参照 筒井迪夫「日本林政の系譜」(昭和62年、地球社)
森林についての「公私共利」の原則は、 孝徳天皇大化元年(645)から醍醐天皇延喜2年(902)までの260年間に詔や太政官符の形で10回以上出されている。
この方針は、貞永元年(1232)「御成敗式目」(貞永式目ともいい、鎌倉幕府執権、北条泰時の制定)の追加(文暦2年−1235)で「用水山川草木之事」として定められている。
山川藪沢の利の独占を禁ずることが、政治の大方針であったが、次第に権門勢家による土地収奪が進み、近世になると幕藩領主の直轄林(御山)が生まれた。
(参照テキストP.36)幕藩時代の森林は、一般には藩有林と村持山に大別された。
藩有林は「御林」、「御立山」などと呼ばれたほか、御山、運上山などとも呼ばれた。
村持山は、「村持山」、「村山」、「入会山」などと呼ばれたほか郷山、郷林などとも呼ばれた。
個人の所有林については「百姓持山」、「地付山」、「家掛山」などと呼ばれたほか符人山 符人林などと呼ばれたという。
また藩有林であっても一定の上納金(運上銀などと呼ばれた)を納めることによって利用が認められていた。秋田藩の場合は、村が利用する場合は入会運上山 一村運上山と称し、個人利用の場合は符人運上山と称したという。