第27号  悲しき早期教育



「水を飲む」「牛乳を飲む」「本を読む」
そんな2語文を書いたカードを5枚並べて、私が「水を飲む」と言うと、
娘はハイハイで取りに行って、「水を飲む」というカードを選んで私に渡してくれた。
私は、誇らしい気分で満足した。
アメリカのゴリラのカンジーも、こんなふうに漢字カードを読んでいたっけ。

ドッツ・カードもやった。
半径1cm2mmくらいの赤い丸が描いてあるカード。
赤い丸が88個のカードと89個のカードを同時に見せて
「どっちが多い?」と聞くと、すばやく89個の方を指さした。
これは、面白くってたまらなかった。
わたしにだって、そんなもん区別つかなかった。
だのに、まだ、歩けもしない我が子が、パッと正解するのだ。こんな面白い話はない。



近所にたまたまあった幼稚園がシュタイナー教育を取り入れた園だった。
近所なので通りがかりに園の様子を見たことはあった。
白黒写真みたいに地味な幼稚園だなぁー、くらいにしか思っていなかった。
入園説明の日、私はかつて感じたことのない暖かい感動に震えていた。
帰りながら、涙が湧いた。

あの感動はなんだったのだろう。
ゆったりした時間の流れと暖かい空気。今まで味わったことのない感覚だった。
先生たちは暖かかった。わざとらしい大声やこびるような笑顔はなかった。
私は園のその雰囲気に感動していた。

運良く入園させてもらった私たちは、いろいろなカルチャーショックを味わいながら3年間を過ごした。
文字は名札にも使わない。数字を見せないように保育室には時計も置かない。
「3歳で一人遊びをたっぷり、4歳になったら二人遊びをじっくり、
5歳になれば三人以上で遊べるようになる」

そのセリフを先生から聞かされるたびに、私は「一人遊びってなんなんだ!!」と、心で叫んだ。


幼稚園に入るまでの三年間、早期教育に励みつつ、私は我が子と大変楽しく遊んだ。
子どもをひとりで放っておくことがなかった。家事はこどもが昼寝している間にすませた。
入園したばかりの頃、我が子は一人遊びなんかできなかった。
でも、一人遊びができないなんて私は思いたくなかった。
第2子の誕生もあって、上の子と私の関係は変わらざるを得なくなった。私はあせった。
御飯の支度をしていると、「お母さん」と、私のそばにやってくる。
今までなら、仕事の手を休めて相手になった。それなのに、私はそれができなくなった。
気がつけば、私は、「一人で遊びなさいよ!」と、娘にどなっていた。
娘が「やって。」と言えば、「自分でやりなさい!!」と、どなり、
娘が泣くと、うるささに負けて結局やってあげた。
娘はついに長い木の棒を持って私に向かってきた。
私は、その棒を取り上げ、娘の背中をバシッと叩いた。
もう、ぐちゃぐちゃだった。


下の子には、一度も早期教育をしていない。
生まれたときから、木の手作り積み木や赤ちゃん人形を抱っこしていた。
上の子のときには、ウェーンと泣けば飛んで行った。
下の子の時は、そうばかりできなかった。
泣いていても「ちょっと待っててね。」と言って待たせているうちに、
自分で問題を解決して泣きやんでいた。
放っておかれることで、下の子は自分の大事な時間を持つことができた。
今、彼女は一人遊びがとてもうまい。
木の積み木と小人人形だけで小1時間、独り言をいいながら、ファンタジックに遊ぶ。
今日は、一人で洗濯鋏を魚に見立てて魚釣りごっこに没頭していた。
こういう遊び方、上の子はしなかった。



早期教育は、与える教育だ。
上の子は今でも、与えられるのを待っている。
与えられたものはおとなしく受け取るが、自分からなにかをつかみ取ろうとしない。
小さい時に私がしたことの結果だと思い、今でも、彼女のそばに私はくっついている。
彼女もまだ、それを望んでいる。

シュタイナー教育は、子どもの中にある力を引き出す教育だ。
下の子には、いつも、自分の力で生きようとするたくましさがある。
第2子だからかもしれない。
でも、私が与える教育をしなかった結果でもあると思う。


今、思えば、早期教育は親の趣味にすぎなかった。
子どもの頭を利用して大人が楽しむ自分勝手な遊びだった。
子どもは、自分の力で自分の速さで大きくなりたいのに、
大人は、その環境を上手に用意してあげればいいだけなのに、
私は、知的なことを赤ん坊の頭にやたらと詰め込み、
頭でっかちで生きる力のない子をつくろうとしていた。
よかれと思ってやっていたこととはいえ、今となっては、子どもに申し訳ないことをした。
でも、やってみたから、わかったのだ。やってみなければ、今でも、悔いを残していただろう。

子どもには子どもが成長したい速さがある。子どもを急がせてはいけない。
ゆっくりすぎて、大人からみれば、はがゆい時もあるだろう。
だけど、ゆっくり進む時間の中で子どもの心はじっくり育っていく。
大地に足をしっかりついて、自分の心と体を十分使って育った子は大きくなってキレナイと思う。
見せかけだけの成長は、危うい。
知的なものは大きくなって、その意志さえあれば、いくらでも吸収できる。
しかし、子どものときにしか吸収できない心と体の育ちは、
大きくなってから、「足りませんでした」と、簡単に補給できるものではない。
だから、あわてないで、今しかできないことを今させてあげたい。

私は、3年で早期教育をやめた。やめてよかった。
迷いながらも、その後は、シュタイナー風に育ててこられた。
そのおかげか、もともとの性格か、親に似ただけなのかは知らないが、
今、うちの子たちは、みんなユニークで面白い。
やりたいことを親に遠慮なく、いっぱいしているから、人生楽しそうである。





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