セブンを撮った場所 番外篇



「怪奇な京都を巡る」







04年12月 「怪奇な京都を巡る PartU」



冬の京都はホントに寒い


靴の裏から寒気が襲ってくる冷え方は、京都ならではだ。前回
の教訓から倍量の靴下を詰め込んで、05:29品川発の普通列車
で西へ向かった。青春18キップの利用である。

東海道の車窓を楽しむこと約8時間。いよいよ京都に着いた。
移動の便と大浴場付きで決めた宿は、西洞院通四条下ルの「三
井ガーデンホテル京都四条」。ああ明日も冷えるのか…。


1日目


西本願寺→祇園町南側→新門前通→知恩院三門→赤傘の店
→三面大黒天→金戒光明寺→銀閣寺→妙顕寺→光悦寺




京の街には自転車が良く似合う


「怪奇な京都を巡る PartU」の第一日目は自転車だ。この日
は市街地のロケ地を回る予定なので、より多くのロケ地を巡れ
るようにと機動性を重視した。ホテルで一日
500円のレンタサ
イクルを借りる。京都の宿泊施設は、大抵レンタサイクルを持
っているので便利だ。
朝8時の朝陽は弱々しい。空気も凍てついているようだ。気合
を入れて、意気揚揚とペダルを踏みだした。



西本願寺門前正面通

平坦に思える京都の街だが、洛北から京都駅方面へかけて、な
だらかな勾配がある。そのため、北から南に向かう方が楽であ
る。勾配に乗って西洞院通りを南下する。五条通りを越えると
ほどなく正面通りと交差した。右折して
150mほどで西本願寺
御影堂門に突き当たる。

正面通りの名称は、豊臣秀吉が建立した方広寺の正面にあるこ
とに因んでいるが、実際の通りは、東西本願寺の敷地に分断さ
れていて飛び飛びとなっている。


西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、山号は龍谷山。織田信
長の侵攻で力を落とした本願寺の再興を懸念した徳川家康によ
って、
1602年(慶長7年)に東本願寺を分派した。分立した東
本願寺は浄土真宗大谷派の本山となった。

三沢と野村が統三を尾行するシーンが撮影され
たのは、西本願寺御影堂門前に直交する正面通
りの仏具街である。
撮影カットは、正面通りと油小路通りの交差点
から始まり、正面通りを歩く統三、西本願寺に
向かう背姿、と続く。
画面に写るモスクか東方正教会を思わせるエキ
ゾチックな建物は伝道院。建物は健在であるが
改修工事のためか、覆いに囲まれていた。





祇園町南側
                 

祇園へ向かう。花屋町通りから六条通りを経て、河原町通りを
北上する。四条河原町の混雑を避けるため、途中の松原通りを
右折して鴨川へ向かう。

祇園とは平家物語で記された「祇園精舎の鐘の声…」の祇園精
舎があったからではない。平家物語の祇園精舎は、カレーの国
にあるお釈迦様が悟りを開いて説法した所のこと
そもそも祇園の地名は、「八坂さん」と親しまれる「八坂神
社」の古名に由来する。明治維新の神仏分離令で八坂神社とな
ったが、以前は祇園社・祇園感神院・祇園天神社などと呼ばれ
ていた。往時の祇園の寺社名は仏教の聖地「祇園精舎」からと
られ、その門前に栄えた町は、いつしか「祇園」と呼ばれるよ
うになったという。


「呪いの壺」タイトルバックが撮影されたのは、祇園町南側に
「歴史的景観保全修景地区」として整備された花見小路通りの
二筋東側にある小路である。

川端通りを北上して四条通りへ。師走の京の風物詩、顔見世興
行の「まねき(役者名看板)」を連ねた南座を過ぎ、二つ目の
信号が花見小路との交差点である。角の大店は、仮名手本忠臣
蔵にも登場した、祇園で最も由緒のあるお茶屋「一力亭」。幕
末には、近藤勇や大久保利通らも出入りしていたそうだ。


