『密か』―ひそか―・壱
ゴツッ。何やら重い物が落ちる音と、くぐもるような呻き声、二つが共に、ほの暗い部屋に低く響いた。
晩秋、早暁。江戸は牛込柳町、甲良屋敷にある試衛館道場。
色付く葉が赤みを増し、夜明けが、刻々と遅くなってゆくこの季節。
それを追うように、寒さもまた、日々深まってゆく。
「若先生っ」宗次郎は、慌てて呻き声の主を見上げた。
「・・大丈夫だ」
近藤は、苦笑いしながらも、眦(まなじり)に涙を溜めている。
明けの陽は未だ射さぬが、部屋に灯りを入れる程に暗くは無かった。
そんな、手元の不確かな作業が悪かった。
近藤の隣で、役者のような端整な貌を、それに似合わぬ仏頂面で飾る土方は、深々と溜息を吐いた。
「・・足の小指に当たって、大丈夫もねぇだろうが」
「痛いと、口に出すと余計痛む」
近藤は、口を引き結んだ。
土方は、仏頂面のまま、近藤の足の小指を直撃し、勢い転がった太刀を拾い上げた。「危ねぇと、言う間も無かったな」
渋い声に、近藤は頷いた。
「避ける間も、無かったぞ」
二人は、目の前の少年に視線を落とした。
「・・・下げ緒を工夫するしか、仕方ねぇな」
「・・そうだなぁ」
近藤は、目元を乱暴に擦り上げると、土方の持つ太刀を覗き込んだ。
再び二人は、目前に立つ宗次郎に、溜息混じりの視線を向ける。
あまりに華奢な少年の、あまりに細い腰元は、差し込んだ太刀を収めきれず、スルリと腰から逃がしてしまった。
手挟(たばさ)んだ途端に落ちたので、流石の近藤も、避ける事など出来なかった。
「こんなに細くちゃあ、どうしようもねぇ」「歳、何とかなるか・・?」
「何とかしねぇと、仕方ねぇだろうが」
その遣り取りを、宗次郎は、困ったように見上げている。
土方は、宗次郎の腰元にちらりと視線を向けた後、どっかりと胡座をかき、器用に下げ緒を結い直した。
太刀を近藤に渡すと、ゆっくり立ち上がり、今度は宗次郎を手招いた。
「こっちも、締め直しだ。来い」
土方は、宗次郎の脇差を抜き取ると、本人の胸元に押し当てた。
それから、宗次郎の袴の紐を緩め始める。
宗次郎は、脇差を両の手で抱えたまま、大人しく土方の動きを見つめている。無骨で、しかし綺麗な長い指が、袴の紐を解き、再びしっかりと締め直す。
脇差を取り上げると、土方は、様子を見ながらゆっくりと挟み込んだ。
次に近藤が、慎重に、細腰へ太刀を差し込んだ。今度は、落ちなかった。
「・・大丈夫だな?」
心配そうに問う近藤に、宗次郎は笑顔を見せた。
「はい。ありがとうございます」
腰の二本を見つめる貌が、嬉しそうに輝いている。
しかし、その瞳の色は、新しい玩具を与えられた子供のそれに近い。
どうにも危うげな様子に、近藤、土方は目を合わせた。
「近藤さん。・・やっぱり、危なっかしいぞ」
「・・・まあな」
「そんな事は、ありませんよ」
宗次郎は、頬を膨らませた。
幼い仕草に、二人は苦笑した。
「やはり、危なっかしいな」
笑い含みの近藤の声が、陽の射し始めた部屋に響いた。
宗次郎の、佩刀である。十六になる弟弟子を、二人は、複雑な表情で見つめた。
人形と見紛うような造作も、細すぎる躰も、歳相応に見える処は一つも無い。
二本差したその姿は、雄々しいと言うには程遠く、あまりに儚く頼り無い。
然りながら、竹刀を握れば、誰にも負けぬ天稟を持つ少年である。
二人の複雑な色を認めながらも、薄闇色の瞳は、屈託無く明るい光を湛えている。
この少年は、自ら明るい光を放っているように感じる。
「お前、もう少し太れ」命令口調の土方に、宗次郎は目を丸くした。
