高崎自然歩道は、観音山丘陵の少林山~山名間全長約22kmの遊歩道。街道歩きとは異なり、丘陵に整備された遊歩道を歩いて多様な史跡を巡るトレッキングになる。歩き進むにつれて榛名山や赤城山を臨むスケールの大きな眺望が楽しめるが、少林山達磨寺、白衣観音、洞窟観音といった名所や、ユネスコ「世界の記憶」に登録された金井沢碑、山上碑、多数の万葉歌碑が建つ石碑の路(いしずえのみち)、寺尾中城址、根小屋城址や山名城址等々、古代から近代までの時代をまたがる見どころの多い道である。
歴史の道の視点から見ると、この地域は古代の東山道、中世の鎌倉街道、近世の中山道・三国街道などが通る交通の要衝であり、軍事上も重要視されてきたところである。
私の「街道歩き」の最初の体験は鎌倉街道上道だったが、山名あたりからは時間の都合もあってゴールの高崎に向かって足早に通り過ぎるのみであった。今回歩く道筋には、史跡などの見どころに加え、脇道や枝道が多いといわれる鎌倉街道の痕跡もあるようなので訪れるのが楽しみである。
高崎市発行のガイドマップでは山名から少林山達磨寺に向かうルートとなっているが、我が家から日帰りでこのコースを歩く場合のアクセスや帰りの交通の便を考慮した結果、高崎から少林山達磨寺に行って、自然歩道を山名まで歩き、山名から高崎に戻って帰るというルートをとることとした。
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2023年10月26日 少林山達磨寺~山名八幡
我が家を朝早く出て高崎まで行き、駅前8時2分発のぐるりんバスで少林山入口まで行って歩き旅をスタートする。このところ晴天が続いておりウオーキングには申し分ない日和だが、この時期としては日中の気温がかなり高く、朝晩の気温差が大きいため重ね着のウエアには工夫した。
少林山達磨寺
達磨寺は縁起だるま発祥の寺としてよく知られている。かつて中山道歩き旅の際立ち寄った時は、牌楼式(はいろうしき)の総門から真っ直ぐ見上げる石段に気後れし、門前で踵を返して八幡八幡宮の方に歩を進めていた。今回は石段を上り、洗心亭、観音堂、霊符堂(本堂)など境内を一通り巡った。
洗心亭は、日本文化の素晴らしさを世界に伝えたブルーノ・タウトが滞在した庵として知られる。
本堂の後方に行くと古墳があり、さらにその後方が幾重もの段状の公園になっている。そこからの榛名山の眺望はなかなかなもの。
なお、このあたりに分布する少林山古墳群は、5世紀中ごろから6世紀後半までの円墳で構成される群衆墳とのこと。地図を見ると、高崎周辺には驚くほど多くの古墳群がみられる。
公園の展望台の下あたりに「白衣観音めぐりのみち」と記された標識が立っていた。そちらの方に行くと、少し分かりにくいところに自然歩道入口があった。そこから足を踏み入れるといきなり藪に覆われた山道となり、一気に標高およそ250mまでの上りになる。ちなみに達磨寺の総門からは標高差140mほどになる。
左手に霊園があるところを通り過ぎると、しばらくは畑の中ののどかな農道が続く。
やがて少し広い車道に出たら、この先の高崎特別支援学校を目指してのんびり歩いていく。このあたり、遮る建物などがほとんどなく、見渡す限り青空が広がる心地よい道が続く。
特別支援学校を過ぎると、寺崎牧場横を通っていく。
このあたりの標高は280mほどで、今回の自然歩道で最も高いところとなり、少し足を延ばせば鼻高展望花の丘がある。
寺崎牧場のところでいったん県道に出るが、すぐに左手の山道に入って行く。
山道を進んでいくと、一時車道に出た後すぐに再び山道に入り、しばらくすると右手に穴大黒(大黒の洞穴)が見えてくる。
説明板に、「この穴には元禄3年9月と刻まれた石殿と最近になって収められた大黒様があります。石殿は古くから大黒様として信仰されていて「穴大黒」と呼ばれています。そしてここの小字名は「大黒」といっています。」とある。自然の斜面を利用して作られた横穴式古墳で、古墳時代末期の7世紀後半のものという。