一力亭の角を右に折れて、観光客で賑わう花見小路通りを南下
する。左に入れる四つ目の交差を左に入る。そして二つ目のT
字交差を左へ。割烹と旅館の間の路地だ。京簾を吊るした昔な
がらの町家が建ち並ぶ。路地の中ほどで、そっと振り返ろう。






そこでは「呪いの壺」の世界が始まっていた。





祇園新橋通り

花見小路を北上して、四条通りを渡る。左手に京都コテコテラーメンの
雄「てんいち」こと「天下一品」がある。そのすぐ先で、新橋通りと交
差する。左折すれば「重要伝統的建築物保存地区」に指定された「祇園
新橋地区」である。花街(かがい)として発展した名残りが、最も色濃
く残る地域だ。
芸舞妓は「屋形」という置屋に所属し、お座敷の声がかかると出かけて
ゆく。その行き先が「御茶屋」である。御茶屋は、宴席の場を提供する
だけなので、料理は仕出屋からとる。ここ祇園新橋や先ほどの花見小路
に残る古い町家の多くは御茶屋であった。
古い町家を保存するためには、こまめな補修が必要で、当然多額の費用
が掛る。しかし、社会環境の変化などにより御茶屋営業は、厳しい状況
に追い込まれた。そのため御茶屋の経営者たちは時代の趨勢とともに、
固定収入が得られるテナント経営を望むようになったのだ。
かくして、かつてのお茶屋は新興資本の草刈場となる。見てくれは町家
でも、中身は今風レストランみたいな軟派な路線が敷かれてしまった。
花見小路も新橋通りも古くから続く店はごくわずか。観光客ウケする、
いかにも京風、という店がほとんどだ。それも他地域で台頭した外食産
業の手に依られるものがほとんどだ。
時代の流れ、といってしまえばそれまでだが、うわべだけの「京都」が
いつまでも続くわけはない、いや続いて欲しくない。しかし、彼らの資
本に助けられなければ、町並みの保全がままならないのも事実なのだ。
まったく矛盾だらけである。

                   





新門前通り

新橋通りの一筋北側に新門前通りがある。右折すると東山通りとT字に
交わる。この通りの中ほどに、「市井商会」として撮影された古美術商
店が現存している。

虫籠窓のある平入り切妻造りの町家は、軒にクーラーの室外機を乗せて
はいるものの、当時の雰囲気をそのままに伝えてくれている。


※虫籠窓…むしこまど。
     建物正面二階に設けられる窓のこと。枠や格子ごと漆喰など
     で塗りこめることからこう呼ばれる。


                   





祇園八坂神社前
                     

        新門前通りを進み、東山通りを右折。すぐの信号で東山通りを渡って
        知恩院へ向かう。曲がらずに直進すれば八坂神社の正面にあたる祇園
        交差点に至る。
        かつて東京で「マハラジャ」というディスコが流行った頃、この交差
        点近くにその京都支店があった。京都在住の方の情報によると、その
        場所は「マハラジャ」以前もディスコだったそうだ。
        美弥子が京都売買の同意書を配ったシーンは、そこで撮影されたので
        はないだろうか。勝手な想像に過ぎない。証拠はまったく無い。
        しかし、そんな気がして仕方がない。

                   





知恩院三門



               知恩院は浄土宗の総本山。宗の創始者であ
               る法然上人御影像を本尊とする。本尊を安
               置する御影堂と三門は、国宝に指定されて
               いる。鴬張りの廊下などの七不思議でも有
               名だ。三門は、現存する二階建ての二重門
               としては最大のものだ。
               牧はその三門から境内に続く石段を上った。





ねねの道




「初めてですわ私、男の方とこんなところに来たのは…、
私、生きている男の方とお話するのも悪くはない…、
…今はそう思ってますわ。」



知恩院三門前のすぐ近くから円山公園へ入る。海老芋と干し鱈の煮物
「いもぼう」で名高い「平野家」の脇を通り、公園の小高い丘を越え
る。公園の緑地を抜け、道なりにクランク状に進むと「ねねの道」。
観光客相手の店が建ち並ぶエリアである。

