『密か』―ひそか―・弐



近藤は、部屋の光景に息を呑んだ。

土方が、苦労して脱がせている着物は、ほの暗い灯りの下でもわかる程、朱に染まっていた。

朱に染まっているのは、着物ばかりでは無かった。

強かに濡れた宗次郎の身は、その白い肌さえもが朱の色に染められていた。

宗次郎はされるがまま、人形のように虚ろな表情を浮かべている。

近藤は、黙って部屋に入り、土方に手を貸した。


「・・・斬られた、のか?」

近藤の声が、震えている。

「・・わからん。斬り合いになったのは、間違いねぇようだが」

土方は、低く応えた。

二人は、無言のまま、強かに濡れている全てを脱がせた。

それから、後から部屋に入った永倉も含め、三人は、食い入るように華奢な躰を検分した。

しかし、朱に染まった躰の何処にも、引っ掻き傷程の刀傷も見つからなかった。

三人は肺腑から、安堵の息を吐き出した。

しかし――。


「誰かを・・斬ったってのか・・?」

永倉が、低く呻いた。

「返り血だけで、この量じゃ・・相手は、もう生きてはいまい」

「何故、こんな事に・・・」

近藤の声が、詰まった。

土方は、無言のまま濡れた躰を拭き始めた。

少し遅れて駈け付けた井上と山南は、廊下に立ち尽くしている。

暫し呆然と、土方の手の動きを見つめていた永倉が、慌てて夜着を取り出し、夜具を延べ始めた。

近藤も、震えながらも、華奢な身を拭い始めた。

拭っても拭っても、流れ落ちる朱の色に、二人共が、歯を食い縛る。

細く白い手指、その爪の間にまで、血がこびり付いていた。

「・・風呂に入れちまった方が早いな」

貌を上げた土方に、廊下に立ち尽くしたままの井上が応えを返した。

「火は落としたが・・」

「水よりは、マシだろう」

宗次郎は、粟立つように震えている。


夜着を着せ掛け、土方が抱き上げた時、華奢な躰が、ビクリと反応した。

「宗次郎?」

「あっ・・」

見開かれた瞳が、恐慌を来たしている。

声にならずに震えもがく躰を、土方が強く抱き締めた。

「宗次郎っ」

薄闇色の瞳を見開いたまま、幾度か荒い呼吸を繰返し、華奢な躰は、ガクリと土方の腕に沈み込んだ。

「歳っ」

「・・大丈夫だ。気を、失っただけだ」

「一体、何があった?」

震える近藤の声に、応えられる者は居なかった。


小野路村、橋本家の出稽古から戻るのは明日、夕刻の筈だった。

試衛館(こちら)には、急ぎの用などは何も無かった。

何故、こんな夜中に、それも血まみれで戻ったのか。

氷のように冷えきった躰は、それきり何の反応も示さなかった。

夜明けが、近かった。




「あの学者先生は、此処に居ついちまったのかい?」

障子を開けると共に、耳に飛び込んできた重低音に、土方が、目だけを動かした。

つるりと剃った坊主頭に、屈強な体躯、医者とも思えぬ大男は、廊下の向こうを見つめていた。

「・・山南さんなら、何日か逗留しているだけだ」

「玄関からこっち、丁寧に案内してくれたよ」

土方は、視線を戻し、応えを返す。

「この部屋迄は、目ぇ瞑っても歩けると、言やぁいいだろうが」

「お前程、無礼な真似は出来ねぇよ」

道庵は、笑った。


「他の兄貴達は、どうした?」

「近藤さんは、朝稽古の最中だ。源さんは、出掛けている」

どっかりと座した道庵は、面白げに土方を見つめた。

「随分と、穏やかそうな人だな」

視線を向けたのはその一度だけで、すぐに宗次郎の診察を始める。

宗次郎は、血の気の無い貌で、急いた呼吸を繰り返している。

「・・合うとも、思えねぇがな」

脈を取り、細い首筋に手を当てながら、低く笑う。

その意味がわかるだけに、土方は貌を顰めた。

「おめえとは、性分が違い過ぎるだろ?」