「太れ・・?」
首を傾げる愛弟子に、近藤は喉奥で笑った。
「そう言うな、歳。随分と躰はしっかりしてきた」
宗次郎は、近藤を見上げ微笑した。
「何言ってやがる」
土方は、仏頂面のまま腕組みする。
「大体な、鍔が引っ掛からずに太刀が抜け落ちるなんざ、俺は初めて見た。そんな事で、重さに負けず歩けるのかよ?」
「大丈夫です」
宗次郎は、笑った。
土方は、眉根を寄せたまま、宗次郎の頭から足先までを見つめた。
「大体、食い物の嫌いが多すぎる。こんな貧乏道場で、我儘なこった」
「歳、・・貧乏は余計だ」
近藤の渋い声に、土方は聞こえぬふりをする。
「ま、値の張らねぇ物に、嫌いが無いのは試衛館(ここ)向きだがな」
「歳・・・」
益々、余計なお世話である。
「しかし」土方は、笑った。
「もう少し、デカクなるかと思ったが、たいして伸びなかったな」
近藤も、頷いた。
「十二、三の頃だったか、夏だけで三、四寸伸びた事があったな」
「あの勢いでデカクなっていたら、俺や近藤さんは、疾うに越されたぜ?」
その背は、近藤の肩に何とか届く程、土方に至っては、胸辺りにやっと届く程になるか。
土方は、乱暴に宗次郎の頭を撫でた。
「もう、伸びそうもねぇな」
子供のような扱いに、宗次郎は頬を膨らませた。
「まだ、伸びます」
近藤、土方は目を見合わせ、笑い出した。
「どうだかな?お前、この夏も一寸も伸びなかったろ?」
宗次郎は、むくれながら頭上の手を掴まえた。
「まだ大人じゃありません。・・伸びます」
土方は、笑った。
「お前、子ども扱いは嫌いじゃなかったのか?」
廊下から、井上の声が掛かる。
「宗次郎、握り飯を拵えたよ」
「源さん、ありがとうございます」
掴まえていた土方の手を離し、ぱっと嬉しそうな貌をした宗次郎に、近藤は吹き出してしまった。
「まだ、伸びそうだな。宗次郎」
井上から竹包みを受け取った宗次郎が、近藤の言葉に首を傾げた。
宗次郎は、今回、初めて一人の出稽古を任された。これ迄は、誰かに付いて出掛けていたが、道場主、近藤周助が許可を出した。
それを機に、今迄許さなかった佩刀も認めた。
あまりにも細い腰が、刀を逃したのはご愛嬌である。
陽の射す門前、兄弟子三人が宗次郎を囲んだ。「気を付けてな。途中の茶屋で、ちゃんと休むのだよ?」
「はい」
心配そうに目を細める井上に、宗次郎は笑顔を見せた。
「橋本さんに、宜しくと伝えてくれ」
「はい」
「喰い物の嫌いを言って、困らせるなよ」
「大丈夫です」
宗次郎は、三人に深々と頭を下げた。
「行って参ります」
「気を付けてな」
門前で、華奢な背を見送る三人は、揃って深い溜息を洩らした。肩に掛けた剣術道具も然る事ながら、腰の二本は、かなり重そうに見える。
「どうにも危なっかしいな。・・佩刀迄、許す事は無かったんじゃねぇのか?」
土方の苦い声に、近藤は、仏頂面の親友を見つめた。
「養父上(ちちうえ)のお考えだ。問題なかろう」
井上も、頷いた。
「一人で出稽古に出るんだ。良い機会だろう」
「そうかねぇ」
土方は、朝陽に溶ける華奢な背を見つめた。
面差しからも、見掛けからも、年齢(とし)より幼く見える宗次郎だ。
重い剣術道具を肩に負い、細腰に二本差した姿は、凛々しさよりも危なっかしさが先に立つ。
三人が見守る中、元気良く歩く姿は、光の中に溶けてゆく。
「・・面倒に、巻き込まれなきゃいいがな」
「歳、お前も大概心配性だな」
破顔した近藤を、土方は顰め面のまま見つめる。
「悪い予感ってのはな、大抵が当たりやがるんだよ」
