伊藤助成さんとの出会いは、平成3年頃と記憶しているが、私がまだ林野庁に勤務していた時で、森林文化協会におられた堀越作治さんが、当時日本生命社長の伊藤助成さんと一緒に霞が関の役所を訪ねて来られたのが始まりであった。
伊藤さんと堀越さんの関係は、一橋大学の同期であるとともに、小平の学生寮の同室で学生時代を過ごされたということであり、説明不要の間柄であった。
一橋大学といえば、私も昭和38年度に、林野庁の長期委託研修生として国有林経営問題をテーマに商学部で学び、山城ゼミに参加させていただいたということもあり、きさくな伊藤さんは、私を一橋の同窓ですねと言ってくださり、話がはずんだ。
ところで訪問の主旨というのが、全社的な植林活動ということであった。これが、いわゆる「ニッセイの百万本植林活動」の始まりということになる。
百万本の根拠は、その時の伊藤さんのお話によれば、日本生命が一年間に使用する紙類は樹木30万本に相当すると言うことで、先ず三分の一については、事務処理の改善により消費量を節約する。次の三分の一については、リサイクル紙を使用する。残りの三分の一については、どうしても樹木に頼る必要があるので、この分、すなわち10万本については自分で植えることにする。これを10年続けると百万本ということになりますという誠に論旨明快、伊藤さんの面目躍如というおもむきが感じられた。
世の中に人は大勢いても、何ごとによらず、自ら行おうとする人は必ずしも多くはないもので、森づくりにおいてもまた同様、進んで行う人の多いことを願っていた私にとっても嬉しいことであった。
これを機にその後お会いする回数が重なる度に、百万本の植林プランは一歩一歩具体化していった。
先ず、社長が先頭に立つと言っても、社内のコンセンサスはどうなっているのか。当時の専務取締役で現在会長の宇野さんの半ば本気、半ばジョークとも思える、「社長あまり植林活動に夢中にならないで」との言葉も気になり、私は伊藤さんに尋ねた。「職員の大半を占めるという8万人(現在は5万人くらいと思われる)の女性の意向はどうなんでしょうか」と、答えは、女子職員の関心は高く、資金については、会社寄付に加えて社内募金も行っていきたいとのことで、第一関門は突破と言うことになったが、次の問題は、植林用地の確保と言う点であった。
一口に百万本とはいうけれど、用地は少なくても300ヘクタールは必要である。しかも全国展開となると、簡単ではない。ここで決め手は、国土の二割を占める国有林の有効活用がベストと言うことで、企業等の要望にも応えられるようにと言うことで、法律上の整備が整っていた分収林制度を活かすことにした。
ここまで来ると、後は一瀉千里で、財団法人の設立(ニッセイ緑の財団)も行われ、伊藤さんも自ら財団の理事長に就任して植林に邁進された。
毎年春には、富士山麓に集まり、全国各地での植林活動に思いを馳せながら、多くの子供連れの職員家族に囲まれての伊藤さんの笑顔は喜びに満ちていた。
今年(平成17年)の3月に開催された、財団の理事会・評議員会で、伊藤理事長から今までの、成果が報告された。
実績は、1993年度から2004年度末までの12年間で、全国166ヶ所、370ヘクタール、110万本の植樹が完了したとのことであった。
見事な公約達成である。
国内と並行してケニア、インドネシア、ネパール、中国など海外での植林活動も実行された。
ただ、この時、輝かしい報告とともに、伊藤さんから、3月一杯を以て、財団理事長のみならず、健康上の理由から、公職は一切退かれるというお話しも同時にあり、堀越さんともお話しし、本人に激励会をしましょうと話したところ、好きだったお酒は飲めないが、激励会は喜んで受けますとのことで、笑顔の握手で別れて、僅か一ヶ月余の4月21日の訃報であった。享年75歳。
伊藤さんは昨年保険関係の用務で英国に出かける前に、森林関係での見所を私に聞かれ、ロンドンからさほど遠くない、湖水地方のウィンラター国立森林公園を是非見てきてくださいと言ったところ、後日、行って良かったとのお話しがあり、最後まで緑問題に打ち込まれたことを記しておきたいと思う。
ニッセイ緑の財団は、最近広葉樹育成のマニュアルを出されたほか、植林地を多くの人々に森づくりの体験、森林学習等の場として開放していきたいとの考えも示されており、関係者が一体となって伊藤さんの遺志を尊重して、今後も進まれることを祈るものである。(小澤普照、2005年6月8日記)