「・・近藤さんと合えば、それでいいさ」

道庵は、夜着の襟元を寛げる。

「ふん、随分と聞き分けの良い事を言いやがる」

「煩え」

低まった土方の声に、小さく笑い、道庵は薄い胸に耳を当てた。

暫し動かぬ道庵を、土方は息を詰めて見つめた。

「・・どうだ?」

「良い訳なかろう?」

道庵の渋い声に、土方は口を噤んだ。

「熱が高すぎるな」


山南が知らせたのか、稽古着の近藤が、部屋に飛び込んできた。

近藤が腰を下ろしてから、道庵は口を開いた。

「肺腑が炎症を起こしちまっている。熱の元はそれだ。・・それだけなら、いつもの事だが・・・」

「道庵先生?」

近藤は、黙り込む道庵を促した。

「・・何だって、夜中に水浴びなんぞ、酔狂をしやがった」

道庵を呼びに走った井上は、詳細は語らなかったようだ。

「・・人を、斬ったようなのです」

道庵は、貌を顰めた。

「斬ったようだ?はっきりしねぇな」

近藤が、簡単に昨夜の経緯を話した。


「・・・それで、こんな無茶をしやがったか」

道庵は、溜息を吐いた。

「自身番にでも行きゃぁ、何か判るんじゃねぇか?」

近藤は、頷いた。

「源さんが向かっています」

「しかし・・、そうなると、熱は炎症だけとも限らねぇな」

近藤、土方が、弾かれたように貌を上げた。

「熊、どう言う意味だ」

道庵は、ゆっくりと二人に向き直った。

「心の問題もあるって事だよ」

「・・心?」

硬質な近藤の声に、道庵は、ゆっくりと顎を引いた。

「人を斬って、心を病む者は、存外多い」

土方が、気色ばむ。

「馬鹿言うなっ。こいつは、そんなに弱くはねぇ」

「そんな事は、誰にもわからんっ」

道庵は、土方の強い視線を、跳ね返した。


「いいか?どれ程に鍛錬を積もうが、気丈な振舞いを見せようが、心の中身は、誰にも知る事は出来ねぇんだよ」

重い言葉だった。

「こいつの性分は、俺だって良く知っている。だがな、心の裡までは、誰にも覗けねぇ。俺達には、こいつの心を知る術はねぇんだよ」

二人は、押し黙った。

「頭では納得出来ても、心ってのは頭の考えには追いつけねぇ。・・これは、理屈じゃねぇんだ」

「では・・どうすれば」

「暫くは、放っとく事だ」

「放っておく・・」

泣き出しそうな近藤に、道庵は笑顔を見せた。

「そうさ。放って置いて、しかし、必ず傍についていろ」

「・・それだけですか?」

道庵は、頷いた。

「今は、正気を保つ為に、心も熱を出しているのさ」

「心も?」

三人が、意識の戻らぬ宗次郎を見つめた。


「躰の熱と心の熱、今のこいつは、その二つと闘っているんだよ」

道庵は、薬箱から薬袋を取り出した。

「土方、煎じて飲ませろ。午(ひる)過ぎに、又来る」

「わかった」

「ともかく安静だ。・・暫くは魘される事もあるぞ」

腰を上げた二人を、道庵は目顔で制する。

「見送りなんぞいらねぇよ。いいか?誰か一人、必ず付いていてやんな」

障子に映った大柄な影が消えるまで、二人、言葉は無かった。

「心が、病む・・」

近藤の震える声に、土方は拳を握り締めた。

「絶対、治る」



(ひる)近く、漸く戻った井上によって、昨晩の事情が判明した。

井上は、役人と商家の主人を伴っていた。

「辻斬り・・・?」

客間で迎えた、近藤、土方は色を失った。

「こちらの店の番頭さんが襲われている処を、通り掛りにお助け下さったのです」

「その・・辻斬りは?」

「死にました」

土方の視線の端に、近藤の拳が震えるのが見えた。

宗次郎が浴びていた返り血からも、察しはついていたが、聞かずには居れぬ近藤の気持ちは、痛いほどに伝わった。

「浪人者で、身元を明かす一切を身に付けて居りませんでした」

