『噂話』―うわさばなし―
日野宿・佐藤彦五郎屋敷へ出稽古に訪れた島崎勝太(近藤勇)は、久しぶりに竹馬の友、土方歳三に再会した。勝太は、十六になった今年、正式に近藤家の養子となった。代理の出稽古も堂に入ったものである。
道場の隅に端座し、竹刀の手入れをする勝太を見つけると、歳三は挨拶もそこそこ、その横に寝転がり目を瞑ってしまった。相変わらずのそんな姿も、久しぶりにまみえ、再会を喜ぶ勝太には嬉しいものだ。
聞けば歳三は、実家よりも、姉の嫁ぎ先である、ここ佐藤家へ滞在する事が多くなっているという。そんな親友に、勝太は先程聞いたばかりの噂話を向けてみる。
「歳、知っているか?近くにお武家が越してきたそうだぞ」
「さあな」
「興味ないのか?」
「侍なんて何処にもいるだろうが」
「しかし、こんな田舎にと、もっぱらの噂だそうだ」
「・・くだらねぇ」
「この、お屋敷の近くと聞いたぞ」
「・・・知らねぇよ」
歳三は、如何(いか)にも面倒、と言わんばかりに眉根を寄せる。勝太にとっては、そんな姿は見慣れたものである。当然、親友が興味を引くものは心得済だ。
「なんでも、別嬪な姉妹がいるらしい」
「・・・本当か?」
「噂だがな」
漸く、興味を持って返ってきた応えに、勝太は満足そうに頷いた。
「浪人だった父親を亡くして、家督を継ぐ婿殿を探していると聞いたが、それが――」
「いくつだよ。その娘」
打って変わった歳三の性急さに、勝太は苦笑した。
「十七だと聞いた」
「・・・悪くないな」
親友の、興味以上の反応に、慌てたのは勝太の方だ。
「おい、歳。・・・年上だぞ?」
「たった二つじゃねぇか」
不敵に笑う歳三に、勝太は深い溜息を吐いた。端正な貌を持つ、一つ年下の親友は、十五ながら疾うに女を知っている。・・・これもまた、噂である。
その家は、確かに佐藤家の近所にあった。
武家とはいえ、昨今、貧乏住まいも少なくはなく、この家もまた例外ではないようだ。
しかし、小さいながらも、整えられた庭の風情は、流石に武家というべきか。
翌日の午(ひる)過ぎ、冷やかし半分、覗きに来た歳三だったが、垣根越しに眺めてみても、人の気配がまるで無い。
仕方無しに踵を返すと、いつの間にか、歳三の背後に小さな子供が立っていた。
白地の着物に、紺の帯を締めたその子供は、身に纏う着物の色に負けぬ、透(す)けるような白い肌をしていた。草履の赤い鼻緒が、肌を更に白く透(す)かせて見せる。
歳三は、無言で見上げるその貌を暫し眺め、近在の子供の貌をいくつか思い出してみたが、どうにも心当たりが無い。
「どうした?・・・この近くの子か?」
腰を下ろしながら、子供の目線に合わせる。それでも、まだ低い位置にあるその目線に、歳三は覗き込むように貌を寄せた。
大きな薄闇色の瞳を見開いたまま、じっと歳三を見つめ、子供は応えを返さない。
その容貌に、歳三は目を見張った。
小さな面(おもて)に、ほんのり赤みのある、ふっくらとした頬と、形の良い紅い唇、そして大粒の宝石のような瞳が綺麗に収まっている。
やっと肩に届く髪は、柔らかく揺れ、小さな面輪を飾っていた。華奢な体つきは、見ていて頼りない程に細い。
それにしても・・・。歳三は、まじまじと子供を見つめる。
(随分と可愛い子だな・・・)
歳三の心裡に、ふと閃くものがあった。勝太は、別嬪な姉妹が居ると言っていた。
「お前・・この家の子か?」
予想に違(たが)わず、子供は小さく頷いた。
見慣れぬ少年が、自分の家を覗いていた。その緊張感が、薄闇色の瞳に宿っている。
咄嗟にそれを感じ取り、歳三は、人好きのする笑顔を見せた。