ここで赤い傘が視界に飛び込んできたので、急停車。これは牧が何か
の気配に振り返ったあの店先だ。画面では寂れて見える周囲が、路面
補修も含めてやたらとこざっぱりしている。

赤傘の店の少し先に、またもや見覚えのある赤提灯が揺れている。いや
けっして飲み屋のそれではない。近づいてよく見ると「三面大黒天」の
文字が読み取れた。牧と美弥子が「ぜんざい」を食べた茶屋である。

ここで疑問がひとつ。画面を見る限るでは、二人が食べている物が何か
はわからない。シナリオに指定されていたのだろうか。牧の台詞にして
も「こんなところでこんなものを…」である。誰が「ぜんざい」と言い
出したのだろうか。
確かに「文の助茶屋」のメニューには、白玉ぜんざいはあるし、牧の汁
粉好きも他エピソードで語られているので、別に「ぜんざい」でも何の
問題はないのであるが、検証性から考えると証拠の乏しさは否めない。


「文の助茶屋」の名は、上方落語で活躍した二代目桂文之助に因む。
1910年(明治43年)高座を退いた文之助が創業した「甘酒茶屋」がその
前身だ。「京に田舎有り粋様参る無粋な店」と風情を守った茶店はやが
て「文の助茶屋」と呼ばれるようになった。


撮影当時の「文の助茶屋」は、高台寺下の三面大黒天境内にあったが、
1999年(平成11年)八坂塔の東側に移転
した。近年、旧所である三面大
黒天境内にもお休処として復活したが、新しい店に当時の面影はない。
清水寺に通じる産寧坂にも支店がある。


「文の助茶屋」ぜんざい610円。
東山区八坂上町373 075-561-1972





東山下河原通り

そろそろランチタイム。石塀小路を抜けて「ひさご」に向かう。京都で
親子丼といえば、まずは出てくる名前である。開店時刻の
11を数分
過ぎた頃に着いたが、すでに数人の列ができていた。待つことしばし、
店内へと案内される。辺りを見回すと誰もが親子丼と相対していた。

「ひさご」は、町場のそばうどん店なのだが、親子丼のオーダー率は
80
%を越えるということだ。観光スポットの真ん中で営業しているうえに
あれだけメディアを賑わしていては致し方ない。

一人客に新聞を持ってきてくれるところが良い。うわべは丁寧だが、何
とはなしに冷たい観光地然とした店とは一味違う。親子丼を注文した時
も山椒があらかじめ掛っている旨を説明し、苦手だったらはずしますと
言っていた。このような細かな気遣いが、真の京都らしさであろう。

親子丼登場。かしわの身の締まった肉感と玉子のとじ加減が絶妙だ。総
じて関西の丼物は、玉子のとじ加減が緩く、汁気も多い。デフォルトで
ツユだくなのだ。食べ終わる頃、丼の底には汁がたまっている。
しかしこいつがたまらない。緩めのとじ加減は黄身の旨さを十分に引き
出す。そこに濃厚な出汁がたっぷりと絡んでくる。玉子かけご飯が大好
きな人間にとって、至福の逸品である。


「ひさご」親子丼
892円。東山区下河原町484 075-561-2109





京の産業遺跡

知恩院の方向に戻り、三門を右手に通り抜ける。行く手に巨樹が見えて
くる。青蓮院(しょうれんいん)のクスノキだ。門前から覆い被さるよ
うに五本のクスノキが延びている。小堀遠州作の名庭園があることでも
知られている。美弥子の名乗った「しょうれんに」と字は違うが、音は
一緒だ。命名のヒントとなる何かがあったのだろうか。