「歳さんの勘は、あながち馬鹿に出来ないからねぇ」
神妙な貌をする井上に、近藤は口を引き結んだ。
「何だい、源さんまで縁起でも無い」
姿の見えぬ坂道を、三人はもう一度見つめた。
「元気に戻って来るさ」
消えた愛弟子に代わり、今度は、屈強とも言える体躯の男が、姿を現した。取り立てて背が高い訳でもないが、鍛え上げられた躰に、隙の無い所作で悠然と坂を上がってくる。
「・・珍しい奴が、来やがったな」
土方の声に、背を向けていた近藤、井上が振り返る。
「永倉さんじゃないか」
井上が、親しげに声を掛けた。
「おはようございます」
三人に会釈しながら、男は、屈託無く笑う。
永倉新八。松前脱藩の浪人で、岡田十松門下、神道無念流の遣い手である。
十九の歳に、剣術修行を理由に脱藩した、剛毅の者である。
一体何が気に入ったのか、ふらりと試衛館道場を訪ねては、幾日か逗留するようになった。
切欠は、当節流行(はやり)の剣術試合である。
明るく、筋目の通った竹刀を振るう男は、見る間に近藤と打ち解けた。
それから、時折訪ねては、道場で汗を流してゆく。
二十一にしては、落ち着いた風情を持つ飄々とした男である。
「宗次郎の奴は、一人で出稽古ですか?」「今日が、初めてなんだよ」
井上の応えに、永倉は、やや首を傾げた。
「・・まだ、早いんじゃないのかい?」
「そんな事はない。宗次郎も十六だ、腕も立つ」
近藤の応えに、再び首を傾げる。
「そうは言いますが、どうにも、危なっかしかったですよ?今にも、腰の物が落ちそうだった」
三人は、思わず吹き出した。
「何ですか?」
眉根を寄せた永倉に、三人共が頭(かぶり)を振った。
「暫くは、居られるのか?」永倉は、頷いた。
「宗次郎とも手合わせしたいし、近藤先生、それまで厄介になりたいのですが」
「構わんとも、宗次郎も喜ぶ」
永倉は、笑った。
「あいつ、自分が戻るまで、絶対試衛館に居てくれと言っていましたよ」
近藤は、破顔した。
「宗次郎は、強い奴が好きだからな」
「では、厄介になります」
一礼した永倉は、土方の貌を見て吹き出した。
「何だい土方さん。心配が張り付いたような表情(かお)をして」
土方は、不機嫌な貌をした。
「この貌は、元からだ」
永倉を囲み、試衛館に戻る近藤、井上の背を見つめながらも、土方は、もう一度坂の下へ視線を流した。三日もすれば戻ってくる少年に、どうしてこうも後ろ髪を引かれるものか。
心の奥深く、葬り去った恋情故か、単なる兄弟子としての心配か――。
「・・いい加減にしやがれ」
自身に吐いた悪態に、土方は自嘲した。
「疾うに、諦めたものを・・」
長身の男は、今度こそ、思いを断つように踵を返した。
深更。月の細い夜、永倉の持つ提灯一つでは、何とも足元が頼り無い。
「この時刻に戻るのも、何とも切ない話だねぇ」
気だるげな言葉とは裏腹に、妙に明るい声を出す永倉に、後ろの土方は苦笑した。
「あそこは、泊まりはとらねぇ。仕方無いさ」
永倉の、肩が笑った。
「土方さんになら、朝まで居て欲しいだろうさ」
「置きやがれ」
土方は、貌を顰めた。
「吉原には、土方さんの馴染みは居ないのかい?」
笑い含みの永倉に、土方は眉根を寄せた。
「・・吉原じゃ、金が持たねぇ」
「って事は、居るのか。・・・羨ましいねぇ」
「あんたも、居るんだろうが」
永倉は、小さく笑った。
「小見世や河岸に行く位なら、近場の見世の方がましさ」
「違いない」
暗闇に、笑い声が小さく響く。
試衛館の門が見えた処で、永倉は、灯りを吹き消した。「消すには、早過ぎねぇか?」
