『余香』―よこう―
「副長、手をどうかされましたか?」「・・何?」
「傷が見えます」
打ち合わせを終えた処で、監察方、山崎烝が口を開いた。
町人姿に形(なり)を変えた男の目は、土方の左手に止められていた。
土方は、視線を追うように己の左手を見つめた。
手の甲の、人差し指と中指の間、そして、中指と薬指の間に細い傷が見えた。
赤みを残したそれは、まだ新しい。
心当たりの無い傷に、土方は、やや目を細めた。「薬をお持ちしましょうか?」
「いや、必要無い」
「引き傷は、存外深いものです」
引き傷と言われ、思い出した。
「たいした事は無い」
無表情を装いながらも、土方は、身の裡が熱くなるのを感じた。
山崎が部屋を辞し、廊下の気配が消えてから、小さく笑う。
「・・総司。いつの間に、付けやがった・・」
貌を洗った時も、気付かなかったそれが、今になって甘く疼く。
床の間に視線を向ければ、橙色の花が、日溜まりを落としたように煌めいていた。
暖かな色の花粒は、甘やかな香りで部屋を満たしている。見るとも無しに見つめれば、昨夜の所業を、咎めるようにはらはらと降る金の花粒。
この一夜(ひとよ)で、随分と花を落としてしまった。
「・・お前達も、あいつの味方か?」
土方は、苦笑した。
ゆるりと立ち上がり、障子を開け放つ。今朝の陽射しは、明るく暖かい。今日は、小春日和となりそうだ。
屯所も、漸(ようよ)う動き出した。朝の営みの音が、其処彼処に響き始める。
昨夜、激しく降った雨は、夜明けを待たずにピタリと止んだ。秋の陽は、濡れた庭木の雫を取り込み、更に眩しく輝いている。
外からも内からも、花の香りがふわりと漂う。
然しながら、雨で香りも落ちたのか、今朝の空気は、昨日程には甘みを含まぬ。
今日は非番で、恐らくは未だ床に居るだろう恋人に、思いを馳せる。「今日は、動けねぇだろうな・・」
引き傷を見つめながら、呟いた。
朝餉は、養ってやった方が良いやも知れぬ。
「流石に、嫌われたか・・」
重苦しい言葉の割には、笑い含む声音。
床の間の光の粒が、また一つ、はらりと舞った。
「とても綺麗な景色だったのです。まるで、道に夕陽が落ちたようでした。・・散った花が、夕陽を敷き詰めたように見えるのです」弾んだ声音に、土方は、後ろに端座する総司を振り返った。
下番の報告も早々に、隊服のまま、楽しげに語っている。
「お前は、巡察に出ているのか、遊びに出ているのか、わからん」
「仕事の手は抜きません。両方兼ねているのです」
悪びれずに告げる想い人に、苦笑した。
「とても綺麗で、土方さんにも見せてあげたいと思ったのです」
「生憎だったな」
「そのようですね」
総司は、笑った。
副長室の床の間には、橙色の金木犀が、山と飾られていた。
「どうしたのです?これは」総司は、興味深げに覗き込む。
「八木さんの処の小者が持ってきた。雨が降れば、花も長くは持たぬからと」
「雨なら、帰営してすぐに降り始めましたが・・」
総司は、やや思案顔になる。
「八木さんの御邸に、金木犀があったでしょうか?」
「知らん」
無愛想な応えに、総司は笑う。
「桜の木も、咲いてそれと思い出しますが、金木犀もそうですね。香り始めて、それが金木犀と気付きます」
「何処も彼処もこの匂いだ。・・甘ったるくて仕方ねぇ」苦々しい応えに、総司は微笑した。
「町中が、この香りに包まれています」
再び、床の間に視線を向けた。
「姿も、とても可愛らしいですね」
「一体、何が珍しい。金木犀など、江戸にもあったろう?」
土方は、うんざりとした貌をする。
「京の花は、殊更に香りが強いように思うのです」
