『雪間』―ゆきま―

 

 

冬の早朝。牛込柳町、甲良屋敷にある試衛館道場に慌しい足音が響き渡った。

 

「だから、どうして泣いているのです?」

「それがわからないから、若先生を呼びに来たのです」

響き渡る大きな足音も憚らず、勢いよく歩く近藤のすぐ後ろを、これも急ぎ足で追いながら、井上源三郎は、ほとほと困り果てた様子である。

朝餉の支度の途中だったか、袂はたすき掛けのまま。それを横目で見ながら、近藤は困惑を隠せない。

 

「熱のせいでは、ないのですか?」

「泣いて、体が熱くなっていますので、判じかねて・・・」

早口に言葉を交わしながら廊下を曲がると、もう、泣きじゃくる声が聞こえてきた。何かを伝えようとしているようだが、何の言葉にもなってはいない。

漸く部屋まで辿り付き、布団の上、激しく肩を揺らす小さな体を視界に捉えた。

その横には、端正な貌を憮然とさせている土方が、夜着のまま胡座をかき、行儀悪く座っている。

 

「宗次郎?どうしたのだ」

枕元に座り、やさしい声を掛ける近藤を見上げ、宗次郎はまだ言葉が紡げない。

しゃくりあげる度に、小さな肩が大きく揺れる。薄闇色の大きな瞳から、止め処もなく涙が溢れ、それは、見ている者の方が切なくなるような光景だ。

 

「歳・・・。一体どうしたのだ?」

「わかっていたら、とっくに泣き止ませる」

愛弟子の痛々しい様子に、すっかり動転した近藤は、土方に縋るような視線を向けた。視線の先の端正な貌は、苦々しく歪められている。その低い応え声に、土方の困惑もまた、隠せない。

 

見れば、宗次郎は真っ赤になっている。それが、昨夜からの熱のせいなのか、泣いているせいなのか、井上の言葉通り、見てもさっぱりわからない。小さな右手は、夜着の膝元を固く握り、左手は土方の袖元を掴んでいる。

「歳、宗次郎は何も言わないのか?」

「何も言わないんじゃねぇ。・・・言えねぇんだ」

それが、しゃくりあげ、声も出せない状態を指すのはわかる。

言葉の代わりと言わんばかりに、土方の袖元を握り締める小さな手。それをじっと見つめる近藤に、土方も苦笑した。しかし、土方が目覚めた時には、既に宗次郎は泣いていた。正確に言えば、土方は、宗次郎の泣き声に起こされた。

 

「どこか具合が悪いのだろうか・・・」

唸るような近藤の声に、部屋の入り口近くにいた井上もうろたえた。

「若先生・・・昨夜、医者を呼んだほうが良かったのだろうか?」

おろおろとした井上の声を背に受けながら、近藤が小さな額に手を遣ると、驚くほどの熱が伝わる。

 

「熱が高い・・・」

近藤は、見る間に険しい表情になった。

額に当てたままの大きな掌を、宗次郎は、むずかるように頭(かぶり)を振り、体を仰け反らせる。しかし、土方の袖だけは離さない。

動けぬ土方が、入り口の井上に声を掛ける。

「医者はともかく・・・源さん。悪いが白湯を持ってきてくれないか?」

井上は大きく頷くと、慌てて廊下を引き返す。土方は、とうとう息も継げずにいる宗次郎を、抱き上げ、膝の上に抱え込んだ。

 

「一体、どうしたってんだ?宗次郎」

激しく上下する肩に、そっと腕を回し、小さな頭を胸元に寄せた。

心の臓の鼓動を聞けば、少しは落ち着くかと思ったが、腕に伝わる早鐘のような宗次郎の鼓動に、逆に、土方は眉根を寄せる。

「泣いてばかりじゃあ、わからねぇぞ」

やさしい声音で問うものの、宗次郎は全く息が整わない。抱き込んだ体の熱にも、土方の表情は厳しくなる。

 

「・・・里が恋しいのだろうか・・」

痛ましげに見つめていた近藤の、方向違いとも言える呟きに、土方は貌を顰めた。

「そうじゃねぇだろう。大体、人恋しくて泣くんなら夜だろうが」

朝っぱらから泣かれては堪らない、と、言わんばかりの土方に、近藤は不安そうな目を向ける。

宗次郎が試衛館の内弟子に入り、二月(ふたつき)程が経つ。まだ九つなのだ。そろそろ里が恋しくなっても仕方ない。

 

