柏尾通り

2021年4月12日 柏尾通り大山道(柏尾~下糟屋)

昨年、青山通り大山道を歩いて大山山頂まで行き、先ごろ、田村通り大山道を歩いたのに続いて、今回は柏尾通り大山道を歩く。
江戸や房総方面からは、東海道で戸塚宿付近の柏尾まで来て、ここから柏尾通り大山道で大山詣に向かった。
柏尾通り大山道は、柏尾から長後、用田、本郷を抜け、伊勢原市の下糟屋で青山通り大山道と合流する道だった。途中で境川、引地川、目久尻川といったいくつもの川を渡り、相模川では戸田の渡しを経て大山に向かっている。ほぼ真っ直ぐ西に向かう道のため、今でも随所で大山と富士山を正面に見ながら歩くことになる。
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我が家から戸塚へは、小田急江ノ島線で湘南台に行き、横浜市営地下鉄に乗り換えて行く。戸塚駅から国道1号の不動坂交差点まで行って、そこからすぐの柏尾の大山道入口から歩き始める。東海道を歩いた時に戸塚を通っているが、電車で戸塚駅に来たのは初めてで、朝から通勤通学の人々で混雑し、駅前ロータリーではバスが全く途切れることなく発着する様子に圧倒される。

柏尾~岡津
柏尾大山道入口の標識が立つところで、交通量の多い国道から大山道に入ると、旧街道の趣が残る静かな道になる。

<柏尾不動堂>
すぐ前方右側に赤い屋根の不動堂が見えて、旧街道歩き気分を盛り上げてくれる。お堂の周りには4基の道標や庚申塔、灯籠があり、往時の大山詣での活況が感じられる。


堂内の不動明王像は扉が閉まっていて見えないが、たまたま地元町内会により作られた「コロナを退治する不動明王護符」なるものが扉のところに置いてあり、持ち帰り自由ということなのでありがたくいただいた。

先に進むとJR東海道線などの線路に突き当たって通れないが、線路を跨ぐ跨線橋に上がれるようになっていて無事線路を越える。

富士橋で阿久和川を渡り、その先は川に沿って歩くのだが、横浜新道上矢部IC付近ということもあって、周辺は道が複雑な上、交通量が多く、旧街道の趣は全くない。横浜新道をくぐってしばらく行くと、ようやく落ち着いた川沿いの道歩きができるようになる。川沿いの遊歩道が概ね旧道と一致しているらしく、この先、岡津あたりまで緑豊かでのどかな雰囲気の道を歩ける。

岡津~西田谷戸
岡津小学校川手前で子易川が合流するすぐ近くの新鷹匠町橋のところで遊歩道を離れ、新宮前橋が架かる白百合団地入口交差点のところで川から離れて少し南に行くとすぐのところに西林寺がある。
西林寺は徳川家康の側女於万の方が出家して清源院尼と称し、岡津の出ということもあってこの地に草庵を設けた。


残念ながら見ごろは過ぎているが、山門の枝垂れ桜は見事なもの。

再び川沿いまで戻って阿久和川に沿って進み、不動橋のところで川と別れて南に向かうとすぐに永明(ようめい)寺別院がある。その門前には、不動明王像を載せた大山道標が不動橋付近から移設保存されており、右面の「右ほしのやみち」が星の谷観音への道を示していた。


道標の横には月山、湯殿山、羽黒山の登拝を記念した出羽三山供養塔も建っている。

この後、高台にある永明寺の入口あたりで、山裾に沿った巻き道のような道を道なりに進んで行く。細くて静かな道の右手には住宅が並ぶが、左手には山林が迫り、路傍に置かれた地神塔・道標と双体道祖神がかつての風景を偲ばせてくれる。


「上り大山道、下り柏尾道」と刻まれた道標を兼ねる地神塔は、もとは坂の上り口に立っていたものが移設されたもの。

西田谷戸~和泉
旧道を谷戸の奥まったところまで進んで行くと桂坂公園がある。かつては坂下と呼ばれ、公園の手前から女坂・男坂と呼ばれる急坂を上っていたらしい。桂坂公園から国際親善病院にかけての一帯はかつての丘陵は削られ、その土で谷戸は埋められて現在の西が丘の住宅地になっていて、ちょっとおしゃれな感じの桂坂がかつての名残のように住宅地の間を上っている以外に、かつての地形は見る影もない。旧地にあった庚申塔などは近くにある中川地区センターの駐車場脇に集められている。

このあと、いったん広い県道の方に回り、国際親善病院の横の坂道を上って行く。
坂を上った高台は、住宅がまばらとなり、畑が広がる景色に変わる。歩き進む先々で富士山と大山が見え隠れする。


この周辺は知る人ぞ知る富士山のビューポイントであり、富士山を眺めにこの辺りに以前来たことがあった。

ゆるやかに坂を下って行った先、八王子道と交差する芝原の和泉小学校入口交差点角に庚申塔があり、「西大山道」「北八王子道」と記されている。 八王子道は、北に行くと瀬谷で中原街道と交差し、東名高速の横浜町田IC付近で矢倉沢往還ルートの大山街道と交差する道だった。