「気のせいだ」
「そうかな?」
首を傾げる想い人に、土方は不機嫌な貌をした。
「気に入ったなら、お前の部屋へ持ってゆけ」「私は、充分堪能しました。これは、土方さんが堪能して下さい」
薄闇色の瞳を細め、にこりと笑う。
「生憎だが、花は一つと決めている」
口元を引く土方に、総司は首を傾げた。
「梅の花、でしょうか?」
「違う」
土方の応えに、思案顔になる。
「他に、お好きな花がありましたか?」
そこまで問うて、薄闇色の瞳が悪戯気な色を帯びた。
「発句の花と言えば、梅と牡丹に、菜の花と――」
土方は、貌を顰めた。
長い共暮らしで、土方の趣味も知っていよう。
しかし、その内容(なかみ)迄、教えた覚えは土方には無い。
この想い人は、油断がならぬ。
「俺の好みは、口の減らねぇ賑やかな花だ」「賑やか・・?」
「おまけに、馬鹿が付く程、菓子好きだ」
「菓子・・」
総司の声が、小さくなった。
「花の名も、知りたいか?」
土方は、喉奥で笑う。
絶句した総司は、首までを淡く染めた。
ゆっくり近付き、華奢な肩を抱き寄せて、耳元に囁く。「堪能させてくれ」
甘みを帯びた低い声音が、総司を蕩かせる。
「堪能・・?」
陶然としたように問う花の顔(かんばせ)に、土方は口元を引いた。
「連れない奴め、明日は非番だろう?」
「あ・・」
想い人の、耳朶にくちづける。
抱きたい、と、
耳元を掠った熱に、総司の貌が朱に染まった。
「夕餉は、残すなよ」
何事も無かったように、文机に向かう広い背を、言葉もなく見つめる。
叩き付けるような雨音に、土方は薄く目を開いた。胸元深く抱き込んだ想い人は、身動ぎ一つせず、裸身を委ねている。
あまりに無防備な寝顔に、土方は、口元を緩ませた。
夜着を着せ掛けもせず、眠りに落ちてしまったか――。
(迂闊な事だ)
声なく笑う。
土方は、細い肩に唇を押し当てた。
唇に、己と同じ体温が伝わり、安堵した。
この華奢な身を冷やし、風邪でも引かせたら事である。
花の香りが支配する闇に、浮かび上がるような雪の肌。それを暫し堪能し、土方は、ゆっくりと視線を上げた。
枕辺には、戯れに置いた金木犀。
鮮やかで暖かな花色は、闇に、星の如く小さな光を放つ。
華奢な身を抱いたまま、仄かに光る花粒に手を伸ばした。
指先が触れただけで、はらりと落ちる、か弱き花。
土方は、枕辺の花を見つめた。か弱き花の、思いがけずも細やかな造作に、目を奪われる。
繊細な造りの花は、しっかりとした厚みを持ち、小さいながらも、律儀に四枚の花弁を持っていた。
鮮やかな緑の葉は、驚く程に硬質で頑強だった。
可憐な花は、何処までも凛と気高く、硬質な葉は、包み込むようにそれを守っている。
「・・・似ているな」
低く呟き、小さな花を口に含んだ。
それは、瑞々しく微かに甘く、そして、少し苦かった。
何よりも、口中に広がる甘やかな芳香は、大気のそれとは比較にならぬ。
土方は、腕の想い人に視線を落とした。
雪よりも白い絹肌に、この光の星粒はどれ程映えようか。
優しい腕の離れる感触に、総司は、ゆるゆると瞼を開く。「・・土方さん?」
応えの代わりに、パラパラと、香りの礫(つぶて)が降ってきた。
思わず瞳を閉じれば、耳元で、土方の笑う気配。
「土方さん・・?」
「金木犀だ」
「金木犀・・?」
「良く似合う」
「・・・?」
土方は、想い人の頬や唇を飾る花粒を、舌先で丹念に拾い上げてゆく。
熱くしっとりとした感触に、震える細い手が、敷布を握り締めた。
「・・甘いな」
陶然と見上げる想い人に、含んだままくちづけた。
互いの口中に、甘やかな芳香が広がる。
「花も、お前も・・甘い」
