八王子通り

八王子通り大山道(八王子~上糟屋)

各地から大山に向う道のひとつ八王子通り大山道は、中山道熊谷宿から分かれ、松山・坂戸・入間・拝島を経て八王子に入り、八王子からは橋本・田名・久所の渡し(相模川)・才戸の渡し(中津川)・小野・津古久峠を経て伊勢原の上糟屋で青山通り大山道に合流し、大山へ向かっている。
熊谷から八王子まではほぼ千人同心街道を辿る道になる。今回は八王子から上糟屋までの30キロあまりを歩く。
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2021年5月31日 八王子~下荻野
八王子通り大山道は、甲州街道の八日町交差点を起点とする浜街道(絹の道)と重なる道をしばらくは辿り、西に片倉城跡が臨める片倉の兵衛川を渡ったところで浜街道と分かれる。ここまでは浜街道で以前歩いているので、今回はここから歩き始める。

片倉~橋本
<絹の道との追分>
JR横浜線片倉駅を出て南の兵衛川を渡るとすぐに大山道と絹の道との分岐があり、分岐点には往時の趣を見せる旧家が建っている。


この家の左に行くのが絹の道、右が大山道で、住宅地を抜け、日本文化大学の脇を通って右に進み、国道16号に合流する。

御殿峠
国道16号に合流したところからわずかばかり旧道が残るが、またすぐ先で合流し、東京工科大学の広大なキャンパスを眺めながら緩い上り坂を進むと、やがて御殿峠に至る。
このあたり、旧道は国道の西側を通っていたらしいが、今は消滅している。
お洒落な佇まいの八王子日本閣が建つ交差点を右に曲がって日本閣裏側の方に少し行くと、駐車場入口の反対側の崖になにやら無造作にロープが垂れている。雑草などに隠れて見つけにくいが、ここから旧道に入ることができるはず。ロープを頼りにエイッという感じで崖を上ると、雑木林の中に人一人歩けるくらいの踏み跡の残る旧道の草道が通っている。


昼なお薄暗い雑木林の中の道をしばらく行くと、やがて雑木林から抜け出て、左手の方に八王子バイパスをまたぐ跨道橋が見える。
跨道橋からは急に眺望が開けて、やや曇っているが、遠くに丹沢の山々や大山が見える。

橋本の高層ビルが眼下に見える高台の住宅地の中の急坂を15分ほど下って行くとやがて国道16号に合流し、境川を渡ると相模原市に入る。
境川は、文字通り武蔵国と相模国の境を流れる川で、ここに架かる橋の名は両国橋。

橋本~田名
両国橋を渡って少し先に行くと、かなり大きな長屋門が目に入ってくる。名主であった牛久保家が江戸時代末期に建てたもので、桁行9.5間(約17m)という立派なもの。屋敷内に立ち入ることはできないが、門の中には見事に手入れされた庭が見られる。


この辺りはかつての橋本宿があったところで、他にも立派な薬医門を持つ屋敷が何軒か見られ、かつての繁栄が今に伝わっている。


県道505号線と交差する手前の香福寺は應永年間(1394~1428)開山の古刹で、四脚門の山門は鐘楼とともに江戸時代後期に建てられたもの。山門を入った右手の薬師堂に安置されている薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。


香福寺参道の入口右側にある秋葉大権現は天保5年(1619)に建てられたもの。天保12年(1841)の橋本宿大火で宿場を焼き尽くした火勢は、この碑の前まで来るとピタリと鎮まったという。秋葉大権現の隣には文政2年(1815)建立の徳本念仏塔が建つ。


宿場跡は県道505号線の手前までで、県道505号線を横断すると国道16号から分かれ、すぐ横の真っ直ぐ南下する道に入る。4~5分歩いた右手の神明大神宮は、古くは「お伊勢の森」と呼ばれ伊勢神宮参拝の旅人がここで旅の安全を祈願したという。