和泉~長後
芝原から拡張された広い農道を進む。結構車の往来がある中、トラクターが走っていたりする。和泉小学校のあたりでは街道の正面に富士山が見える。大山道は、和泉小学校の少し先で三叉路を左に折れて農道から分かれて住宅地の中を進むが、この分岐の東側畑の中に出羽三山供養塔がある。

道沿いに石塔が並んだところがある住宅地の中の狭い道をかれこれ15分ほど歩くと長後街道の和泉区役所のあたりに出る。
ここで長後街道をいったん横切り、神明社に立ち寄る。神明社のところに立つ蚕御霊神塔は、霜で桑が枯れたために大量に死なせてしまった蚕を慰霊するというもの。


左面は道標になっており、「大山道」の文字の上には人差し指と中指で右方向を差した絵が彫られている。

大山道は、和泉区役所のところで和泉川を渡り、産業道路を横切った先で長後街道から分かれて左の道に入って行く。 旧道の趣残る閑静な道を進むと、鎌倉街道上道に突き当たるので、少し北に行った上飯田団地入口信号で左に曲がって境川に架かる高鎌(こうけん)橋を渡る。以前、鎌倉街道を歩いた時にここで境川越しに富士山が見えたことを思い出した。今日もその時と同じように富士山が見えている。

境川を渡って藤沢市に入る大山道は、長後街道を軸に左右に蛇行し、ちょっとした曲がり角や路傍のところどころに石仏石塔などが見られる。
高鎌橋を渡って長後街道を進み、すぐの路地を左に入った丁字路のところに如意輪観音と庚申道標が並んでいる。庚申道標はかなり風化してよく読めないが、文政年間(1818~30)製で、正面に「大山」、右面に「庚申塔」、左面に「ふし沢」と刻まれている。


丁字路を右折し、今度は斜めに長後街道を横切ると、旧道は左カーブして長後街道に合流するが、その手前の角に宝暦4年(1754)製の庚申塔がひっそりと佇んでいる。

しばし長後街道を進んだら、長後小学校入口交差点手前で左の路地に入る。国道467号(藤沢町田線)を横断すると、旧道の先に高倉庚申堂が建っている。この先で、再び長後街道を横切って緩い坂を上って行くと、東海道藤沢宿と甲州道中八王子宿を結ぶ滝山道に突き当たる。あたりはかつての長後宿だが、商店街にかつての賑わいは見られない。

長後~用田
小田急江ノ島線の踏切を渡った西側に残る仙元(せんげん)塚は、宝永5年(1708)、富士山の噴火で降った火山灰を集めてつくった塚で、天保の飢饉(1833~36)の際に村民の結束のために富士講をつくり富士参りをし、慶応2年(1866)の大願成就の折に富士塚を建てたと言う説もある。


長後市民センター駐車場を囲んでいる生垣に隠れた場所に、この地区に多数残されていた石仏・石塔などが集められている。道標を兼ねた庚申塔には「左かしを道」「右ふし沢道」と書かれたものや「西大山みち、東かしをみち」「南ふち澤道」のものなどがある。


旧道は引地川手前で長後街道を外れ、下土棚ファミリーテニスクラブのあたりで引地川のところに出る。歩行者専用の橋は河川工事中のため渡れないが、そのあたりの草むらに道祖神などがあった。


そこから少し迂回し、用田バイパスに架かる下土棚大橋で引地川を渡る。

バイパスの右手の農道のような道を行くと、道が二手に分かれる。周辺はかなりの広範囲にわたって大規模な開発が行われている。
*後日、調べたところ、引地川の洪水調節施設として下土棚遊水地を整備する関連工事のようだ。

県道22号線に合流して少し行ったボーリング場の先、大きな屋敷の傍らに庚申塔3基が置かれていた。右側と左側の庚申塔は道標も兼ねており、左側の庚申塔には「東 かしおみち  西 大山みち」とある。


県道22号線の東山田交差点から左に曲がり菖蒲沢と葛原の境界線上にある旧道を南西方向に進む。
路傍に道祖神を見ながら進むと、宮ノ越交差点左側に豊受大神が鎮座する。境内は広々としていて、静かな雰囲気が漂う。
豊受大神を出て街道に戻ると、道路向う側の石垣が組まれた旧家の塀の片隅に地蔵祠と道祖神が見える。
緩やかな坂を上って行くと植木畑が広がっていたりで、しばらくは道の右側は建物がほとんどなく、見晴らしのよい高台の道となって、遠くに大山を眺めながら淡々と歩いて行く。

<御所見塚>
往時、このあたりに坂東平氏の一族である長田氏の館(垂木御所と呼ばれた)を展望できる菖蒲沢の塚があったらしい。それが御所見塚(現存しない)と呼ばれたことに由来し、葛原・菖蒲沢・用田・打戻・宮原・獺郷は御所見地区と呼ばれている。

県道43号線が合流する御所見中学校前の歩道橋の下に道標を兼ねた庚申塔があり、右面に「従是ふぢさわえのしまへの道」、左面に「従是かしをとづかへの道」と刻まれている。