三条通りを右折すると急坂が待っていた。地下鉄に生まれ変わった京阪
京津線は、かつて三条通りの路上を走っていた。小柄な連結電車は、あ
えぐように坂を登り、滑り落ちるように坂を降っていた。

蹴上の坂上に、広い空掘りがある。京の産業遺跡「インクライン」だ。
明治初期の京都は、実質的な東京遷都に依って、寂れる一方であった。
その復興策として、琵琶湖の水を産業活用することが企画された。水力
発電、物資輸送、灌漑用水などである。しかし実現には、大津の取水口
から京都蹴上まで、3本の水路トンネルを掘削するなどの難工事が待ち
受けていた。そのうえ蹴上の急傾斜が問題となった。

坂下に舟溜りを設けて市街地の運河へ連絡しなければ、物資輸送の役に
は立たない。鉄道技術が未発達だった当時、物資輸送の花形は舟運だっ
た。琵琶湖へ舟路が通じれば、大型船に積み替えて東海道や北陸方面と
連絡が可能となる。復興には琵琶湖への水の道が、成否の鍵となった。

そこで考え出されたのが、傾斜にレールを敷設して、その上に船ごと乗
せた車台を上下させる「インクライン」だった。運河の標高差を調節す
る場所を閘門(こうもん)という。パナマ運河の閘門では、ドックのよ
うに仕切られた区画の水位を上げ下げしている。この方法だと大型船の
就航は可能となるが、大変な時間がかかる。琵琶湖疎水はハシケのよう
な小型船しか通れないので、パナマ方式では効率が悪い。ならば船ごと
乗せた車台をケーブルカーの要領で上げ下げすればよいのではないか。
発想の転換である。かくして完成したインクラインは、京都産業の活性
に力を尽くした。蹴上坂下にある「疎水記念館」には、建設当時の図面
やインクラインの模型などが展示されている。


疎水記念館から南禅寺へ向かう。南禅寺は、足利義満により京都五山の
別格とされて隆盛した。壮大な三門の楼上からは京の街が一望でき、石
川五右衛門は「絶景かな」と見得を切り、その眺望を称えた。

境内の右手にレンガ造りのアーチ橋がある。琵琶湖疎水支流の水路だ。
「水路閣」と呼ばれるレンガアーチは、1888年(明治21年)に建設され
た。
ローマ帝国の水道橋を思わせるデザインに、
建設当初から市民の関
心は高く、工事を見物する人で大変賑わったそうだ。

南禅寺の裏山をトンネルで抜けた水路は白川へ続く。銀閣寺へ至る疎水
沿いの小道は「哲学の道」と呼ばれ、人気を博している。





金戒光明寺


疎水記念館前の白川通りを北上。天王町交差点を左折して
丸太町通りに入る。右手に緑に包まれた小高い丘が見える。
「金戒光明寺」の敷地である。比叡山を出た法然が念仏道場
としたことに由来する。通称は「黒谷(くろだに)さん」。





「僕は仏像より、現実に生きた人間の方が好きかも知れない…」





岡崎神社正面に二層の山門がそびえ立つ。
この上で美弥子は京都の都市化を嘆いた。
二人の後に見えるのが、後小松天皇から賜
わった辰韓「浄土真宗最初門」の勅額だ。





「君、京都の町を買うって、一体…」
「誰も京都なんか愛してないっていう証拠ですわ。」


幕末、松平容保が率いる会津藩の本陣が置かれた寺域は広大で、いくつもの
塔頭(たっちゅう)と呼ばれる山内支院を持っている。この塔頭をつなぐ山
内道路のそれぞれに趣があり、見る角度を変えると幾つもの表情を見せる。
この多様性が便利だったのか、金戒光明寺では多数のシーンが撮影された。


  

物語冒頭の仏像が消える寺院は、御影堂と経堂。


  

山内の通路では、ディスコ       山門から本堂へ向かう石段
を出た美弥子を追う牧の姿       では、謎の雲水たちを従え
があちこちに見え隠れする。      た美弥子が歩いていった。