穴大黒のすぐ先で車道に出て、少し行くと三叉路で県道に合流し、しばらくはやや広い林道を歩いていく。ガイドマップでは、途中で「千人隠れ」の方に行く分岐があるはずだが、見落としたのか林道小塚線をそのまま歩いた。
やがて林道桶の沢線に合流し、しばらくして小塚四号橋を渡るとすぐ左手に白衣観音に向かう山道の入口がある。イノシシ出没注意の看板が立つ山道を上り、染料植物園入口を過ぎるとほどなく白衣観音に至る。
白衣大観音
かつて高崎を通る列車の中から遠くに眺めたことが何度もあったが、間近に見るのは今回が初めて。圧倒されるほど大きくて真っ白な観音様が真っ青な空の中に実に美しく映え、その慈悲深い表情は見るものの気持ちを自然に優しくしてくれる。
高崎のシンボル白衣観音は、昭和11年に実業家井上保三郎翁が巨額な私費を投じて観音山山頂に建立した高さ41.8mの観音像である。
明治元年生まれの保三郎翁は、明治17年に高崎線が開通すると、東京の魚河岸で仕入れた海産物を松本方面で商って大きな利益を得た。その後、鉄道敷設事業・建設事業に注力し、高崎を中心とする群馬地域の近代的発展に貢献した。
この日は、ここで高崎在住のIさんと待合わせており、この先一緒に歩くことにしている。
達磨寺を出てからところどころで道に迷ったりしたため、予定より10分ほど遅れてしまったが、無事合流。この日は、Iさんの奥方も一緒に出迎えてくれた。
ここでしばし休憩しながら簡単な昼食を済ませ、保三郎翁像の前を通って洞窟観音に向かった。
白衣大観音から洞窟観音までは、やや広い尾根道をゆったりと歩いて行ける。
洞窟観音・徳明園
洞窟観音と徳明園を作ったのは、新潟県柏崎市出身の山田徳蔵翁。明治から昭和にかけて高崎を拠点に呉服商として成功を納め、若くして莫大な資産を築いたが、『財を私せず』の信念のもと私財をなげうち、高崎の繁栄と人々の信仰を願って50年の歳月をかけてこれを作ったという。
洞窟観音から住宅地の中を通って県道金井高崎線沿いの特別養護老人ホームのあたりに出る。
このあと自然歩道ガイドマップでは県道金井高崎線で西の方に少し行ってから観音山ファミリーパークの方に折り返すようなルートをとるようになっているが、このあたりにあるはずの館の百庚申の方を回って観音山ファミリーパークの方に向かうルートをとることにした。
館の百庚申
寺尾町館にあるこの百庚申は、寛政10年(1798)から造り始めて、2年後の庚申(かのえさる)の年に完成されたもので、一石ごとに番号が刻まれている。
これらの塔の「庚申」の文字の中には有名な書家の手になるものも多く、書道展の役割も果たしていたという。しかし道路工事や山の崖くずれなどのため数は減り、なかば土に埋もれたり風化している。
この先、観音山ファミリーパークの方に向かってしばらくは淡々と歩いていく。途中、道端にコスモスが咲いているところがあり、立ち止まってみたら遠くに赤城山が臨めた。
館の百庚申から2.5kmで観音山ファミリーパークに至る。
観音山ファミリーパークは広い芝生広場が広がっていて実に開放感のある公園である。
パークの中を進むと寺尾中城址に向かう道があるはずだが、公園内に様々な標識が立っており自然歩道への入口はちょっとわかりにくい。
どうにか自然歩道の入口を見つけ、頑丈そうな獣除けフェンスの扉を開けて入って行く。
パークから遊歩道に入るとほどなく、寺尾中城址の案内標識が見られるようになる。
寺尾中城址
寺尾中城は後醍醐天皇の孫である尹良親王が新田一族世良田政義の支援を受けて籠城したとされる城である。その後、応永19年(1412)、足利方の上杉憲定に攻められ落城、尹良親王は信濃の諏訪へ逃れたと伝わる。また治承4年(1180)に挙兵した新田義貞がここを拠点にしたという説もある。
寺尾中城はファミリーパークに続く山の東側の尾根に築かれており、主郭を中心に東西の尾根に曲輪が東西に三つ並んでいる。
本城跡に立ってみると、高崎、前橋市街とその先の赤城山まで一望できる。
このあと金井沢碑に向かおうとするが、寺尾中城址周辺に多数みられる道標に高崎自然歩道の道標がなかったため、一時道を誤ってしまった。結局、少し元に戻って「衣沢入口」と記されている方へ下りるのが正解とわかり、しばし倒木ありの荒れた細道を進んだ。