用田の辻に向かって下る坂の途中で大山が大きく見えた。

用田~本郷
やがて、中原街道と交差する用田の辻に至る。

東海道新幹線の高架をくぐり、目久尻川を渡ると海老名市に入る。目久尻川を渡ったところには広々とした公園があり、その一角に不動明王道標や各種石塔が集められている。


公園の前で左に曲がって行くと、すぐ先の右手、階段上の寿閑寺は弘治3年(1557)の創建。鐘楼に乃木将軍の祖先である乃木寿閑が延宝3年(1675)に寄進した梵鐘が吊るされているらしい。

この先の「自然と歴史の散歩道」と称する旧道には、大きな旧家の屋敷が何軒も立ち並び、静かな落ち着いた雰囲気が感じられる。

やがて坂道を下って行くと下谷津交差点手前に柵にしっかり囲まれた地神塔が置かれている。
旧道はその先で県道22号線に合流し坂道を上って行く。その途中にある庚申塔道標には、左側面に「此方大山道 右一の宮 左国分寺」、右側面は「此方かしを道」とある。

坂を上りきった先の本郷神社入口交差点を左に曲がる道が柏尾道だが、右へ曲がって本郷神社に寄り道。明治7年(1874)に神明社、八幡社、山王宮、白山社、稲荷社を合祀して五社宮と称していたが大正5年(1916)に本郷神社と改称。境内社の天満宮は小さな社殿だがなかなか立派。

本郷~戸田
交差点に戻り、富士フィルム海老名事業所を左に見ながら進んで、すぐ先右の細い道を入ると弘化4年(1847)の西国秩父坂東供養塔道標が建てられている。左側面に「此方 大山道」、右側面には「此方 こくふんし ほしのや 江戸新道」とある。右の石塔も西国秩父坂東供養塔。


この細い道を丁字路の突き当りまで行くと、比較的新しい祠の中に彩色鮮やかな明治4年(1871)の不動明王道標とその右に二十三夜塔が並んでいる。不動明王道標には、右側面に「南一之宮道」、左側面に「北 かしお 藤沢 道」とある。


柏尾道はこの丁字路を右に曲がり、すぐに左へ曲がって行く。
5分ほど歩いた先の祠の中にあった子育地蔵はよく見ると赤ん坊を抱いている。
その先の十字路を右へ曲がった先では馬頭観音が、さらにその先には双体道祖神が見られる。


ほどなく下り坂になるが、この坂道を居合坂というのだそうだ。標柱に坂名の由来が記されている。それによると「坂を上りきったところが入会地であった。それが転訛して居合になったといわれているがはっきりしない」とある。

JR相模線の踏切を渡り永池川を越えてしばらく行くと銀杏の大木が見えてくる。
ここは戸田の渡し跡で、ここには安政2年(1855)の不動明王道標が立っている。


戸田の渡しは柏尾道の要衝にあり、戸田村と門沢橋村の両村が船二艘を常備して経営した。旅籠や茶屋があって賑わい、明治の末まで盛んに利用された。
この先の相模川を越えるには上流の戸沢橋を渡って行く。

戸田~下糟屋
広い相模川に架かる戸沢橋の上からは西に大山がよく見えるとともに、相模川の東側に川に沿って圏央道、柏尾道に沿って大山近くまで延びた第二東名高速道、およびその両線のジャンクションが鳥瞰される。
橋を渡り、県道22号線を少し進んで交差する国道129号のすぐ北側には第二東名高速道の厚木南ICが造られている。旧街道は、近年開発されてきたこうした超巨大スケールの交通網の間を縫うように進むと、しばしば旧道は消滅することもあるが、それでも往時の石仏・石塔などは意外に何らかの形路傍に残されている。
県道22号線を歩いて行くと往時の道祖神が残されていたり、しばらく進んだ天宗寺近くの交差点際に不動明王道標がある。道標の側面には「左 大山道」と大きく刻まれ、正面には「右 戸田舟渡 左 ほしのや観音道」とある。


さらにその先10分の所にも同じような不動明王道標がある。

やがて歌川を渡り、県道22号線を離れて渋田川沿いになる、正面に大山の全容が見えた。 小田原厚木道路をトンネルでくぐった先は新東名高速道のすぐ横を歩く道になる。

<矢倉沢往還との合流点>
小田急小田原線の踏切を越えるとゆるやかな坂を上った先の最初の信号交差点が、北側から来る矢倉沢往還との合流点だ。
合流点すぐ先の自転車屋さんの店先に「丸山城下 大山街道 糟屋宿」の看板や提灯がかけられており、この辺りから糟屋下宿に入る。つい5か月ほど前に矢倉沢往還を歩いてきたときのことが脳裏によみがえる。
ここで柏尾通り大山道の旅を終了し、小田急線で帰るため愛甲石田駅に向かった。
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いくつもある大山道のうち、青山通り大山道、田村通り大山道に続いて今回は柏尾通り大山道を一気に歩いた。
田村通り大山道と比べて柏尾通り大山道には道標や庚申塔などが数多く残されている。それだけ多くの旅人でこの道が賑わっていたのであろう。