出発



梅雨の合間のある晴れた日、
道を歩きながら、この春シンガポールに転居した友人を思い出した。
そして、会いたいと思った。
引っ越したときから、もう帰国するまで会えないと私は思いこんでいた。
が、その日、私はなぜか突然思いついた。
「そうだ。シンガポールへ彼女に会いに行けばいいんだ」

何度か海外旅行の経験はある。
でも、いつも夫の提案で、何からなにまで夫任せの旅行だった。
夫に相談すると、すぐに賛成してくれた。
そして、たちまち飛行機とホテルの予約をしてきてくれた。
遊ぶことに関しては、なんとも行動の素早い夫である。

海外旅行は楽しいけれど、一番イヤなのが、帰りの荷物。
疲れている上、増えてしまった荷物を持って、
電車に乗ったり、階段を登ったり降りたり・・・
思い出しただけでも疲れてくる。
が、最近、成田に”飛行場までの送迎バスつきの駐車場”がたくさんできた。
都内の駐車場は20分100円だから、4泊5日で5000円は格安だ。

成田の駐車場に車を預け、送迎バスで飛行場につくと、
5歳の娘が「もう飛行機に乗ったっけ?」と言った。
8歳の娘は「もうシンガポールについたの?」と言った。
「オマエらねーーーー」
私は呆れた。
が、子どもにしてみれば、
外国とか海外とか言われても、房総へ行くのとあまり違わない。
海の向こうと言われてもよくわからない。
地球はみんな地続きだと思っている。

「シンガポールには、ゴミが落ちてないそうだ」
なんて話を聞いていた長女は異国文化の違いに多少緊張していた。
下の子は、南国=バナナの固定観念があって、
バナナの木に自分で登り、それを採ってきて、
幼稚園のみんなへのお土産にすると主張していた。
が、バナナの木が自然天然に生えているほど、
シンガポールは田舎ではなかった。

  

シンガポールのホテルにつき、チェックインしている間に、
8歳の娘は、
リゾートに来ているオーストラリア人の大きなおじさんに英語で話しかけられた。
娘はなにも答えず、体をこわばらせた。
英語の聞き取り能力の低い私がしどろもどろに答えた。
おじさんに話しかけられたことで娘はすっかりひるんでいた。
部屋についてから娘は泣き出した。
「シンガポールはイヤだ」「こわい」「帰りたい」
果ては、「海の水があふれてくる」と言い出した。

取り乱しながら、娘は、自ら進んで机に向かい、算数ドリルをやり始めた。
家でも雷が鳴ると、すぐ勉強したくなる癖がある。
勉強すると雷様が退治できると信じているのだ。
彼女なりのまじないらしい。
ドリルが終わると、落ち着きを取り戻し、
それから、楽しいホテル生活が始まった。

次の朝、ロビーを通ったとき、子どもたちが
「きのう、ここでオーストラリアのおじさんに会った」
と、言い出した。
5歳の娘は、「おじさんは真っ赤な顔だった」と言った。
レストランでまたそのおじさんに会った。
人の肌が真っ赤であるはずがないという先入観でものを見ていたせいか
初めて会ったとき、私には彼の顔が真っ赤には見えなかった。
でも、そう言われて見ると、確かに真っ赤な顔をしていた。

レストランでコーヒーに入れるミルクが欲しくて英語でミルクを頼んだ。
下の子が、なにか日本語をしゃべったら、上の子が殺気だって「シィ」っと言った。
そして、小声で私に尋ねた。
「シンガポールでは、英語しかしゃべっちゃいけないの?」
普段、日本語しか話さない私が英語などを使ったものだから、
上の娘はマジで「英語でしゃべらないと警察につかまる」と想像したらしい。