「しかし・・・熱を出して心細くなったのではないか?」

「ここへ来て熱を出すのは、これが初めてじゃねぇだろうが」

「それはそうだが・・・」

「熱のせいで、愚図っているだけかも知れねぇ」

「そうだろうか」

「・・昨日は少し、遊びが過ぎたな」

苦笑いを浮かべる土方に、これは、近藤も頷くしかない。

 

 

数日の間、降り続いていた雪が漸く止み、久しぶりのお天道様の姿を見て、浮かれた気分になったのは雪遊びに興じた宗次郎だけではなかった。あまりに嬉しそうな様子に、近藤はともかく、土方までもが、その遊びに付き合った。

 

夕刻近く、呆れて止める近藤周助と井上に、珍しく駄々をこねたのも宗次郎だ。

夜になっても、はしゃぐ宗次郎を、流石に訝しく思った土方が、その額に掌を当てた時には最早、驚く程の熱があった。慌てて布団に押し込めたは良いが、まだ雪が見たいと駄々を言うのは、果たして高い熱のせいか、過ぎた遊びのせいだったのか。

 

 

「昨夜は熱を出しても元気だったじゃねぇか」

昨夜の様子を思い出し、うんざりとした貌をする土方だが、冷たい応えを返しながらも、しっかりと宗次郎を抱き込み、あやすようにやさしく頭を撫でている。

「歳・・・。これ位の年頃は難しいのだ」

十九歳の近藤の、まるで父親のような話し振りに、土方は吹き出した。

「こいつが寂しいのなら、すぐわかる」

笑い含みの土方の、素っ気無い応えに、近藤は感心したような貌をした。

「歳、お前そんな事がわかるのか?」

「見てりゃわかるだろう?」

「・・・俺にはさっぱりわからんが?」

不思議そうに首を傾げる近藤に、やや呆れたような視線を向けた土方だが、ふと、胸元に貌を埋める宗次郎に視線を遣り、再び小さく笑い出した。

 

「何だ、歳・・・いきなり」

その親友を諌めるように、近藤の声が硬い。土方の笑い声にも、宗次郎はまだ貌を上げない。肩の揺れは激しくなるばかりだ。

「考えてみりゃあ、男だから泣くな。と何故言えねぇんだか」

「ああ・・・」

近藤も、苦く笑った。

 

宗次郎の容貌は、その華奢な体つきからも「男の子だから」と言う形容を付け難いものがある。小さな面に形良く収まるふっくらとした赤みのある頬も、形良い唇も、何より大きな薄闇色の瞳は「男の子だから」と言うには、遠くかけ離れている。

それでも、このやんちゃなチビ助は、男と言われれば泣き止むだろう強い気()を持っている。

しかし、流石に、ここまで泣かれては、理由を問うのが先決だ。

 

「一体、何があったやら」

溜息混じりの土方に、近藤の方は遠慮なく大きく息を吐く。

廊下の先から、井上の足音が聞こえてきた。普段に比べ、余程落ち着かぬ急いた足音に、井上の慌てぶりもまた露である。

 

「歳さん。白湯を持ってきたが・・・」

「ああ、すまねぇ」

片手で受け取ろうとするが、それを制し、近藤が先に手を伸ばした。

「歳、飲ませると言っても、これ程泣いていては、咽(むせ)てしまう」

「若先生、菓子でも買って来ましょうか?宗次郎にはその方が良い」

「しかし、こんな早朝では店も開いてはいまい」

厳つい貌を泣きそうな程、歪ませている近藤と、これも気の毒な程、狼狽している井上の、二人を交互に見比べ、土方は呆れ顔だ。

 

「二人とも・・・甘やかすんじゃねぇよ」

仏頂面の土方に、近藤は厳しい目を向ける。

「何を言っている歳。これ程熱が高いのだ。苦しくて泣いているのかも知れないぞ」

「若先生・・・やはり医者を呼びましょうか?」

「・・・・・・」

土方は、言葉も無い。子煩悩な親父が二人・・・いや、近藤周助を加えれば三人か。

 