「この先の、佐藤彦五郎を知っているか?俺は、義弟(おとうと)だよ」
子供は目を見開き、大きく頷いた。それから、歳三の貌を覗き込むように見上げ、おずおずと訊ねる。
「佐藤さま?」
鈴の音にも似た、柔らかい声。その問いに、歳三は首を横に振る。
「俺は、土方歳三だ。彦五郎に嫁いだ、のぶの弟だ」
子供は少し首を傾げた。
「おのぶさまの弟?」
「そうだよ」
微笑み掛ける端正な貌に、薄闇色の瞳が漸く緊張を解く。
「・・ひ・・じかた、さま?」
「歳三でいいよ」
「としぞう、さん?」
屈託ない笑顔で問う愛らしさに、頷く歳三も笑みが零れた。
僅かな仕草も、この辺りに居る子供とはまるで違う。きっと幼いながらも、行儀作法など厳しく躾られているのであろう。
「お前、俺の姉を知っているのか?」
歳三の問いに、子供はすぐに頷いた。
「いろいろ・・・やさしい」
「そうか。お前にも姉さんが居るのだろう?」
「二人います」
歳三をまっすぐに見上げ、応える仕草が、大層可愛らしい。
三姉妹か・・・低く呟く歳三に、子供は不思議そうな瞳を向けた。その視線に気付き、小さな頭をそっと撫でる。柔らかな髪が、歳三の指に心地良い。
末の妹がこれ程の器量なら、さぞや二人の姉も美しかろう。
「お前・・いくつだ?」
「六つ」
「そうか」
頷きながらも、少し驚く。
随分と華奢な体つきをしているので、もっと幼いかと思っていた。女の子とは、随分と華奢なものだ、と感心する。
「姉さん達は出掛けているのか?」
本来の目的を思い出し、問うてみると、薄闇色の瞳が、みるみる悪戯気な色を浮かべた。
「皆、出掛けています。だから留守番」
「留守番てぇのは、家の中に居るものだろう?」
笑いを含んで歳三が言えば、やや決まり悪そうな貌を見せる。
「としぞうさんは、姉さんのお客さま?」
「いや・・・」
口を噤(つぐ)んだ。
まさか、評判の美人姉妹を覗きに来た、などとは、いくら子供相手にも言えまい。
「姉さん達は、いつなら居る?」
その問いに、小さな面は暫し考え込む。
「朝と・・・夕刻には戻ります」
「そうか・・」
歳三は立ち上がろうとした。すると、いつの間にか、小さな手が歳三の着物を握り締めていた。
「どうした?」
やさしく問う端正な貌をじっと見上げ、子供は少し悲しそうな表情を浮かべた。
「としぞうさん。・・・もう帰る?」
瞳に映る寂しげな色に、歳三は困惑を覚えた。薄闇色の瞳が、縋るような色を湛(たた)えている。一人の留守番が心細いのだろうか。
「・・・暫くは義兄(にい)さんの所に居るよ。遊びにおいで」
その言葉に、嬉しそうな貌を向け、小さな手が、漸く歳三の着物を離した。
「遊んでくれる?」
「ああ。・・・ただ、毬(まり)やお手玉なら、俺の姉に遊んでもらうといい」
「それなら、姉さん達も出来ます」
小首を傾げるように応える子供に、それはそうだ、と、歳三も暫し考える。
「何をしたい?」
こんな小さな子供に対し、真面目に相手をする自分が何とも解(げ)せぬ。しかし、どうもこの瞳の色に、落ち着かない気持ちにさせられる。
歳三は、小さな面を覗き込む。薄闇色の大きな瞳、その中に自分の貌が映り込んでいる。
「多摩川に行きたい」
「川?」
面食らったように繰り返す歳三に、小さな面が悪戯気に頷く。
「姉さん達は、危ないから駄目だって」
「じゃあ、連れて行ってやる」
その応えに頬を染め、嬉しそうに頷く。それでもまだ、薄闇色の瞳に何か隠すものがある。それを感じ取り、歳三は再び問う。
「あとは?」
心を見透かされたようなその問いに、少し驚いたような表情を浮かべたが、応えはすぐに戻ってきた。
「竹とんぼ」
「竹とんぼ?」