  

阿弥陀堂を覗く牧の目前で       藤森教授逮捕後に訪れた二
発信機を仕掛けた美弥子。       人の別れも夜の黒谷さん。






「仏像以外のものを信じようとした
私が間違っていたんです…、
…それだけのことです。」






銀閣寺(慈照寺)

白川通りに戻り、再び北上する。今出川通りとの交差点を右折してしば
らく直進すると「銀閣寺」に到着する。

世界文化遺産にも登録された「銀閣寺」の正式な寺名は慈照寺。通称の
「銀閣」は観音殿のこと。「金閣」のように内外を銀箔張りにする意図
があったかは不明で、その痕跡は見つかっていない。

足利八代将軍義政が、自ら手がけた庭園にも見所は多い。
白砂を段状に盛り上げて波紋を表現した「銀沙灘(ぎんしゃだん)」。
富士山のような円錐形に盛られた「向月台(こうげつだい)」。
丹精こめて造られた白砂の美しさに、目を見張る。

高名な観光地だけに、終日観光客で賑わっている。美弥子を追う牧がさ
まよい歩いた静けさは、期待しないほうがいい。画面にも見られる「銀
閣」と「向月台」との組み合わせが、撮影アングルの定番だ。

このコンビは、
05年秋の「そうだ、京都 行こう」キャンペーンにも用
いられた。ここにも記念写真を撮る人々が列を成している。
しばらく待って無人となる切れ目を狙う。なるべく静かな光景が欲しか
ったのだ。


「銀閣寺」 拝観料500円。





鴨川と賀茂川

銀閣寺から今出川通りをひたすら走る。重厚な趣の喫茶店が点在する
京都大学辺りは、本郷通りの東大赤門前を思い起こさせる学生町だ。
百万遍、出町柳を抜けて賀茂大橋を渡る。この橋のすぐ上流で「賀茂
川」は「高野川」と合流する。合流してからの下流部分は「鴨川」と
書き文字を変える。京都の人は、ごく自然に使い分けているそうだ。


今出川通りの西進を続ける。左手では、御所の木々が寒空に身をさら
してふるえている。右手には、同志社大学のキャンパスが、道路に沿
いに延々と続く。都会の雑踏に口を開けたオアシスのような空間だ。

ビルが建ち並ぶ烏丸通りを越えて、上京区総合庁舎の先、新町通りを
右に折れる。
400mほど進むと、道路自体が右に折れるが、その曲が
り端に左へ入る細い道がある。この細い道が「寺之内通り」だ。左折
して直進すると、ほどなく右側に寺院が見えてきた。炎上した寺だ。





妙顕寺




「この寺は本物か偽物か…、ワシの道連れやで!」


「妙顕寺」は、京都の法華宗寺院の草分けで、関西法華宗団の根本を
なす古刹である。琳派の祖、尾形光琳とその弟乾山の墓があり、光琳
の筆による「松竹梅」図三幅が所蔵されており、庭園も光琳に因む。

1321年の創建と伝えられ、1583年、秀吉の命により当地へ移転した。
江戸時代、天明の大火の類焼で燃え落ちた堂宇は、後に再建された。
しかし
1969年、リュート物質の散布によって、堂宇は再び炎上した。

円谷特撮の歴史に残る、炎上シーンのあまりのリアルさに、本当に燃
え落ちたと思い、心配した檀家からの問い合わせが殺到したそうだ。

山門左右の敷地に、幼稚園や駐車場ができたためか、新たに塀がつく
られている。画面との違和感は否めず、炎上のアングルも望めない。



  

リュート物質を持ち寺に駆け込む統三。 町田警部らが追いかけ逃げる参道。





光悦寺


寺之内通りを西へ向かうと堀川通りにぶつかる。幅の広い大通りを渡り
千本通りまで直進する。千本通りを右折し北へ向かう。緩い勾配の上り
坂が続く。鞍馬口通りと過ぎると坂がきつくなってきた。千本北大路を
過ぎて佛教大学前の交差点から左に外れる進路を選ぶ。鷹峯に通じる道
だ。視界には長々と続く直線の坂道が入ってきた。試練の道程だ。途中
何度か降車しながら、坂を登りきる。ようやく、光悦寺に辿り着いた。