「泣いていても、白湯くらいは飲める」

乱暴に言い捨て、膝の上の宗次郎を片腕に抱え込む。不満げな近藤から白湯を取り上げ、口元に運ぶが、激しくしゃくりあげていて上手く飲ませられない。やはり、泣き止ませるのが先のようだ。土方は溜息を吐く。

 

「源さん。菓子はいいから、粥を作っておいてくれ」

「粥?」

不審そうな井上の声に、土方は渋面のまま頷く。

「ここまで泣けば、具合が良かろうが悪かろうが、床につく」

「そう言えば、昨夜もあまり喰っていなかった・・」

井上は、再び急ぎ足で台所へ向かう。

 

 

「と・・しぞうさん・・」

宗次郎が、漸く紡いだ言葉は先ず、土方の名だった。そこまでをやっと言葉にして、宗次郎はしゃくりあげる。次の言葉が紡げるまでは、刻が要りそうだった。それを近藤、土方は、宗次郎に貌を寄せ、静かに待つ。

「う・・うさ・・ぎ・・・」

そこで、宗次郎の大きな瞳から涙が溢れ出た。やっと紡がれた言葉に、土方は眉根を寄せ、近藤は見るも気の毒な程に狼狽した。

「・・うさぎ・・・と言ったのか?」

首を傾げながら低く呟く土方に、近藤は、おろおろしながらも土方を睨みつける。

 

「歳・・・お前が何かしたのではないだろうな・・うさぎとは何だ?」

「人聞きの悪い言い方をするなっ。・・うさぎって言えば、あの兎だろうが」

「どうして兎が出てくるのだ?」

「知らねぇ・・・最近、喰ったか?」

最後の問いに、宗次郎は、打ちのめされたように体を強張らせ、零れ落ちるのでは、と思う程、目を見開いた。そして、薄闇色の瞳から、留め様も無いと言わんばかりに涙が溢れ返り・・・とうとう声を上げて泣き出した。

 

「と、と、と、歳っ」

「鶏(とり)みてぇに呼ぶなっ」

大音声の近藤に、土方は鋭く怒鳴り返す。

土方にして見れば堪らない。腕の中の宗次郎は、火がついたように泣き続けるし、動揺する近藤には大きな声で怒鳴られる。泣きたいのは余程に自分の方だ、一体全体どうなっている。

「おいっ、宗次郎っ」

土方は、小さな肩に手を掛け、その貌を上向けた。宗次郎は涙を零しながらも、固く目を瞑っている。

「目を開けろっ、兎がどうしたっ」

「歳っ、何も怒鳴らんでも良かろうっ」

近藤の響き渡る声に、短気な土方も怒鳴り返す。

「五月蝿えっ、このままじゃ埒があかねぇっ」

 

目を開かぬ宗次郎に焦れ、土方は、宗次郎の額に自分のそれを当てる。ふいに触れた冷たい感触に、宗次郎は薄っすらと目を開けた。間近にある土方の双眸に、濡れた瞳を向ける。

「一体どうした?・・・兎が何だ?」

土方の静かな声音に、宗次郎の強張りがやや解けた。再び息が整うのを、二人は辛抱強く待つ。

「う・・・さぎ・・・が・・・」

「ん?」

傍近くに貌を寄せる近藤が、これも、やさしく先を促す。

「し・・しんでしまっ・・・」

続く言葉は、再び溢れ出る涙に封じられた。しかし、言葉は充分に補えた。

宗次郎と額を合わせたままの土方と、横に座る近藤は互いに視線だけを交わす。

(喰ったのか?)

と、ゆっくりと口の形だけで土方が問えば、近藤は否と首を振る。一体、何処の兎が死んだのか――。

 

 

「あっ」

声は、二人の口から同時に洩れた。

近藤、土方は、再び目を合わせ、ゆっくりと枕盆に視線を向ける。熱さましの薬湯を入れた盆の隣に、もう一つ、盆が置いてある。

それは昨夜、土方が置いたものだった。

中には・・・盆の半分程を満たす水、そして水の中、南天と葉がゆらゆらと揺れている。

「・・・雪兎・・・」

近藤の小さな呟きに、土方は無言だった。

 

 

