森林随想・シベリアの森の国から父帰る


平成11年(1999年)7月ロシア連邦ハカシア共和国を訪問しました。
ハカシア共和国はシベリア中央部の南、モンゴルの北に位置しています。
エニセイ川とオビ川にはさまれた様な地域です。
モスクワとウラジオストックの中間、バイカル湖の西側にあります。
モスクワまで4千キロほどあります。ウラジオストックでしたら5千キロほどあるでしょう。
首都はアバカン市でクラスノヤルスク市の南400キロです。
この共和国は、かつてハカス自治州と呼ばれていたものですが1992年にクラスノヤルスク地方から分離し、ハカシア共和国となったものです。
住民はロシア人8割、ハカス人2割といわれています。
モスクワから飛行機でクラスノヤルスクに着き、そこから陸路を1日がかりでアバカンに入りました。
この地域は、タイガと呼ばれるアカマツ、カラマツなどの森林地帯ですが、森林の間に草原が現れるという状況が続きます。
南に来るに従って森林は少なくなります。
全体を通じて、人は少なく、極めて過疎の状態です。

シベリアの旅をした目的は、戦後シベリアで抑留死亡をした父の墓参でした。
父は戦前、現在の中国内蒙古自治区ホロンバイル市ハイラル区で蒙古人師範学校の教師をしていましたが、昭和20年5月に現地召集となり、大興安嶺に構築された陣地で終戦を迎え、その後シベリアに抑留され、昭和21年1月30日、シベリア・アバカン地区で戦病死との公報を受け取ったのが昭和27年のことでした。
それ以上の詳しい情報が得られないまま、没後50年ほど経過しましたが、ソ連崩壊後、やっと詳しい情報が得られました。
すなわち、ハカシア共和国の首都アバカン市に隣接するチェルノゴルスク市に埋葬されているとのことでした。
わが国政府によるたゆまぬ努力により、さらに詳しい状況が判明し、政府派遣の墓参団の一員として現地を訪れることになったものです。

現地では団長という役割を引き受けることとなり、ハカシア共和国の副大統領に面会の際、当時のロシア政府がまだ遺骨の収集と引き渡しに同意していないということでしたので、墓参団の立場としても、日本政府の要請に速やかに応えるよう要望しました。
またテレビのインタービューも受け、同趣旨の要請を行いました。
埋葬地はチェルノゴルスク市の市民墓地の一角にあり、三百名弱の日本人が埋葬されているとのことでした。地表部は整然とコンクリート枠の墓石が並んでいましたが、現地での説明は、戦後市民墓地が手狭になり、抑留日本人墓地を縮小し、遺骨の移動も行われたため一部集団埋葬の形になっていることもあり、作業を行って見ないことには埋葬の実態は明確にならないとのことでした。
地元のハカス人の歴史学者アボジン氏が大変事情に詳しく、終始墓参団に同行してくれ、親切かつ丁寧な説明を受けることができました。

当時、墓地の近くに露天掘りの炭坑があり、大規模なソ連第33収容所のロシア人、日本人等の収容者は、炭坑作業に従事していたとのことでした。
現在は、すでに収容所の建物はなく、炭坑跡地も大きな草原状の窪みとなっていました。

チェルノゴルスク・炭坑跡地及び収容所跡地(右方向)

墓参団ははカシア共和国内の他の2箇所の墓地を訪れました。
墓地は、いずれもカラ松林の一角にあり、20名から30名ほどの埋葬者がありました。当時存在したという住民の集落も今は無く、時たま現地人が僅かに訪れる程度とのことで、日本人の埋葬地には、カラ松で作られた墓標が一つ一つ立てられていたものが、50年の歳月が経ち半数くらいの墓標が朽ちて横倒しになっており、誰の手に触れられることもなく半世紀の時が流れたということが容易に想像されました。
ここでは、抑留日本人はカラマツの伐採に従事していたとのことでした。
伐根は直径1メートルに達するものもあり、立派な天然林であったことが推定されます。
観察したところ、親木(種木)を残して伐採がなされているので、現状は、天然下種更新による五十年生程度の二次林となっていました。
直径20センチ、樹高10メートル程度と目測されました。

杭のように見えるのが墓標、1999年7月時点


カラマツ再生二次林、林齢50年程度、手前は残存母樹・伐根


カラマツ伐根、直径約1メートル、年輪数約300

その後、政府・厚労省のご努力により、遺骨収集が終了したこと、さらにDNA鑑定を希望する人は検体を提出するよう連絡があり、これに応じたものの数年が経過し、現地での説明も勘案すれば、遺骨の特定は出来ないのではないかと考えていましたところ、平成19年6月厚労省社会・援護局から連絡があり、間もなく遺骨が我が家に帰って参りました。
鑑定の結果親族と確定したものですが、多くの方々の長年にわたる努力と科学の進歩の賜でありました。
関係の皆様には心から感謝を申し上げます。
早速、援護局OBの植村尚志んに報告をしました。植村さんは、27歳の年から退職まで30年以上、各地での遺骨収集一筋に公務員生活を送られ、シベリア墓参も付き添っていただいた方です。
植村さんからは、遺骨が戻ってほんとうに良かったということと、遺骨収集をライフワークとして行ってきたのも、遺骨を祖国に戻すということが国と兵士の間に交わされた約束であるとの信念で収集事業に携わってきたものであると書かれたお便りをいただきました。
このお手紙は、この夏郷里で執り行いました法要の際、参加の皆様に披露させていただきました。
なお、風雪に耐えて生育しつつある二次林のカラマツ林が地球環境の持続に貢献してくれることが抑留死亡者への慰霊の証となることを心から祈る次第です。
(平成19年10月18日、小澤普照記)


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