第55号   その1



私は裏口で母が来るのを待っていた。母のサンダルと妹の靴を並べて。
こうしていれば、私は必ず一緒に連れて行ってもらえると思ったんだ。
たぶん、4歳くらいころだった。
私の実家は商売をしていて、買い物に行くとき、母はいつも裏口からサンダルを履いて出て行った。
その日、私は母に叱られた。
母はツンツンしながらほうきで部屋を掃いていた。
私は、もうすぐ、母は買い物に行くだろうと感知した。
きっと、このままだったら、一緒に連れて行ってはもらえまい。
そう思って、私は裏口にサンダルを並べて待っていたのだ。

ずいぶん待った。
遅すぎると思った。
私は、はたと気がついた。表のお店から出ていったのかもしれない。
私は、家の中を歩き回った。
広くもない家だったが、私は「おかあさーん」と呼びながら泣き、部屋をぐるぐる歩き回った。
どこにも母はいなかった。
記憶はここまでだ。
問題は解決していない。



小学校4年生のとき、学校で猩紅熱(しょうこうねつ)というのが流行った。
給食の時間に「猩紅熱が流行っているので気をつけるように」という放送があった。
そのころ、私は伝染病に異常反応するほど伝染病恐怖症で、
その話がこわくて恐ろしくてたまらなかった。
夜中、私はいつになく恐ろしい夢を見て目を覚ました。
猩紅熱にかかったどこかの家族4人が向こうから歩いてきて私の横を通り過ぎていくのだ。
夢の中で通りすがっただけなのに、
私は猩紅熱がうつったのではないかと思うと恐ろしくて寝ていられなかった。

あれは、私にとって初めで最後の母を求めたときだった。
恐ろしさに震えて、私は思いきって母の寝ている部屋へ行った。
「なに?」
目を覚ました母に夢の話をしただろうか。覚えていない。
たぶん、作り笑いをしながら、
「こっちで寝る」
と、言うのがやっとだったかもしれない。
母は黙って私を抱きしめてくれる様なことはなく
一分もしないうちに
「狭くってしょうがない。」
と、言って、布団から出て、私の部屋に行ってしまった。
そのまま母は空いてる私の布団で朝まで過ごした。
私はそれからしばらく眠れなかった。
夏だったのか、窓が開いていた。
私はその窓から商店街の街灯の明かりとそれに群がる虫たちを眺めていた。



就職して1年たったとき、なんのことでか、母と喧嘩した。
母は、「母さんがいなければなんにもできないくせに偉そうなことを言うな。」と言った。
私はその日のうちにアパートを借りて、出て行った。
母がいなくてもなんでもできると思った。実際そうだった。


結婚してから、毎年、年越しを夫の家でするのが不満だった。
まだ自分の実家に未練があった。
ある年、初めて私は実家で大晦日を過ごした。
あんなに楽しみにしていたその日だったのに、寝る前、母は私にこう言った。
「いつも、向こうに行くのに、どうして今年はこっちに来たの。
 お前たちがいると、いつものようにやれなくて困る。」
私は二度と泊まるまいと心に決めた。


が、子どもが生まれたとき、また世話になるはめになってしまった。
母は昔の子ども部屋を私に貸してくれた。
部屋にあるティッシュやかごを自由に使ったら、怒られた。
「ここはお前のうちじゃないんだからね。勝手に使うんじゃない。」
母は自分のイメージに忠実な人で、人が勝手な行動をするのが許せない。
ある日、私は母になにか言われて4時間涙が止まらなかった。
その話を夫にすると、「すぐに帰ってこい」と言ってくれた。
実家に行って2週間目、私は自宅に戻った。

第2子が生まれたとき、子どもが未熟児で退院できず、私だけの退院になった。
実家の両親は私を迎えに来てくれた。その車の中で母は私にいろんな不満を言った。
母が私になにを言おうとしているのか私にはわからなかった。
「私のどこが悪いのか教えてください。それがわかれば、なおすから。」
そう言うと、母は
「そういう口の訊き方が憎らしい。」
と、言った。その後、決定的なことを母は言った。
「お前と会う度に私はお前と縁を切りたいと思っていた。」
その他にもいろいろなことを言っていたが、それしか覚えていない。
私は、泣きながら「ごめんなさい。」と言った。
なぜ、謝らなければならないのかわからなかったが、そう言わないといけないと思った。
実家には帰らなかった。
もう、二度と会いたくないと思った。

縁を切りたいには驚いた。バカな母だと思った。
縁なんか切られたって、私は痛くも痒くもない。
縁を切られて困るのは、そっちの方だろう。
自分が倒れたとき、誰の世話になると思っているのだろう。
縁を切ってくれて私が母の介護から逃れられるなら、こっちは願ってもないチャンスだ。
私にとって、縁を切られるというのは、その程度のことだ。
母は私と縁を切ってどうしようというのだ。

私が母の悪口を言うと姉がいつも戒める。
「でも、お母さんはあなたのことを目の中に入れても痛くないほどかわいいと思っているのよ。」
だったら、そういう態度をとれと言いたい。
「でも、愛してるのよ。」
でも、愛してるだって!!
愛してるの前に「でも」なんかつけるんじゃねえ。

母の縁切り発言から5年たつ。
私はあれから実家に行かない。
母の方からこっちへ来ることは拒まない。
真面目に本音を話すことはなくなった。
当たり障りのない世間話を2時間くらいして帰っていく。
子どもたちは喜んでいる。母も孫の顔を見て喜んでいる。
「愛情の表現が下手なのよ」と姉は言う。
私は、それでも許せない。
下手な人はなにをしてもいいのか。
人を傷つけてそのままにしておいていいのか。

もう、いい加減にお母さんを許したらという神様の声が聞こえる。
もっと大人になりなさい。
親を大事にしなさい。
親への感謝が足りないぞ。

だけど、私が母になにをしたというの。私はいつもいい子だった。

   

私は人にとてもやさしい。
誰のことも大抵許せる。
それなのに、母のこととなると、すぐムキになる。許せない。
もしかすると、世界中の許せないことをすべて母に任せているのかもしれない。
母がいるから、他の誰かを許せるのかも知れない。
私がHAPPYに生きているのは、母のおかげかもしれない。
感謝しなくちゃいけない。

TOPへ 会報一覧へ 前ページへ  「母その2」へ