「としぞうさんは・・竹とんぼ作れますか?」
「そりゃ、作れるが・・・」
何故、そんな物を欲しがるのかが、歳三には分らない。しかし、小さな面は、歳三の返事を、息を詰めるように待っている。薄闇色の瞳が、期待にキラキラと輝く。
「じゃあ、作ってやる。一緒に飛ばそう」
「はい」
大きく頷くその仕草に、歳三も頬を緩ませた。
「またな」
「はい」
もう一度、そっと頭を撫で、踵を返した歳三に、小さな体はその背をずっと見送っていた。
夕刻、稽古の終わった勝太が、客間で茶を飲んでいると、前の廊下を、乱暴な足音を立てながら歳三が通り掛かった。その手には、切り出したばかりの青竹の節(ふし)。
「お、歳」
「勝っちゃん。稽古終わったのか?」
「ああ。次は、お前もどうだ?」
「・・面倒くせぇ」
笑顔の勝太に、歳三は素っ気無い応えを返す。そのまま部屋に上がり込み、持っていた竹を放り出すと、ゴロリと畳に寝転がる。その親友の姿と、転がった青竹とを交互に見つめ、勝太が問う。
「お前、お武家の家を覗きに行ったのか?」
「留守だった」
つまらなそうに応える歳三に、勝太も残念そうな貌をした。
「まあ、暫く居れば会えるさ」
「・・・妹には会った」
目を瞑ったまま呟く歳三に、勝太は興味深い視線を向けた。
「噂通り、別嬪だったか?」
歳三は、片目だけを開く。
「何言ってやがる。あんなチビに」
「妹は・・確か十四だろ?小さくは、ない」
「違う」
歳三は片肘をつき、半身をやや起こした。
「俺が会ったのは、一番下の妹だ。まだ六つだと言っていた」
「一番下?」
「ああ。だが、六つと言っても驚く位に華奢な子だったな。女ってぇのは随分と細く出来てやがる」
歳三は、黙って自分を見つめる勝太に、面白そうに笑い掛けた。
「おまけに、チビだが、かなりの器量良しだったぞ。まるで人形みてぇだった」
「・・・歳。一番下の子は、男の子だぞ」
「あ?」
「だから、それは男の子だ。名は・・確か、沖田・・・宗次郎とか・・・」
「何だって?」
歳三は跳ね起きた。そのまま、呆(ほう)けたように口を開ける。
歳三の、ついぞ見ぬ表情(かお)に、勝太は吹き出した。
「お前・・俺の話を最後まで聞かないから」
堪えきれずに笑い続ける勝太を、歳三は呆然と見つめている。
「俺も、まだ会った事はないが、随分可愛い子だと、おのぶ様が言っていたな」
「可愛いも、何も・・・」
歳三は、後の言葉が続かない。
「その子が小さいから、姉が婿取りをして家名を継ぐと言う事らしいが――・・」
延々と続く勝太の説明も、歳三の耳には届かなかった。驚いたまま、あの小さな姿を思い出す。何故だか、強く心に残る、あの薄闇色の瞳。
「ところで、歳」
名を呼ばれ、漸く現(うつつ)に戻った歳三は、ぼんやりと勝太を見つめた。
「お前・・その竹は何だ?」
足元の青竹を指差す勝太に、歳三もそれを見つめる。
「・・竹とんぼを、な」
「お前が作るのか?・・珍しいな」
「・・まあな」
驚く勝太の貌を横目で見ながら、歳三は、ボソボソと歯切れ悪く応える。
(道理で・・竹とんぼが欲しい訳だ)
よくよく考えてみれば、自分が勝手に勘違いしただけだった。歳三は、目を丸くする勝太を前に、とうとう声を立てて笑い出した。
(名を聞けば、わかったものを)
暗闇の中、土方は目を覚ました。
まどろみの中で見た、随分と懐かしい夢に、知らず笑みが浮かぶ。
初めての邂逅。その数日後、二人の姉に連れられた宗次郎に再会した。
再会の時、土方の姿を見つけると、転げるように駆け寄り、見上げて微笑む宗次郎に、土方は、何とも言えぬ感情を持て余した。