役人の言に、近藤は深く息を吐いた。

「身元は未だ知れませぬが、恐らくは、試し斬りをしていたのでは、と」

「試し斬り?」

役人は、憂鬱そうに頷いた。

「黒船以来、そう言う輩が増えましてな」

土方は、血の引く音を、耳奥に聞いた。

あの宗次郎が、生まれて初めて人を斬ったのだ。


「初めて斬った?」

役人は、驚いた。

「番頭の手当てまでを、落ち着いてこなしたそうですよ」

「宗次郎が?」

今度は、近藤、土方が驚いた。

「お陰様で、何とか命を取り留めまして・・」

商家の主人は、涙ぐんだまま、深々と頭を下げた。

「ただ、下手人はかなりの大男で・・・お弟子さんは、頭から返り血を浴びてしまい、難儀しておられたそうで・・」

「そうでしたか・・・」

近藤の声が、僅かに震えている。


少年の勇気を、その腕と共に褒め称える役人と、畳に額を擦り付け、謝意を述べる商家の主人を近藤に任せ、土方は、静かに中座した。

宗次郎の部屋近く、廊下で待ち構えていた井上に耳打され、俄かには信じがたい表情(かお)で、兄弟子を見つめた。

「・・何だって?」

「六尺を越す、大男だった」

「それを・・袈裟懸け・・、上から斬ったってのか?」

頷く井上を、信じられない思いで見つめる。

「身元が知れないので、遺体は、まだ番所にあったんだよ」

「・・源さん、見たのか?」

井上は、顎を引いた。


「鮮やかなものだった。・・鎖骨は、完全に骨が割られていた」

それに、と、益々声を潜めた。

「あったのは、その一刀のみだ」

土方は、仰天した。

「一刀で、倒しやがったってのか?」

土方は、低い唸り声を上げた。

「歳さん。宗次郎の奴には、とんでもないものを感じるよ」

感嘆の言葉とは裏腹に、困惑を隠せぬ井上に、土方は、掛ける言葉が見つからなかった。

土方は、僅かに開いた口を固く引き結ぶと、宗次郎の部屋へ向かった。


枕辺には、永倉が座していた。

のそりと入った土方に、ゆっくりと首を横に振った。

「まだ気が付かないよ・・・。熱も高い」

陽気なこの男には珍しく、ひどく難しい貌をしている。

「この寒さで、あれ程に水を被ったからな・・・」

応えを返しながら、土方は反対側へ座った。

座を立った時と変わらぬ、血の気の無い貌が、荒い呼吸を繰り返している。

頬に触れれば、手を引きたくなる程の灼熱。

「熱が、上がっているな」

初めて人を斬った衝撃と、強かに浴びた返り血の熱に耐え切れず、あれ程の無謀をしたのだろう。

土方は、深々と息を吐いた。


「・・辻斬りに、出くわしたそうだ」

永倉が、弾けるように貌を上げた。

「辻斬り?宗次郎が襲われたのかっ?」

土方は、首を振った。

「襲われている奴を助けて、斬ったそうだ」

「相手は?」

「死んだ」

「そうか」

「・・頭から、返り血を浴びたらしい」

「頭から?」

土方は、視線を落としたまま頷いた。

「六尺を越す大男だったそうだ。・・避けられなかったんだろうな」

永倉が、貌を顰めた。

「まだ、十六だぞ。・・早過ぎる」

永倉の声が、土方の胸にズシリと落ち込んだ。

その声の調子で、宗次郎が、永倉よりも早い歳で人を斬ったのが知れた。

十六のそれは、土方よりもずっと早かった。


土方の目に、不自然に強張る、宗次郎の右の掌が見えた。

そっと触れると、強張った指は、躰の熱に反し、氷のように冷たかった。

「・・斬った感覚が、抜けねえのか?」

永倉は、憂鬱そうに頷いた。

「多分な。俺もそうだった。・・幾日も、肉や、骨を断った感触が抜けやしねぇ。土方さん、あんたもだろう?」

土方は、応えを返さなかった。記憶の底から、ゆっくりと嫌な感触が蘇る。

その時、自分はどんな気晴らしをしたのだったろうか・・・?