神明大神宮からすぐのJR横浜線の踏切は大山街道踏切と記されている。
踏切を渡ってすぐ左手の橋本駅南側の広大なエリアでは、現在、神奈川新駅(仮称)の新設工事が進められていた。工事期間が2027年3月までと表示されており、この光景を目の当たりにして、リニア新幹線が現実の話だとあらためて実感する。150年ほど前までは、大山詣りの旅人などが街道を行き交っていたこの周辺は、今、劇的に変わりつつある。

右手に東電の変電所を見ながら進むと、やがて住宅地に突き当り、そこに棒杭碑が建てられている。ここは大山道が田名方面経由と当麻方面経由に分かれる追分で橋本の棒杭と呼ばれる大山道道標が建てられていた。その旧道にあった棒杭(大山道道標)が、すぐ近くの住宅地の少し奥まった場所に保存されている。安政2年(1855)に建てられた不動明王道標で正面に「右 大山みち」と刻まれ、右側に「北 八王子道」、左側に「南 あつぎ道」とある。


今回は右の八王子道を通って田名方面に向かうのだが、ここは橋本五差路交差点として有名なところで、複雑な交差点の地下通路で国道16号を横断して県道63号に入り、田名方面に向かう。

下九沢
かれこれ20分ほど歩いた先、相模川への段丘の神明坂を下る。下る途中、左に僅かばかり旧道が残っている。旧道に入ると「新道坂/神明坂」と刻まれた真新しい石碑が建てられており、傍らに風化が激しい子育て地蔵が立っている。

すぐに新道坂に合流して10分ほど歩くと、九沢橋交差点手前の祠の中に塚場の夜泣き地蔵が鎮座する。夜泣きする赤ん坊の夜泣きが治るようにこのお地蔵様に願掛けすると夜泣きが治った、という。


九沢橋交差点は、鍵の手に曲がる旧道も残っているため、やや複雑な交差点になっている。交差点を少し左に曲がったところには石塔の3面に2体ずつ地蔵が浮き彫りにされた一石六地蔵がある。


また、道を挟んで南側の稲荷神社の裏には庚申塔や出羽三山供養塔などが集められている。庚申塔は、元々は400mほど手前の塚場交差点際にあった塚だが、安永4年(1775)に造立されたもの。両側に石塔が2基あるが右側は出羽三山碑、左側は一石六地蔵。


鳩川を渡ると田名地区に入る。八王子道はこの先も県道63号線を進むのだが、しばらくは多くの工場が立ち並ぶ道を淡々と歩いていく。

田名~下荻野
九沢橋から15分ほど歩くと、右手に三菱重工の入口が見え、そのすこし先では、左手の広大な敷地に「GLP ALFALINK相模原」という敷地面積30万㎡、延床面積65万㎡という国内最大規模の物流施設開発が進められている。

しばらく先で県道54号線に合流する交差点に来ると、ゆったり広くとられている左側スペースに、やや大きめの座り地蔵2体が並べられている。


県道に合流して5分ほど先、左に曲がると急坂が下るが、下り始める曲がり角に庚申塔、聖徳太子塔ほか多数の石仏・石塔が。かなり風化が激しいが笠付き庚申塔には明和5年(1768)の文字が読める。


このあたりからは、右手はるか下方の相模川越しに丹沢が展望され、素晴らしい眺望が開ける。


急な坂を下った先の信号のところで、右へ下る車道脇に「しろ坂」と刻まれた標柱が建てられている。坂の岩肌が白かったのでしろ坂なのだという。晴れの日でも岩肌の表面全体が水で濡れていて、なんとなく白く輝いているように見える。

信号のところに少し戻ってすぐ先、歩道橋の前から右へ下る細い道があるが、ここが大山街道の旧道。坂を下った所には「旧大山街道」と刻まれた真新しいの標柱横にかなり風化が進んだ多数の石塔が並んでいる。


旧大山街道標柱の前を左に曲がった4~5分先に田名八幡宮が鎮座している。


毎年11月に行われる的祭(まとまち)は源頼朝の時代、法塔建立の際に行われた神事が起源と云われ今日まで伝承されているもので、重要無形文化財に指定されている。
社殿の左手裏に「ばんばあ石 じんじい石」なる妙な石が鎮座している。その昔、日照りが続き作物が枯れそうになったとき「ばんばあ石」を相模川に沈めると雨が降ったのだそうだ。 願いが叶って雨になると、石を川から引き揚げて元に戻すのだとか。この行事は江戸時代中期から始まり大正時代末期まで続いていたという。