やがてどうにか金井沢碑に向かう道に出ることができたが、自然歩道とはちょっと異なる城山団地沿いの道を進み、寺尾茶臼山城址に近い道を歩いて金井沢碑に向かった。
金井沢碑
上野三碑のひとつ金井沢碑は、奈良時代前半の神亀3年(726)に三家氏(みやけし)を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑である。三家氏は、佐野三家(さののみやけ)を管理し、山上碑を建てた豪族の子孫だと考えられている。碑文には三家氏を中心とした9人の名前が記されており、碑を建てた人物は現在の高崎市上佐野町・下佐野町あたりに住んでいたとみられる。
石碑は風化を避けるために覆屋の中で展示されている。(ガラス戸越しのため写真は撮りずらい)
<上野三碑>
古代上野国にある上野三碑(こうずけさんぴ)は、飛鳥時代から奈良時代に建てられ、漢文が刻まれた3基の石碑(すなわち山上碑・多胡碑・金井沢碑)の総称。日本に18例しか現存しない古代の石碑の中でも最古の石碑群である。
朝鮮半島の石碑文化の影響を反映する石碑、文字の使用、碑文からうかがえる仏教信仰等、早くから先進文化が定着・蓄積していた上野国の文化の水準の高さを象徴する文化遺産である。
いずれも国の特別史跡に指定されており、2017年にはユネスコ世界の記憶に登録された。
<石碑の路>
金井沢碑をあとに、元来た道を少し戻るとすぐに左手の山道に入って、山上碑の方に向かう。この先、上野国を詠んだ万葉歌碑が多数置かれている約5kmは石碑の路(いしぶみのみち)と呼ばれている。
ここに万葉歌碑を建てたのは、高崎市の建設業、信澤工業株式会社の二代目社長信澤克己氏。昭和50年に根小屋城址に1基目の碑を建ててから、平成13年に金井沢碑入口に29基目となる碑を建てるまで、26年間黙々と私費を投じて碑を建て続けたという。
石碑の路に入って少し進んだところに鎌倉街道七曲りの説明板が置かれていた。
「中世の覇府への道を鎌倉街道という。したがって何処の地方にもこの名の道がある。高崎、当時の和田からの鎌倉への道は城下から佐野の渡しで烏川を越え、山名の里、藤岡を経て武蔵の八幡山(児玉)から一路鎌倉に通っていた。当時は碓井川がこの山名丘陵の山裾を洗っていて現在の根小屋七沢も山際の道を寸断していたので、特に夏季は金井沢を遡り、七曲りの急坂を登って尾根道をたどったという。七曲りは急坂に作られた電光形の道のことで、この辺りがその七曲りの址だとされている。現在の七曲りはエネルギー革命以前、盛んに掘られていた亜炭鉱のボタ山の址にできた道である。尾根道についても何処が鎌倉街道であったか俄かには定めがたい。」と記されている。
和田(高崎)と鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道は、この辺りでは山名八幡宮から県道30号線沿いに高崎商科大学付近へ進みそこから烏川を渡って下佐野へ通じるルートと、高崎商科大学から根古屋町を抜けて佐野の渡し付近で烏川を渡るルートがよく知られているが、地形や河川の流路による渡河地点の変化などにより、この七曲りルートは時により鎌倉街道あるいはその枝道だったのであろう。
いずれにしろこの道はこの先の根小屋城址、山名城址へ通じており、南北朝から戦国時代にかけて関東と信濃、越後を結ぶ重要な道となっていた。
石碑の路に入って鎌倉街道七曲りの説明板がある辺りからは、かなりな上りの山道となり、2kmほどで根小屋城址に至る。(この日は城址には立ち寄らず)
根小屋城祉
根小屋城は、北条氏康との同盟を破棄した武田信玄によって築かれた城である。境目の城として、北条氏と上杉謙信に備えた狼煙台として使われているが、武田氏が上野国から撤退したのちに廃城になったとみられている。
根小屋城址から峰続きの道を南に1kmほどで山名城址に至る。
山名城址
山名城は新田氏家臣で後に足利将軍家の重鎮となった山名氏発祥の城であるといわれる。