永倉は、悪戯げに笑う。
「山南さん辺りは、まだ起きていそうだ。・・良い貌しないぜ?」
土方は、貌を顰めた。
「そう言えば、居たな」
「あの人も、変わっている」
「お前が、それを言うな」
二人、笑った。
山南敬助。二十七になる、仙台脱藩の浪人である。
神田お玉ヶ池の北辰一刀流道場、玄武館にて免許を得ている。
玄武館は、麹町三番町にある神道無念流道場「練兵館」、京橋浅蜊河岸にある鏡新明智流「士学館」、神田和泉橋通りにある心形刀流「伊庭道場」と合わせ、江戸四大道場と呼ばれる名門である。
永倉同様、一体何が気に入ったのか、時折試衛館を訪ねては、幾日か逗留して竹刀を交えるようになった。
穏やかな人柄で、書に通じ、近藤とも気が合う。
年少の宗次郎を、何より可愛がっていた。
永倉が逗留を決め込んだ二日後、此方も、ふらりと試衛館を訪ねて来た。
「山南さんの事だ。宗次郎の出稽古中にと、説教されそうだな」「・・あいつは、宗次郎の名を出せば、俺が大人しくなると思ってやがる」
土方の渋い声に、永倉は、吹き出した。
「実際、土方さんは、宗次郎には弱い」
「あいつに、強い奴など居ない」
「そりゃ、そうだな」
永倉の声は、まだ笑っている。
「ところで土方さん、好いた女でも出来たのかい?」
「何?」
土方は、ゆっくりと永倉を見つめた。
「妓の好みが、変わった」
永倉は、懐手のままニヤリと笑う。
「俺は、あんたが妓を選ぶ処を、初めて見た」
「・・選ばずに、どう抱く?」
無愛想な応えに、面白げに笑う。
「今までは、寄って来た妓を相手にしていた」「それでも、選んではいたさ」
「そうだな。土方さんの選ぶのは、艶で、綺麗な妓ばかりだった」
「・・そうか?」
「そうさ、それが今日は何だい?どう考えても、あんたの好みじゃない」
無表情な土方に、永倉は、目を細めた。
「・・惚れた女に、似ていたのかい?」
途端、土方の貌が、夜目にもわかる程強張った。
その変化に、永倉の方が驚いた。
「・・まさか、傍(おか)惚れって訳でもないだろうな?らしくねぇ」
土方は、細い月を仰いだ。
「そんなものは、端(はな)から居ねぇよ」
「あんたが傍惚れなんぞ、有り得ねぇか」
歩き始めた永倉の背を睨みながら、土方は、無言のまま試衛館の門をくぐった。
捨てた恋なら、ある。決して実らぬ禁断の恋。
その片恋に、散々苦しみ、どれ程の年月(としつき)を過ごして来た事か。
疾うに割り切り、諦めて、心の奥深く葬り去った恋心。
それなのに、己にかった箍なぞ、針の穴程の切欠で、見る間に緩み、引き千切られてゆく。
九つも年下の、誰にも愛される可愛い弟分。
あの少年に、一体何の切欠で、ここまでの恋情を抱いてしまったのか。
この想いを告げて、喜ぶ者なぞ一人も居ない。
これだけは、どうあっても外に出す事は出来なかった。
いつまでも恋々と、女々しいものよと嘲ても、心は、外へ出せと暴れ狂っている。
兄と慕い、屈託無い笑顔を向ける宗次郎。傍近くに居て、いつまでもあの微笑みを見守る為なら、恋心など犬にでも呉れてやる。
己の恋情など、何度でも、その息の根を止める。
そう、決心したのだ。
門から二、三歩の処で、永倉が、足を取られてよろめいた。体勢を立て直す永倉に、土方は意識を戻した。
「おい、大丈夫か?」
「何かに躓いた。・・何だ?」
二人、闇に透かすように見れば、木刀に通したままの剣術道具が転がっていた。
「・・・剣術道具?何でこんな処に」
腕組みで覗き込んでいた土方の顔色が、瞬時に変わった。