美弥子を探す牧がスキップをしていた参道が「光悦寺」。江戸時代初期
に活躍した芸術家の本阿弥光悦が、草庵とともに建てた法華題目堂が、
その始まりである。「光悦寺」の少し手前向かいに「源光庵」がある。

藤森教授逮捕シーンのロケ地との情報であるが、実相寺監督は双葉社刊
の「怪奇大作戦大全」中で、当該シーンはセットであった、旨の発言を
している。源光庵は工事中のため、
06年夏まで拝観が中止されている。


辺りが薄暗くなってきた。時計を見ると午後4時をまわっている。ホテル
に戻り、冷えた身体を温めよう。そのために、大浴場付きを選んだのだ。





ホントに怪奇な京都

身体にあたる風は徐々に冷たさを増してきている。玄琢を抜け、玄以通り
に入って大宮通りへ向かう。大宮通りを右に折れて南下を始める。緩やか
な下り坂の両側には、商店が建ち並ぶ。生活の匂いが充満した庶民的な商
街だ。個性ある商店は、今出川通りまで2q以上に渡って軒先を重ねる。

今出川通りを越えて一条通りを東進する。堀川通りとの交差点を越えると
すぐに掘割がある。堀川通りの名称の由来となった、河川の名残である。
堀割に架かる無骨なコンクリート製の橋が「一条戻橋(いちじょうもどり
ばし)」だ。一見、枝垂れ柳がたなびく、何の変哲もない橋のようにも見
えるが、死者蘇生や式神隠し、鬼退治など、奇妙な伝説に彩られている。


           平安前期、文章博士の三善清行が没したことを知った息子の
           浄蔵は、この橋の上で父の葬列と出合った。棺に泣きすがる
           浄蔵は、突然割れ鐘のような声で読経を始めた。すると清行
           が生き返ったというのだ。
           以来、死者が戻る橋、一条戻橋と呼ばれるようになった。


           同じ頃、陰陽師で名高い安倍晴明は、橋の下に式神を隠して
           おいて、予言や占いに利用したといわれる。安倍晴明を祀っ
           た晴明神社もすぐそばである。

           平安京は、人工的に作られた都市である。
           場所の選定において、怨霊や鬼の侵入を防ぐため、風水・四
           神相応・陰陽道が用いられた。
           陰陽道とは古代中国自然哲学の陰陽五行思想に基づいた占星
           術・呪術・暦学のことである。
           飛鳥時代には、陰陽寮という公的機関が作られ、政府の陰陽
           師たちが、暦を作り、天象から変事を予測したり、行事を行
           なう吉日・吉方などを決めていたりした。

           平安中期、源頼光の家臣に渡辺綱(わたなべのつな)という
           剛の者がいた。ある日、渡辺綱が橋にさしかかると美女が現
           れ、自宅まで送ってくれという。不審に思いながらも承諾す
           ると、女は鬼の姿に変わって襲いかかってきた。渡辺綱は、
           鬼の腕を切り落とし、返り討ちにしたという。

           桃山時代、権勢を誇った豊臣秀吉は、切腹に処した千利休の
           木像を大徳寺山門から引き降ろし、戻橋で磔にした。

           昭和前期の太平洋戦争時、出征する兵士は、戻ることを願い
           この橋を渡った。
           
           平成の現在、婚礼に向かう花嫁は、戻らないように、この橋
           を避けて遠回りをする。
           なお、霊柩車は今でもこの橋は通らないそうだ。




夕暮れの「晴明神社」には、怪奇な雰囲気が漂う。






2日目





         




「怪奇な京都を巡る PartU 1日目」  17/FEB/2006
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