約束の竹とんぼを渡した時に、宗次郎の見せた嬉しそうな表情は、今も、鮮やかに思い出せる。
そして、花のような見掛けを裏切る、やんちゃぶりを知ったのは、そのすぐ後の事だった。
「まさか、な・・・」
小さく笑った。
それから、腕の中、安らかな寝息を立てる想い人を見つめる。夜目にもわかる白い肌、相変わらずの華奢な体は、土方の腕で身動(みじろ)ぎもしない。
遠い昔、竹とんぼを欲しがった小さな子供は、今では、洛中に並ぶ者なき剣客に成長した。
「・・・随分、伸びたな」
目を細め、柔らかな黒髪に指を絡ませる。暫しその感触を楽しみ、それから、ゆっくりと唇を重ねた。
想い人は目を覚まさない。
重ねた唇をそのまま耳朶へ寄せ、そこへ軽く歯を立てる。その、ささやかな悪戯に、閉じられた瞼が微かに動く。開くかと見守る腕の中、華奢な体は、土方の胸元へ深く身を沈めた。長い黒髪がさらりと流れ、露になった白い首筋に、土方が咲かせた赤い花が一つ・・・。
起こそうと思った悪戯でもなかったが、その淡い色に煽られた。
「・・土方さん?」
首筋を滑る、熱く甘やかな感触に、総司が薄く目を開く。その視界には、土方の艶(つや)やかな黒髪が広がるばかり。
「お前が悪い」
強く抱き締める腕の主は、断ずるように耳元に囁き、その耳朶を舐め上げた。痺れるような熱い感覚に、思わず甘い吐息が洩れ、そこで漸く総司は目を覚ます。
「な・・何を言って・・・?」
続く言葉は、土方の唇に塞がれた。華奢な体は、理不尽な仕打ちに跳ね上がる。
「待って・・」
「待たねぇ」
「もう朝に・・・」
「まだ暗い」
寝起きの身には、土方の突然の責めが、何の事やら、わからない。
わからぬままに、ほんの数刻前、たった数刻前に、熱く与えられ、鎮まったばかりの熱を、再び熾され、蹂躙され、そして溺れてゆく――。
総司は、堪えきれずに小さな声を上げ、震える細腕を土方の首にまわした。その華奢な体を強く抱き締めながら、土方は、再び喉の奥で苦笑を漏らした。
初めて出会ったあの日。
まさか、この想い人が男の子だとは思わなかった。
ただ単に、噂の元を確かめに行っただけで。
・・・叶う事なら、その姉に近付こうという下心で。
何年も経って、気が付いた。
気付いた時には遅かった。
まさか、自分が恋に堕ちるなど。――恋に堕ちていた、などと。
初めて、まみえた時に心が惹き込まれ、
気付いた時には、疾うに虜になっていた。
自分の想いを知った時、既に手遅れだった。
総司の、瞳も、心も、剣も・・何もかもに溺れていた。
「許さねぇ」
「あっ・・」
何を、と、問う為に開いた唇を再び深く塞ぎ込み、淡く染まった耳朶に吐息のように低く囁く。それだけで、ビクリと跳ねる敏感な体。
「責任、取れよ?」
「ひ・・じか・・た・・・っ」
間近にある土方の双眸に、自分の姿が映り込んでいるのを総司は見た。土方の瞳に捕らわれた、自分の瞳は潤んで見える。
もしかしたら、潤んでいるのは土方の瞳なのか・・・?
総司は、蕩(とろ)けそうになる思考で、朧に考える。
土方もまた、総司の薄闇色の瞳に映る、己(おの)が姿を見つめていた。
こちらは、間違いなく潤む瞳の中に揺れて見える。腕の中、愛しい者は昔と変わらぬ、薄闇色の瞳を潤ませている。陶酔の色を浮かべるその瞳に、土方は笑んだ。
「見間違えても・・仕方ねぇ」
「・・・・?」
理解に苦しむ言葉を、囁き続ける理不尽な蹂躙者。
その言葉を、必死に判じようとする総司は、愛しい男の手によって、何処もかもを、蕩かされてゆく。
「噂って奴は、始末に終えねぇ、な?」
苦笑混じりの土方の声も、もう、総司の耳には届かなかった。
夜は、まだ明けない。
了