総司は、恥ずかしげに俯いた。
「どちらが、甘いか・・」再び挑む気配を察し、薄闇色の瞳が大きく揺れた。
一度目は散々乱したが、この想い人は、一声も上げず堪えきった。
敷布を握り締めていた細い手が、ぎこちなく口元に運ばれる。
「二度目はねぇぞ、坊や」
喉奥で笑い、ゆっくりと起き上がった。
土方が胡座をかく姿を、ひたと見つめていた総司だが、ふわりと抱き上げられ、土方の膝上へ、背中を向けて下ろされた事に恐慌した。深く抱(いだ)き込まれ、逃れようとした脚は、土方の膝が割る。
大きく脚を開かされ、必死にもがく項を、熱い舌が這う。
それに気を取られれば、寸暇を置かず、脇から腕を回され、手の動きも封じられる。
いとも易く戒められ、華奢な背が、羞恥に震える。
無骨な両の手が、細い肩、鎖骨、胸と、しっとりとなぞる。
羞恥にもがけば、右の手が、するりと総司の敏感な場所に触れた。
総司は、大きく息を飲む。
肩口に軽く歯を立てられて、華奢な躰が小さく震えた。「土方さん、いや・・」
「いや?」
項を這う、しっとりとした唇の感触に、思わず甘い吐息が零れる。
「何が、嫌なんだ?」
「こんな・・」
声が、震えている。
「・・後ろは、嫌か?」
土方の頬に触れる黒髪が、曖昧に揺れた。
嫌、との応えは百も承知だが、今の仕草は、あまりに曖昧ではっきりしなかった。
「総司・・?」
浮き出る背骨を、唇でなぞってゆく。
「是か、非か、わからん」
「・・いや、です」
震える声に、忍び笑う。
「向かい合っていても、目を合わせねぇなら、背を向けているのと同じだろう・・?」唇が、首筋を食んだ。
軽く立てられた歯に、総司が悲鳴を飲み込んだ。
「どうあっても声を堪えたいようだが、今宵は許さねぇ」
「土方さん・・」
「この雨なら、外には聞こえねぇ・・」
縋るものを探し、彷徨う左手に、土方は己の指を絡めた。
「存分に、泣ける・・」
右の手で、華奢な躰を弄び、仰け反る背は、土方の唇が蠢く。
細腰に、土方は己の昂りを押し当てた。
その熱に、しなやかな背が、弱々しくもがいた。
無骨な右手が、総司の兆したものを、握り込む。
「あっ・・」
細腰が、悶えるように捩られた。
喉元までせり上がる声を、必死の思いで押さえつける。
「総司・・」土方の愛撫に音を上げ、応えを返せない。
指を絡めた左手を揺らせば、必死の力で握り返す。
薄闇色の瞳には、涙が溜まっていた。
「切ないのか、苦しいのか・・・泣くばかりでは分からん」
静かで、優しい声が、耳に染み込む。
「・・土方さん・・」
「何だ?」
そのまま耳朶を甘噛みすれば、絡めた手指に、更に力が込められる。
「・・苦しいのなら、止めるぞ?」
耳元に、甘く低まった声が響く。
総司は、震えながらも首を振った。
「土方さん・・」大きく仰のいて、土方の視線を捉えようと、瞳が彷徨う。
土方は、絡めた手を解き、頤を捉えると、指を唇に割り込ませた。
無骨な指が、逃げる舌を捕らえ、想い人の鳴き処を暴いてゆく。
「・・んっ・・」
薄闇色の瞳が、涙を零す。
密かな泉に触れる度、華奢な身が大きく震える。
この愛しい者を、時を掛けて丹精したのだ。
想い人の、躰に潜む悦びの泉で、土方の知らぬ処は一つも無い。
「あっ・・あ・・」
とうとう堪えきれず、小さな嬌声が零れた。
土方は、濡れそぼった指を、総司の秘所へ沈ませた。「ああっ・・」
一度蕩けた場所は、しっとりと熱く、土方の指を飲み込んでゆく。
泣き濡れた貌を覗けば、瞳の奥深くに、羞恥とは別の艶が見えた。
「どうして欲しい?」
耳元へ唇を寄せ、甘美な誘惑をかける。
その問いに、総司は力無く首を振った。