<相模川・高田橋>
ほどなく相模川の左岸に到着。往時、ここには対岸の小沢と久所(ぐぞ)を結ぶ渡しがあって、高田橋が出来る大正13年まで渡し舟で結ばれていた。大山参詣の旅人がよく利用したことから宿場としても賑わっていた。
高田橋の田名側の橋のたもとには、神奈川県新八景 水郷田名碑や鮎供養塔、久所の渡し標柱が建てられている。


橋を渡ったら左へ曲がり、その先すぐに地蔵の立つところで右に曲がるが、3本に分かれる道の一番東側の旧道へ入って行く。しばらく歩くと相模川の河岸段丘を上る旧道の小沢坂に差し掛かるが、かなりの急坂。
坂を上りきった所の切通し状のコンクリート壁には、3基の馬頭観音石塔と風化して文字が読めない石塔1基が龕のように作られた窪みに置かれている。旧道の小沢坂がよほど苦労したのであろう、年代を積み重ねて馬頭観音が残されている。


街道は一旦県道に合流し、すぐ先の丁字路交差点で右へ曲がるとすぐに左の旧道へ入って行くが、旧道の入口には大塚地蔵尊が鎮座している。傍らの説明板に彫像年代不明と記されているがかなり古そう。小沢坂を上ってきたこの先の旧中津村に悪霊が入るのを防ぎ、旅人の安全を願って造立したのだろう。


地蔵尊の隣に大山道と刻まれた標柱と自然石の道標があり、道標には、「ひがしゑちみち みなみ大山道 にし みませ道 きた 八王子みち」と刻まれているそうだが、ほとんど読み取れない。

道標の前を進むとしばらくは旧道の細い道が続く。
その先は旧陸軍飛行場が作られたため消滅しているので、迂回して県道65号線の一本松交差点までくると再び旧道に入れる。
旧道を10分ほど歩くと突き当りのところにかなり風化している中津の石仏と真新しい大山道標柱が立っている。


旧道を10分ほど行くと半縄の丁字路で左折するが、右手を見ると丁字路際に双体道祖神、馬頭観音、賽の神、庚申など辻の神仏がまとめて祀られている。


この丁字路を左へ曲がり集落を抜けると旧相模陸軍飛行場の排水路橋が見える。


陸軍飛行場は舗装がされていなかったため雨天時はぬかるみとなってしまうため、それを避けるために排水用として建設されたものだそうで、今も雨水の排水用として使われているという。
排水路橋の下の交差点で県道63号線を渡ると、すぐそこから県道と並行して坂本坂と呼ぶ旧道の下り坂が残っている。かなり急な坂を下ると坂本坂と並行していた県道がぐるっと遠回りしてきて合流する。
その先は淡々と県道を歩き、才戸橋へ向かう。

<中津川・才戸橋>
才戸橋を渡った右側の公園入口に旧才戸橋の親柱が残されており、才戸の渡し碑と大山道道標がある。渡し碑には「・・・武蔵国八王子と矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しで大山参詣道として大変な賑わいだった」とあり、大山道道標には「西 大山道 東 八王子道 南 あつぎ道」とある。


この先は段丘を緩やかな坂で上ってゆく。

才戸橋を渡り20分ほど歩くと、厚木市下荻野の神奈川工科大学に至る。
今日はここまでとし、バスで本厚木まで行き、小田急で帰宅。
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2021年7月19日 下荻野~上糟屋
5月末に、八王子から歩き始めて中津川を越えた神奈川工科大学のところでいったん切り上げてから、かれこれ2ヶ月近くになるが、ようやく梅雨が明けたので、あらためて上糟屋までの残りの部分を歩く。
梅雨明けに伴い猛烈に暑い日が続くようになっているが、残りは10数キロ程度なので思い切って出かけることにした。
我が家からは、本厚木まで電車で行き、神奈川工科大学まではバスで行って再開。