山名氏の祖山名義範は源義家の孫の新田義重の子で、源頼朝に従いこの辺り一帯を治める御家人となりこの地に館を築いた。その後、山名氏は足利尊氏に従い、侍所別当に任じられるなど勢力を拡大した。山名城は、南北朝時代には寺尾上城、中城とともに整備され、別名寺尾下城・前城等と呼ばれた。戦国期には、武田氏、滝川氏、北条氏と主家が変わり、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後に廃城となる。ちなみに、応仁の乱で西軍の指揮を執った山名宗全は山名義範の子孫になる。
山名城址の先、心地よい道となっており、ほどなく山上碑と古墳が現れる。
山上碑
山上碑は、放光寺の僧長利が母黒売刀自(くろめとじ)のためにこの碑を建てたことと長利の母方、父方の系譜を日本語の語順53字で刻んだもので、天武天皇10年(681)に建てられた日本最古級の石碑である。
上野国の有力豪族の子孫である長利が勤めた放光寺は、東国有数の大寺院であり仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利はかなりの知識人であったとみられている。
山上碑の隣にある山上古墳は直径15mの円墳で、南に開いた横穴式石室(奥行き7.4m)がある。もとは黒売刀自の親の墓として造られたもので、そこに黒売刀自が追葬されたものと考えられている。
山上碑から急な坂道を下って道路に出たところで左折し山名八幡の方に向かっていくと、三本辻のところに山ノ上地蔵尊が鎮座している。
地蔵尊の説明板には、「鎌倉街道は、この先の山名八幡宮からこの三本辻に向い、下って鏑川方面に向かっていた」と記されている。
和田城の方から来て山名八幡宮から鏑川方面に向う道としてはこの三本辻に向かわず、そのまま南に向かう道もある。もともと鎌倉街道は脇道や枝道も多かったが、特に高崎周辺では複数の道筋が残されていて、いかに多くの武士たちが鎌倉とのかかわりを持っていたのかが窺える。
このあと、山ノ上地蔵尊の近くにあった標識についうっかり従い、三叉路を右の山名駅方向に進んでしまったため山名八幡宮の裏手に出てしまった。
この時期は日没時間に近くなると帳が落ちるのが早くてたちまち薄暗くなってしまうため、先を急いだことがあだとなった。
山名八幡宮
今回の自然歩道歩きのゴール地点となる山名八幡宮は、山名氏の祖山名義範が平安時代末期に豊前国の宇佐八幡を勧請して社殿を造営したのが始まりとされる。応永年間に南朝の尹良親王が山名城に滞在の折、城主の娘との間にできた子の安産をここで祈願したと伝えられ、以来、安産・子育ての神として信仰を集めたとされている。
残念ながら今回は山名八幡宮の参詣はできなかったもののなんとかゴールインし、目と鼻の先の山名駅から16時46分発の電車で高崎に戻った。
上信電鉄高崎駅に到着し改札を出たところに、上野三碑のレプリカが展示されていた。(以前、JR高崎駅で目にしたことがある) よくできたレプリカで、今回歩いた自然歩道の道筋から外れたところにある多胡碑(たごひ)も見ることができる。
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自然歩道のルートには車が通る道もあるが、ところどころの山道は一部はぬかるんでいたり藪道であったりと文字通りの自然歩道でありアップダウンも多い道であった。
この道には白衣観音、洞窟観音といった名所や、ユネスコ「世界の記憶」に登録された金井沢碑、山上碑や万葉集に収められた上野国歌の多数の歌碑が建つ石碑の路(いしずえのみち)、寺尾中城址、茶臼山城址、根小屋城址や山名城址など古代から近世に亘る見どころの多い道であった。
22kmほどの道と言えば普通のウオーキングであれば一日で歩けるところだが、見どころが多いため、一日で歩いてしまうにはもったいない気がする道であった。
帰宅後、あらためてこの地域のことをいろいろ調べていると、実に古墳群が多いことが分かる。なかでも特に山名周辺には古墳が集中している。
上野三碑はそういった歴史的背景があってのものであり、この地域の歴史の奥深さが窺える。