土方は、強張る手を、自分の掌に包み込み、ゆっくりと擦り始めた。

冷たく強張った手指は、何の反応も返さない。

ほんの数日前の、宗次郎の笑顔が胸に迫る。

土方は、唇を噛み締めた。

想うあまり、触れる事を避けていた細い手は、触れていた頃のまま、何一つ変わってはいなかった。

「畜生っ・・・」

土方は、吐き捨てた。



「・・・下がらねぇな」

再び訪れた道庵は、厳しい貌をした。

意識が戻る事も無く、熱は、どんどん高くなってゆく。

「薬は?」

「全部、飲ませた」

道庵は、感心した。

「こればっかりは、おめぇには負けるな」

土方は、道庵を手伝いながら仏頂面になる。

「他に、勝った事があったか?」

「相変わらず、無礼な奴」

「煩え、熊」


道庵は、強い匂いの塗り薬を、油紙に引いている。

「・・ひでぇ匂いだ。いつになったら、まともな薬を処方出来るんだ?」

「馬鹿野郎、いい薬ってのは、見てくれは悪いものさ」

「また嫌われるぞ、熊」

道庵は、笑った。

「嫌う位、元気になってくれりゃ良い」

「・・懲りない奴」

悪態を吐きつ、吐かれつ、二人は寛げた薄い胸に、油紙を当ててゆく。

それから、最小限の晒しを巻いた。

「これで、少しは炎症も治まるだろう」

たっぷりと作った塗り薬を、土方の鼻先に近づけた。

「薬が乾いたら、すぐ替えろよ」

「わかったから、近づけるなっ」


道庵は、薬箱からいくつかの薬袋を取り出した。

「まとめて煎じて構わねぇ。朝までに、全部飲ませろ」

「わかった」

「土方」

道庵は、真顔になった。

「此処に、泊まってもいいんだぜ?」

土方は、貌を顰めた。

「また、無精頭をこいつに見せるつもりか?宗次郎が、余計気を遣うだろうが。明日の朝、姿形(なり)を整えてから来やがれ」

「細かい奴」

道庵は、笑った。

「何かあったら、すぐ呼べよ?」

「ああ」


道庵と入れ替わりに、近藤が貌を出した。

容態を確認し、俯きがちに枕辺へ座す。

「・・稽古は、いいのか?」

土方の問いに、頷いた。

「山南さんと、永倉さんが見てくれている」

「そうか・・」

「歳・・・。何故、夜中に戻ったのだろうな」

ポツリと呟く近藤に、土方は面を上げた。

「・・本人に、聞けばわかるさ」

「・・聞けるだろうか?」

気弱な近藤に、土方は貌を顰めた。

「宗次郎は、正気でいられるだろうか?」

「近藤さんっ」

土方の諌め声に、漸(ようよ)う貌を上げる。

「初めての佩刀で、こんな事になるなんて・・」

「起こった事は、仕方ねぇだろう?」

「もし、宗次郎の心が負けてしまったら・・」

土方は、近藤の両腕を掴んだ。

「あんたが弱気でどうするっ。その時は、俺達がこいつの心を引き上げればいい」

近藤は、泣き笑いのような貌をした。


「歳・・。お前は、強いな」

「当たり前だ。こいつの前で弱音を吐けるか」

「そうだな」

「それに・・」

土方は、額の手拭を取り上げた。

「考え様によっては、いい傾向だろう」

「歳?」

土方は、手拭を濯ぎ、再び額に乗せながら、苦々しく言葉を繋げた。

「こいつは、いつも笑っているじゃねぇか。・・・痛いのか痛くねぇのか、辛いのか辛くねぇのか、いつもさっぱりわからねぇ。・・こうして寝込んでくれた方が、余程俺達も対処できるだろ?」

「・・・そうだな」


二人、宗次郎の貌を覗き込んだ。

熱で赤くなった頬に、幼い面影が見える。

「人を斬った後まで、何ともないなんて言われた日には、何も出来ねぇからな」

「しかし、なあ」

近藤が、溜息をついた。

「あまり急いで、大人にならなくてもいいんだ」

「・・こんな事に、先駆けなくても、か?」

「ああ」


佩刀が、早過ぎた訳では決してない。それ処か、武家の子としては遅すぎた。

今回の仕儀の、あまりの運の無さに、二人は鬱々となる。

宗次郎の将来(さき)に、ケチが付いたとは思いたくはない、しかし、これを経験と呼ぶにはあまりに過酷な試練となった。


「宗次郎・・早く、元気になれ」

近藤の無骨な手が、熱い頬を撫でるのを、土方はぼんやりと視界に捉えた。



つづく

 

 

密か・1密か・3 

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2004.10.23