(まだ、堕ちねぇか)
土方は、想い人の意地に苦笑した。
兆した場所は、土方の手によって限界まで高められ、今にも泣き出しそうになっていた。淡く染まった耳朶に、熱い息を吹き込めば、華奢な背はビクリと撓った。
「では、このままだ」
甘みの残る冷たい声に、薄闇色の瞳が揺れた。
「土方さ・・」
「お前がどうされたいのか、俺にはわからねぇ」
しらりと告げた男に、泣き出しそうな視線を向ける。
それを堪能しつつ、冷たく問う。
「俺が、欲しいか?」
白い喉が、こくりと鳴った。
羞恥の余り、口を開けぬ総司に、言い含むように囁きかける。
「望みは口に出せ。そう教えたろう?」
「土方さ・・ん・・」
舌足らずな掠れた声音が、土方の耳に心地良い。
総司は、薄闇色の瞳をきつく閉じた。零れる涙が、幾筋も頬を伝い、細い左手が、縋るように土方の手指に絡められた。
覚悟したのか、それとも自棄になったのか、唇をわななかせる。
「早く・・・きて」
最後の言葉は、泣き声だった。
待ち焦がれた瞬間、待ち望んだ言葉。土方の胸に、泣き出したくなるような、狂おしい程の愛おしさが込み上げる。
追い詰めて、追い落とし、最後の最後に与えられる甘美な愛の言葉。
行儀の良い理性が情欲に挫け、ただ自分のみを求める迄、乱し狂わせる。
小さな泣き声までもが、土方を甘く蕩かす。
「いい子だ」
熱い昂りを押し当て、ゆっくりと刺し貫いてゆく。
蕩けきった場所は、絡みつくように土方を誘う。
「あっ・・」
「いくらでも呉れてやる」
絡めた手が、縋るように震え出し、どちらとも無く力が込められる。
チリと、痛みが走ったような気もしたが、土方もまた、甘い躰に酔っていく。
形の良い唇が、熱にうかされたように土方を呼ぶ。甘く掠れた嬌声が、強い雨音を打ち消してゆく。
愛しい者の身の内深くに、熱い飛沫を放った瞬間、土方の右手も、しとどに濡れた。
総司は、土方の名を呼びながら、意識を手離し頽(くずお)れた。
「総司・・」
土方は、誰よりも愛しい者の名を囁いた。
ぐったりと身を委ねる想い人の、額から髪に手を差し込み、優しく撫でる。しなやかな黒絹は、珍しく、指に引っ掛かり絡みついた。
元結なぞ疾うに切れ、乱れ散った髪が、細い面輪に影を作る。
「後で、結ってやらねぇとな・・」
抱き締めた恋人から、花の香りがした。
ふと見れば、黒絹の中に橙色の星が輝く。
土方は、唇で掬い上げ、その芳香をゆっくりと嚥下した。
「・・やはり、似合うな」
淡く染まった耳朶に囁きかける。
耳元での小さな呟きに、泣き濡れた睫毛が僅かに震えた。
幼き頃の、面影が見える頬に、そっと唇を押し当てる。
花も俯くような美貌と、誰もが届かぬ剣の才。二つが共に、この想い人に在る。
土方は、細い項に唇を寄せ、強く吸い上げた。
鮮やかに刻み込む、所有の印。
痛みにも似た刺激に、淡い色の唇から、小さな泣き声が零れた。
花の零れる気配を、視線の端に捉え、現(うつつ)に戻る。外は、朝餉の賑わいを見せ始めていた。
少しも進まぬ仕事の山に、とうとう筆を放り出す。
「先に、貌を見るか・・」
想い人を見ぬ内は、どうにも仕事に身が入らぬ。
「起こして、朝餉を養ってやらねば・・」
会いたさ故の、情けない口実に、一人、苦笑した。
昨夜の所業に、よもや熱でも出してはいまいか。
途端、心配と愛おしさが、綯交(ないま)ぜに土方を襲った。
土方は、甘やかな芳香を振りまき、咲き誇る金木犀に視線を向けた。「似てはいるが、到底及ばねぇ」
了
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