」
「こいつは、もう大丈夫だ」
土方は、笑った。
宗次郎は、ポツリと呟いた。「背中・・、割れた時に痛くないのかなぁ」
思いも寄らぬ言葉に、土方は、腕の宗次郎を見つめた。
やんちゃな少年ではあるが、その心裡は、とても繊細である。
「・・・痛いかも知れねぇが、羽化に必死で、きっとそれ処じゃねぇだろ」
土方の応えに、宗次郎はにこりと笑んだ。
「そうだね」
刹那、すっかり乾き、身を固まらせた蝉が、翅を震わせパッと飛び立った。
二人、追って見上げたが、蝉は、すぐに見えなくなった。
宗次郎は、言葉も無く、頬を紅潮させた。
すっかり明るくなった空を、二人は、黙ったまま眺めた。「・・・行っちゃったね」
「ああ」
土方は、ゆっくりと腰を上げた。
「・・・蝉ってのは、長くても、十四、五日ほどの命だそうだ」
「本当?」
宗次郎は、驚いた。
「短い命だからこそ、精一杯に鳴くのだろうな」
宗次郎は、土方の首に回す手に、力を篭めた。
「歳三さん・・・」
「何だ?」
「抜け殻・・・、貰ってもいい?」
「構わねぇが、少し脆いぞ?」
土方は、宗次郎を片腕で抱えると、慎重に、門柱から抜け殻を外した。
宗次郎は、神妙な貌で、それを受け取った。
「蝉の抜け殻はな、種類によっては漢方薬の材料にもなるんだ」
「すごいね」
宗次郎は、益々感心した。
小さな両の手に、そっと蝉の抜け殻を包み込む。
「大事にするね」
日盛りの中、他出から戻った近藤は、汗だくのまま井戸へ廻った。裏庭の縁に、ちょこんと座った宗次郎が、何かを陽に翳(かざ)しているのが見えた。
「宗次郎」
「あ、若先生、お帰りなさい」
眩(まばゆ)い陽の中、宗次郎が笑顔を見せた。
「そんなに陽の強い処に座っていたら、加減が悪くなるぞ?」
近藤は、縁まで近付き、宗次郎に当たる陽を遮った。
それから、小さな手の中のものを覗き込んだ。
「蝉の抜け殻か?」
「はい。今朝、歳三さんが見つけてくれました」
宗次郎は、再び、抜け殻を高く翳した。「若先生、目がね、透けているのです」
近藤は、小腰を屈めた。
「本当だ。綺麗だな」
「はい」
薄茶色の抜け殻の、目の部分は、玻璃のように透けていた。
「背の脇に、小さな翅があるけれど、羽化した時は、もっと大きな、長い翅になっていました」
その情景を思い出したのか、まろやかな頬が紅潮した。
小さな指が、抜け殻の其方此方(そちこち)を示す。
「脚の爪や、胴には、少し土が付いているのです」
宗次郎は、近藤を見上げた。
「土から抜け出た、穴も見ました」
近藤は、微笑んだ。
「良いものを見たな」
「はい」
「随分早起きだったようだが、昼寝はしたのか?」「はい」
宗次郎の部屋には、既に蚊帳が吊ってあった。
心配性の親友が、肌の弱い宗次郎を案じ、早々に蚊帳を吊ったのだろう。
案の定、蚊帳の中では、腕を枕にした土方が、団扇を片手に眠っていた。
「やれやれ、張り番が寝込みやがって」
近藤は、苦笑した。
宗次郎の向こう隣には、小さな箱が置いてあった。「それは?」
宗次郎は、はにかむように笑った。
「宝物を入れてあるのです」
近藤は、蓋の開いている、箱の中身を覗いた。
見覚えのある、使い込んだ竹とんぼと独楽は、土方からのものだ。
他に、錦の布で作られたお守り袋、それから、蛇の抜け殻まで入っている。
可愛らしい容貌をしていても、宝物の中身は、やはり男の子である。
竹とんぼを手に取った近藤は、首を傾げた。
「これは、歳に渡したのではなかったか?」
「歳三さんが、しくじって戻った後に、また呉れたのです」
近藤は、思わず吹き出した。
二度目の奉公に上がった土方に、宗次郎が、お守り代わりに渡した事は知っている。
しかし、当人は、あっと言う間に日野へ戻った。
律儀に返す辺りが、まめな土方らしい。
「・・・誰が、しくじったって?」蚊帳の奥から、渋い声が飛んだ。
近藤と宗次郎は、同時に振り向いた。
仏頂面の土方が、むくりと起き上がり、大きく伸びをしている。
宗次郎は、首を傾げた。
「佐藤様が、しくじって戻ったって言っていたよ?」
土方は、不機嫌な貌で蚊帳から出てきた。
「大先生と言い、義兄(にい)さんと言い、碌でもない事を教える大人が多すぎるっ」
「歳、それは『身から出た錆』と言うんじゃないのか?」
「うるせえぞ、勝っちゃん」
近藤の持つ、古びた竹とんぼに、土方は笑った。
「こんな古いものまで、後生大事にとってあるのか」
「その竹とんぼはね、一等飛ぶんだよ」
宗次郎は、誇らしげに言った。
日野の思い出が詰まった箱に、暫し話が弾む。
錦のお守り袋には、首に掛けられるように、長い紐が付けられていた。「宗次郎、これは、身に着けておかなくて良いのか?」
近藤の問いに、宗次郎は首を振った。
「試衛館の場所は、ちゃんと言えるからいいのです」
近藤、土方は貌を見合わせた。
「姉さんが、迷子札代わりのものを入れて呉れたのか?」
宗次郎は、頷いた。
小さな手がお守り袋を開き、中から紙片を取り出した。
『市ヶ谷牛込柳町甲良屋敷試衛館道場内弟子、沖田宗次郎』と、たおやかな女文字で綴ってあった。
土方は、腕組みした。入門後、少しして、宗次郎は迷子になった事がある。
故あっての仕儀だったが、試衛館は大騒ぎとなった。
「・・・どんな状況になるかわからねぇんだ。肌身に着けて離さない方がいいだろう」
宗次郎は、大きく頭(かぶり)を振った。
「姉上と、きぃちゃんとお揃いだから、仕舞って置くの・・・」
「そうか・・・」
近藤は、宗次郎の頭を撫でた。
土方は、やれやれと溜息を吐く。
「迷子にならねぇよう、やんちゃはするなよ?」
所詮、兄貴分達は、宗次郎に甘い。
小さな手が、丁寧に、箱の中身を戻してゆく。最後に、お守り袋の上に、蝉の抜け殻をそっと乗せた。
大切な小箱を、部屋に仕舞う宗次郎に、二人、笑みが零れた。
「・・・俺にもあったな、宝箱」
近藤が、懐かしげに目を細めた。
「ガキの時分は、誰にも覚えがあるさ」
土方は、笑った。
縁に並んだ三人は、眩しい夏空を見上げた。
唸るような蝉の声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
「あの中の一匹が、今朝の蝉かも知れねぇな」
土方の声に、宗次郎はにこりと頷いた。
蝉の声と競うように、遠く、井上の呼び声がした。「宗次郎、お八つだよ」
了
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