下荻野
歩き始めてすぐに街道から少し外れたところに鎮座する日吉神社に寄り道する。
神社の社殿脇に三兜大神碑が祀られている。


かつて、社殿の裏にあった老大樹が枯れてしまい、そこから毛利の3つの兜が出土したという。そもそも、源頼朝から相模国毛利庄を拝領した大江広元の四男・季光(すえみつ)がこの地を継いで毛利姓を称するようになったことが毛利家のはじまり。
季光は、北条時頼の義父であったにもかかわらず、宝治元年(1247)、北条時頼と三浦泰村とが戦った宝治合戦で三浦泰村に味方し、北条氏に敗北して相模毛利氏は滅亡した。しかし、越後にいた季光の四男・経光(つねみつ)はこの合戦に関わらなかったため、越後と安芸の守護職を安堵され、その家系は存続することとなる。そして、経光は、嫡男の基親に佐橋庄北条(きたじょう)を、庶子である時親に佐橋庄南条(みなみじょう)と安芸吉田庄を相続させた。時親は佐橋庄と吉田庄を継いだが、南北朝時代に安芸吉田を本拠とするようになり、安芸毛利家の始祖となった。毛利元就は、この時親の子孫にあたる。
現在、厚木市下古沢の三島神社に「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。(下の写真は別の日に訪れた時のもの)


街道に戻り、この先しばらくは、県道63号線を南に向けて歩いて行く。
10分ほど歩くと八王子道と大山街道府中通りが交わる荻野新宿交差点に至る。ここに大山街道碑が建てられている。

荻野新宿
荻野新宿交差点からすぐの法界寺は、北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営したと伝えられる浄土宗の寺。


少し行くと荻野川を渡るが、この川の上流1kmほどの相模国愛甲郡中荻野村(現在の厚木市下荻野)に、荻野山中藩陣屋跡がある。小田原藩第五代藩主大久保忠朝の次男教寛は、相模国内に6千石分封されて分家となった。その後、駿河国駿東郡5千石の加増を受けて1万1千石になり、天明3年(1783)、五代教翅のとき荻野山中藩となって駿河からこの地に陣屋を移した。
幕末になり、この地は倒幕を目指す薩摩藩による荻野山中陣屋焼討事件の舞台となった。この騒乱をきっかけに鳥羽伏見の戦が始まり、やがて江戸幕府は滅亡することになる。この時の計画では、下野国都賀郡出流山の挙兵、甲斐国甲府城攻撃、荻野山中陣屋襲撃の三事件だったが、下野国、甲斐国の襲撃は失敗している。

荻野川を渡ると右に旧道がわずかばかり残されている。5分ほどで県道63号線に合流するが、合流点の植栽の中に矢名街道碑が埋もれている。矢名街道とは、八王子から矢名村(現秦野市)を経て小田原まで結ぶ街道だが、上糟屋までは八王子道と共通。
県道を挟んだところにかなり風化が進んだ庚申塔道標が置かれている。

国道412号を越えて4~5分歩くと交差点際に富士塚碑がある。傍らの標柱には「富士山の一部が噴火した際の降灰を集めて塚をつくったもので 富士講の対象ともなっている」との説明がある。


富士塚碑から少し先の弘徳寺入口横に「あつぎの文化財獨案内板」が置かれている。周辺の史跡・文化財などが分かりやすく示されている。

小鮎川を渡り、緩やかな坂を駒ケ原台地まで上ると、すぐ左側の小さな公園に愛甲郡競馬場跡碑があった。大正末から昭和初期にかけて開催された競馬場だが昭和6年に廃止され、跡地を住宅団地として造成し地名を駒ケ原と命名したという。
この辺りは左手に本厚木カンツリークラブとなっている。

県道をしばらく進んだ白山交差点のところからは白山坂を下って行く。すぐ先で県道が左に曲がって行くところで右手に白山神社の屋根が見え、ここから神社の脇をUターンしながら下る急坂が旧道で、ほどなく県道63号線に再び合流する。
ちなみに、白山交差点で右の方に行くと毛利氏發祥地碑のある三島神社が近い。