昨夜、高い熱にも関わらず、外に出る、と駄々をこねる宗次郎を、大弱りで宥める近藤。

それを、部屋の入り口から見つめていた土方だったが、無言でその場を離れていった。

暫くして戻った土方が、宗次郎の枕元に置いた盆には、一羽の雪兎。

「それで我慢しろ」

ぶっきらぼうに告げる土方を見上げ、宗次郎は嬉しそうに頷いた。

それを、飽く事無く見つめていた宗次郎が、そのまま寝入り、近藤、土方も一安心したのだが、まさか・・・。

 

 

笑ってはいけない―――。

宗次郎は必死だったのだ。決して笑っては――。

 

――しかし。

・・・堪え切れなかったのは近藤だった。

 

 

「・・・勝っちゃん・・・」

呆れた様に睨みつける土方を見ながらも、近藤の笑いは、ようよう納まらない。

とうとう、厳つい貌に涙まで浮かばせる師の姿を、宗次郎も大きな瞳から涙を零したまま、無言で見つめている。

小さな体を再び胸元に引き寄せ、土方は静かな声音で語りかけた。

「いいか?宗次郎。・・・雪兎ってのは、いつまでも地面にはとどまらねぇもんだ」

宗次郎は土方を見上げた。笑いの止まらぬ近藤は、申し訳なさそうに廊下へ出る。

 

「・・どうして?」

「雪は融ける。融けて水に戻り、水は地面に染み込んで土に還る」

静かに応える土方に、宗次郎は涙で潤んだ瞳でその貌を見つめた。

「雪だけじゃねぇ。形ある物は全て土に還る。それが、この世の理(ことわり)だ」

「すべて・・?」

「そうさ。俺も近藤さんも・・お前も、な」

土方は、指で頬の涙を拭う。宗次郎はじっと土方を見上げている。

 

「でもな、思いってのは残るさ」

「思い・・・?」

「ああ。それを大事にした・・・大切に思っていたっていう気持ちだ」

「うさぎ・・大事だった・・・」

「なら、お前が忘れなけりゃあいい」

「忘れない」

見上げる宝石の瞳に、土方は口元だけを引いて頷いた。

「それでいい」

漸く涙の止まった宗次郎に、土方も、部屋の入り口で、何とか笑いを押し込めた近藤も、一息吐いた。

 

「あまり泣くと、涙が無くなるぞ」

軽い口調で、いつもより赤い頬をつつくと、土方は再び白湯を取り上げた。小さな体を抱え込んだまま、ゆっくり口元へ運び、今度はきちんと喉へ送り込む。

それから、宗次郎が掴んで離さない袖元から、何かを取り出した。

「宗次郎、口を開けろ」

土方の言葉に、素直に従う宗次郎の口に、それがポンと放り込まれた。

「甘い・・」

「飴玉だ。・・・源さんが粥を作っている。それを喰ったら寝ろ」

「もう起きる」

「熱が引いたら、な」

頭を撫でる土方に、宗次郎がやっと笑顔を見せた。

 

 

 

宗次郎を寝かし付け、自室で寒そうに着替える土方を、後から部屋に入った近藤は、面白そうに眺めている。

 

「・・あれは、目が腫れるな」

笑い含みの近藤に、袴の紐を締めながら、土方が面倒そうに応える。

「額の手拭を代えるときに、目も冷やすさ」

「そうか」

当然の如く、看病を請け負う気でいる親友の応えに、近藤もつい笑みが零れる。

「何だ?」

「いや・・」

近藤の笑いを咎めるように、土方の仏頂面は崩れない。

 

僅かに開いた障子の隙間から、雪の舞うのが見え出した。それを横目で睨み、土方がうんざりとした貌をする。

「・・また降って来やがったな」

「ああ、また積もりそうだ」

結局、晴れたのは、昨日の一日だけだった。

僅かな雪間(ゆきま)を惜しむのは、近藤、土方だけではないだろう。しかし、晴れればきっと、外に出たがる宗次郎にとっては、丁度良い天候やも知れぬ。

 

 

「ところで、歳。・・お前、いつの間に飴など用意した?」

思い出したように訊ねる近藤に、土方は平然と応える。

「宗次郎には甘い物だろう。そんなの決まり事だ」

近藤は呆れ返った。

 

「お前・・俺や源さんが、宗次郎に甘いと・・・良く言ったものだな」

刺々(とげとげ)しく抗議する近藤に、ちらりと視線を向け、口元を引いて笑みながら、土方は応える。

 

「・・・俺があいつに甘くないと、いつ言った?」



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