森林随想 「植えた木は誰のもの」
近頃、ある植林関係のシンポジウムに出席した。
地域に所在する国有林と地域(市)が提携して森づくりを行おうとするもので、植林開始を間近に控えた地域が主催する記念シンポジウムとの位置づけである。
林野庁がその所管する国有林を「国民の森」として経営すると宣言して、早くも十年ほどになる。
最近の森づくりは、首長さんが先頭に立ち、市民参加で行われることも多く、国有林の空間提供は市民等の側から見て大いに賛同を得られる試みであろう。
森づくりには、夢もロマンもあり、特にこのシンポジウムは地域の伝統芸能を持続することに欠かせない木の材料を三百年も先の将来を考えて、植林するという壮大な目標を持っているということで、地域の期待が高く、参加者の賛成ムードで進行した。
しかし、終盤になって、参加者から、市民参加で植えた樹木は植えた人に優先的に帰属するかとの趣旨の質問があり、国有林(林野庁)サイドから、植栽木は国有財産になるものであり、植えた人の自由にはならない旨の回答で、それまでのほんわかムードから、いささか緊張気味の空気に変わった。
分収林のような法律に基づく契約では無い場合、一般的には国有地に植えられた記念樹のようなものは、国に帰属することになっていると解される。
ただこのシンポジウムでのケースは、森づくりの趣旨が、単なる記念植林ではなく、地域の伝統芸能の維持・発展に寄与するという目的が含まれていることから、いろいろと考えさせられるものがあった。
類似の森づくりとしては、「バットの森」などというものもあり、将来野球のバットの資材を供給する夢を持つ森づくりも国有林の中で行われていると聞く。
この場合も、植林者に樹木の所有権が与えられているとは聞いていないのであるが、植林者にとってみれば、いつかバットの材料が供給されるということに夢があり、納得するものがあるのではないかと思う。
さらに最近は、国有林ではなく、個人の森林でも所有者が遠隔地に居住し、管理が行き届かない森林が増えていることから、不在村所有者などとボランティアグループなどが話し合い、植林を行う事例も増加するものと予想される。
この場合は、国有財産法が介在するものではないので、地方自治体の条例などによるとか、あるいは話し合いで進められることが多いと思われる。
もちろん分収林法によることも可能である。
しかし、文化財への資材供給などを想定する場合は、二百年、三百年先ということもありうるが、このようなあまりにも長期間の契約などは法律でカバーしうるであろうか。
したがってまた、契約で解決するというよりは、持続性があり、また地域事情に配慮してくれる、適切な管理主体は何かという観点が重要視されるべきなのかも知れない。
いずれにしても、国と地域が協働の精神で円満にことを進めるということが基本であろう。
一方、温暖化などがこのまま進行するならば、今植えた木が気候条件の変化に耐えられるかどうかということすら分からない。
従って、超長期にわたる木や森の話というのは、権利の帰属がどうのということより、遠い未来までつながる哲学や社会が納得するルールの確立が望ましいと言える。
最近、中国の諺で印象に残ったものがある。
すなわち、「前人栽樹,后人乗涼」というもので、先人が樹木を植えることで後の世の人が緑陰の涼しさを得る、つまり恩恵を受けると言うことである。
つまり、植林とは、自分のためもあるが子孫のために行っていると土地所有者も植林者も考えるのであれば、四角四面の話にはならないと思う。
わが国にも、律令時代において「山川藪沢、公私共利」(山や川や森はだれのものでもない。誰もが等しく恩恵を受けるの意)という考え方が基本であったことであり、また封建時代においても、「入会林」が存在していた。
現代風に言えば、ニューコモンズとしての森林論ということになるのであろうか。
官民ともに知恵を出し合い、喜んで森づくりに参加する世の中を実現したいものである。
読者からの良いアイデアの提供を期待します。
(小澤普照・平成19年10月1日記)