今、手元に三冊の生原稿がある。「おれたち青谷子供会」「ぶっこんでやれ 第一部」と「第二部」。どれも主人公が生まれ育った故郷の地を24歳で捨て、上京するまでの出来事を実に生々しく描いた自叙伝である。 主人公、元井 祐治。本名 羅 祐治(ナ ユンチ)。在日韓国人として三重県津市に五人兄弟の末っ子として生まれる。自他共に認める”永ちゃん”似のイイ男。「若い頃はテカテカのリーゼントでようモテたわ」とは本人の弁。歳は私より四つ上だが、初めて会ったのはお互いまだ20代で、興味本位で行った役者養成所のワークショップであった。 普通は動きやすいようにとラフな格好の連中が多い中、彼だけがTVドラマ「大都会」の渡 哲也のような三つ揃いを着て参加していた。”何やー、こいつ!?、けったいな奴っちゃのー”と笑いを堪えていたのでよく憶えている。またこれが、やたらと私の視界に入る位置に来てはガンを飛ばしてくるのである。ようやく授業も終わり着替えを済ませ外に出ると、「おいっ!」と彼に声をかけられお茶に誘われた。店に着く間、彼は拳銃を構えるポーズを取り、何かしらに狙いを定め「ヅキィーン」と言っては何者かに成りきっていた。すると突然照準を私に向け「俺は在日韓国人だ!!」と言って睨み付けてきた。『それがどないしたんよ、のー』「・・・」『そんなもん関係あるかい!何を言うとんねん。アホちゃうか?』一触即発−−−と思いきや、今度はニっと笑い如何にも芝居がかった台詞まわしで「君とは永遠のライバルになれそうだ」ときた。その時『何やコイツ、ホンマに!?』と心底思った。その後、生まれが隣県という縁もあってか”ケンちゃん””祐ちゃん”と呼び合う仲が現在まで続いている。アクション俳優を目指していた彼は常にボクシングやジョギングで身体も鍛えていた。映画にも詳しく、スティーブ・マックィーンが大好きでよく物真似をしては楽しませくれたり、市川 雷蔵の写真集を買ったと言っては私の当時のアルバイト先に来て、「拙者、なんたら〜かんたら〜」と言って一人で立ち回りを演じていたこともあった。と、ここまで書くと単なる役者バカとしか思えぬ男の話だが。。。。 何度か彼の生まれ育った環境や家庭事情などを聞かされたこともあったが、この度、初めて詳しく描かれた自叙伝を読ませてもらい、それはそれは筆舌に尽くしがたい凄まじい程の鬼畜の光景がそこにあった。差別、貧困、罵り、策略、暴力、裏切り、家庭崩壊。。。。当然のごとく、やがて10代半ばの多感な少年は、やり場のない鬱憤のはけ口を求め狂気に疾走する。「ぶっこんでやれ」である。1974年、おりしも暴走族が全盛の頃、彼も”外道”という族の頭をはり、毎夜喧嘩の相手を捜して暴れ周り”外道の祐治”としてその名を轟かせていった。そう言えば彼の憧れるマックィーンも家庭環境に恵まれず、不遇の青春時代を経験した後、俳優養成学校に入学しているが、どこかで自分自身を投影していたのかも知れない。 20歳も過ぎ、「いつまでもこんな事してられへん」と、族も辞め以前にも増してミツバチの如く真面目に働きまくる。相変わらずの修羅場と化した家庭環境ではあったが、”こんな狂った親でも、やっぱり親は親だ。世界中で、たった二人の親じゃないか”と我慢を重ねる。やがて本気で付き合い結婚を考えた女性も居たが、結局、人種差別の壁には勝てず破談。彼は決心する。「よしっ、映画の世界に行こう!東京へ行って勝負したろ!俺がこの家で、この土地で、どれだけさげすまれて虐げられて来たか!忌々しい想い出。辛かった事の想い出も、もう終わる。この家を出たら忘れられる。忘れよう、努力しよう。それしか生きる道が無い。そして、夢を追って何処までも走って行こう。」コツコツ貯めた百万円を両親に渡し、二度と帰らぬ覚悟で上京。 その後、波乱の人生を重ねながらも泥沼に陥ることなく逞しく生きている。 現在、彼はその豊富な体験と知識を活かし、執筆行に勤しんでいる。一日も早く映画化されることを願ってやまない。
”人は皆平等で有り。 生まれたからには、 生きる権利が有る。 人が人を差別する権利は無く、 人に差別を受ける義務も無い。” 「ぶっこんでやれ 第一部」より
11、02 (け) |