「これは、宗次郎の物じゃねぇか」
永倉は、驚いた。
「あいつが戻るのは、明日の晩だろう?」
「・・その筈だが」
「それに、土方さん。これは・・」
声を低めた永倉に、土方も身を固くした。
「・・血の臭いだ」
更に目を凝らせば、視線の先にも何かが落ちている。
二人は、駈け出した。
そこには、太刀と脇差が、放ったように散らばっていた。「・・刀じゃねぇか」
投げ出すように捨て置かれた太刀には、土方が結った下げ緒が見えた。
細い月に、微かに照らされる太刀は、鞘に収まりきってはいなかった。
ちらりと見える刃が、鈍く光っている。
光ったのは刃ではなく、生々しい血膏だった。
二人は、息を呑んだ。
「宗次郎は、何処だっ?」
強張るような永倉の声に、土方は、闇に向かって目を凝らした。
「・・水音だ」
「裏手かっ」
二人は、荷物をそのままに駈け出した。
庭奥、裏の井戸に、微かな人影が見えた。その影は、水を汲み上げると、頭から一気に被った。水音が、闇に冷たく響く。
土方と永倉は、縫い止められたように立ち止まった。
影は、再び水を汲み上げると、淀みない動きで頭上から水を落とす。
弾け飛ぶ水が、月の光を取り込んだ。それが、細い月と共に、水濡れた華奢な姿を照らし出す。
「宗次郎っ」
永倉が、叫んだ。
宗次郎は、着物のまま、頭から水を被っていた。
永倉が駈け寄り、水を汲み上げようとする細腕を掴み上げた。
「宗次郎っ、止めろっ」
永倉は、桶を取り上げ横に放った。
水は、立ち止まったままの、土方の足元まで飛んできた。
土方は、我に返り慌てて駈け寄った。
「宗次郎っ」
宗次郎には、永倉の声が届いていないようだった。
止められた腕を振り解こうと、必死にもがいている。
細い肩を、土方が抱き止めた。
華奢な躰は、余す処無くずぶ濡れだった。夢中でもがく細い躰が、永倉と土方の腕の強さに、徐々に力を失ってゆく。
その躰は、氷のように冷たく、震え上がっていた。
「宗次郎っ」
土方が、叫んだ。
宗次郎は、薄闇色の瞳を虚ろに開き、揺さぶられるままになっている。魂の抜けた人形のような様子に、二人は愕然と視線を交わした。
「土方さん・・・わかるか?」
永倉の強張った声に、土方は無言で頷いた。
――華奢な躰から、強い血臭がする。
一体、幾度同じ事を繰り返していたのか、辺りは水浸しだった。
土方は、宗次郎を抱え上げた。永倉が、慌てて宗次郎の部屋へ走る。部屋の灯りを入れた処へ、宗次郎を抱えた土方が駈け込んできた。
ほの暗い灯りの下、二人は言葉を失った。
宗次郎は、朱に染まっていた。滴る水までもが、朱を滲ませ、流れ落ちる。
「近藤さんを呼んできてくれっ」
土方の鋭い声に、永倉は身を翻し駈け出した。
「宗次郎っ、しっかりしろっ」
宗次郎には、何の表情も無かった。
頬を張ったが、全く反応しない。
美しい薄闇色の瞳は、大きく見開かれたまま、何の光も返さなかった。
虚ろな瞳が、玻璃玉のように土方の貌を映し出している。
土方は、背筋が凍りつく思いだった。
震え上がる身に、慌てて濡れた着物を脱がしに掛かる。強かに濡れたそれは、肌に張り付くようになっている。
良く見れば、髪にも血がこびり付き、水と共に、白い頬に、細い首に、幾筋もの朱が流れていた。
土方は、袴の紐を解き始めた。
自分の手指が、それとわかる程に震えている。
濡れた袴の紐は、苛立つ程、緩まない。
細すぎる躰に文句を言いながら、これを締め直したのは、ほんの三日前ではないか。
あの時の笑顔が、心に痛い。
「・・畜生っ」
搾り出した声も、滑稽な程に震えている。