この先しばらくは県道を淡々と歩くのだが、途中コンビニ手前のひょんなところにかなり風化が進んだ文字道祖神、双体道祖神などが置かれている。


道なりに進み、玉川手前の県道603号を直進、これまで辿ってきた県道63号線から離れる。

玉川
このあたりまでくると、大山がかなり近くに見えてくる。


玉川を渡った先に鎮座するのは小野神社。この神社は延喜式にも記載されている古社で、建久5年(1194)に愛甲三郎によって再興されたと伝わっている。拝殿は嘉永元年(1848)に建てられたものらしいが、近所の子供たちが遊んでいる様子は、地元にすっかり溶け込んでいて、のどかな原風景を見るようで、どこかホッとする気分を持った。


旧道は津古久峠へ向かっていくが、小野の集落が途切れた坂道の上り口あたりに道祖神が置かれ、少し先にも双体道祖神などが並び、やがて山間の鄙びた道となる。


うねうねと曲がる山間の道を上って行くと、少し離れた山の中に日産テクニカルセンターが見えると、やがて十字路のところに津古久峠碑が建てられている。側面の説明によると「後北条時代、小田原と武蔵を結ぶ小田原道として発達。江戸時代になると大山詣での旅人がこの峠を越えていき最盛期には茶屋もあった」のだそうだ。

高架となっている道をくぐった先で八王子道は車道と分かれ、自然散策路と刻まれた石標の脇を山道に入って行く。上りはじめてすぐに二又道となるが、右の細い道を進むと津古久峠茶屋跡碑が建てられている。
今日は、ここまでほとんど県道など舗装道を歩いてきたが、ここからしばらくは、江戸時代に大山参りの旅人が歩いた山間の土道を味わうことができる。


茶屋跡碑から先は雑木林の中の細い道で、少し先に行くと炭焼き小屋が残っている。

雑木林を抜けたところには伊勢原総合運動公園が広がっており、大山道は専修大学総合グラウンドの脇を通り、やがて住宅地に入って行く。

上糟屋
工事中の新東名高速の高架下を通り、県道63号線に合流した先の三光寺のところで東名高速に沿って少し西に行き、東名高速高架下のトンネルを潜ってさらに高速道沿いに西に行くと、青山通り大山道に合流し、そのままさらに行くと五霊神社のところで田村通り大山道に合流する。すぐ先に大山阿夫利神社二の鳥居が立つところである。

ここで八王子通り大山道の旅は終え、合流点近くの五霊神社前の伊勢原駅行きのバス停から帰途に就いた。
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今回歩いた大山道は比較的交通量が多い県道を歩く部分が多いが、八王子の御殿峠に残る草道、大きな屋敷がかつての宿場の趣を残す旧橋本宿、津古久峠に残る土道など、ところどころにかつての旧道の趣を残すところが残っている。
現在、橋本ではリニア新幹線の準備が着々と進められていたり、大山近辺では新東名高速道の開発が進められているなど、この周辺では国家的規模のインフラ整備が進められており、将来的にはますます大きな変貌を遂げることであろう。

厚木では、下荻野の日吉神社に三兜大神碑、下古沢の三島神社に毛利氏發祥の地碑があり、毛利家ゆかりのものがあることは新しい発見だった。
大江広元からこの地を受け継いだ四男・季光だが、宝治合戦で北条氏に敗れて一族の大半を失い、相模毛利氏は滅亡した。この合戦に関わらなかった季光の四男・経光は、越後と安芸の守護職を安堵され、越後国刈羽郡佐橋荘南条と安芸国吉田荘に毛利家は継承された。
ここに厚木と越後柏崎との接点が見られる。

我が家から近い厚木は、これまでは豊かな自然の中のキャンプやゴルフで訪れる所というイメージが強かった。しかし、青山通り大山道や今回の八王子通り大山道を歩いて、歴史的なエピソードをいろいろ見るにつけ、目のうろこが落ちた気がした。