『密か』―ひそか―・四



四日目の朝を迎えた。

井戸端で貌を洗った土方は、そのまま、宗次郎の部屋前の縁に腰を下ろした。

冬は近い。縁の冷たさが、ジワリと躰に染みてゆく。

高い空を睨みながら、土方は、すっかり癖になった溜息を吐いた。

それは、白く棚引き、大気に消えた。

部屋では、井上が宗次郎の躰を拭っている。


「宗次郎・・?」

井上の上擦った声に、土方は、肩越しに振り向いた。

井上が、夜具に覆い被さるように腰を浮かせている。

「歳さんっ」

土方は、足早に枕元へ寄った。

薄闇色の瞳が、ゆっくりと視線をめぐらせ、井上を見つめている。


(心を病む者も居る)

ふいに浮かんだ道庵の言葉が、土方の胸を締め付けた。

「・・源さ・・ん・・・」

井上は、布団の上に出ていた白い手を固く握り締めた。

「宗次郎っ」

土方の目に、細い手が弱々しく握り返すのが映った。

ずっと、握り締めていた愛しい手。


「・・・お腹・・すいた」

「えっ?」

見上げる薄闇色の瞳が、切ない色を浮かべている。

井上は、腰が抜けたように座り込み、笑い出した。

「そりゃあそうだよ。お前、丸三日、何も喰っていないんだ」

「三日・・・?」

薄闇色の瞳は、思案の色を浮かべた。それから、思い出したように小さく頷く。

「今、粥を炊いてあげよう」

井上は、潤んだ目を瞬かせた。


井上が慌しく部屋を出た後、宗次郎は、ゆっくりと土方を見上げた。

「土方・・さん・・・」

まろやかな声が、土方を包む。

薄闇色の瞳に視線を止めたまま、土方は枕辺へ座した。

無言のまま、額の手拭を跳ね除け、掌を当てた。

それから、返す手の甲で、そっと頬に触れる。熱が、引き始めている。

そこで、土方は漸く安堵の息を吐いた。


「・・俺が、わかるか?」

宗次郎は、不思議そうな貌をして、ゆっくり頷いた。

「何があったか、覚えているか?」

その問いにも、ぎこちなく頷く。

「・・人を、斬りました」

僅かに震えた唇は、後の言葉を紡げなかった。

土方は、ゆっくり頷くと、次の言葉を引き取った。

「その後の事は、覚えているか?」

宗次郎は瞳を伏せ、小さく首を振った。

「あまり・・よく覚えていません」

「そうか・・」

土方は、白い頬に掛かった髪をそっと掻き上げた。

心に受けた衝撃と、幾日も続いた高熱を思えば、仕方の無い事だった。

昨夜、土方の見せた狂気のような恋情も、同じく覚えてはいないのだろう。

少しの安堵と、大きな落胆と――。

その矛盾に、土方は、小さく笑った。


細い面輪をそっと撫で、問う。

「・・・恐かったか?」

宗次郎の貌が強張ったが、土方は、視線を逸らす事を許さなかった。

その身に起こった事は棚上げにせず、すぐに思い出させた方が良い。

塞ぎかけた傷は、丁寧に治療を施さねば、裡からどんどん膿んでゆく。

つまらぬ心の傷を残さぬ為にも、無かった事にすべきではないのだ。

薄闇色の瞳は少し翳りを帯び、それからゆっくりと頷いた。

「はい」

「そうか・・」

宗次郎は、土方を見上げた。思いがけず、真摯な眼差しだった。

「とても・・恐かった」

「お前の「大丈夫」を聞かないのは、初めてだな」

揶揄するように笑う土方に、宗次郎も少し笑んだ。


土方は、宗次郎の背に手を差し込み、そっと抱き起こした。

枕盆の薬湯を取り、ゆっくりと飲ませてから、華奢な躰を横たえる。

「・・お前が、頭から血を被る羽目になるとは思わなかったな」

土方の、常よりも低い声音に、宗次郎はぎこちなく視線を上げた。

「大きな人だったので・・」

「ああ」

「足元の守りは・・とても堅かったのです」

宗次郎は、思い出すようにゆっくりと言葉を継いだ。

「でも・・、上は隙ばかりでした」

細い手が、僅かに震えたのを認め、土方は、その手を握り締めた。

その手の大きさ、暖かさに安堵したように、宗次郎は言葉を続ける。

「私に向かって来た時は、一人斬った後でした。・・大きく横に払って来たので・・」

細い手が、土方の手をぎゅっと握り返した。

「それを避けて、飛び上がって打ち下ろしました」

「そうだったか」

宗次郎は、頷いた。


「・・勝てると踏んだ相手だったのか?」

小さく首を振った。

「わかりませんでした。・・でも、倒れていた人は助かるかも知れない。そう思ったら」

宗次郎は、土方を見上げた。

「逃げる事は、出来ませんでした」

「・・相手の技量を見定められねぇのは、危ない行為だ」

宗次郎は、恥じ入るように瞳を伏せた。

その様子に、土方は、小さく笑んだ。

「倒れていた男、助かったそうだ」

宗次郎は、弾かれたように土方を見つめた。

「助かった・・?」

土方は、しっかりと頷いてみせた。

「店の番頭だったそうだ。主人が、泣いて喜んでいた」

「・・良かった・・」

握り締めていた手から、ふっと力が抜けた。


「宗次郎」

「・・はい」

「お前は、命の遣り取りに勝った。刀を前に、最後に勝つのは思いの強さだ」

「土方さん・・」

宗次郎は、土方を見上げた。

「竹刀や木刀とは、まるで違うのですね」

「そうだな」

「土方さんが、強い訳がわかりました」

土方は、大仰に貌を顰めた。

「俺は、そんなに斬っちゃいねぇよ」

宗次郎は、慌てて首を振った。

「道場で、土方さんには、いつも敵わなかった・・。それは、思いの強さなのですね?」

土方は、苦笑した。

「俺のは、喧嘩剣法だ。褒められたものじゃねぇ」


「血は・・・暖かいものなのですね」

宗次郎は、ポツリと呟いた。握り締めた手から、互いの脈動が伝わる。

「斬って・・・そこから流れた血が・・・熱いものだと・・知りました」

「・・・そうか」

宗次郎は、土方を見上げた。

「当たり前の事なのに・・・わかっていなかったのですね・・・」

薄闇色の瞳に、土方の貌が映っている。

その綺麗な瞳にも、映し出された己の貌にも、狂気の色は見えなかった。

「あの熱が、私に降り掛かって、それが・・冷たくなるのが恐かった・・・」

宗次郎は、深く息を吐いた。

「私の斬った命が、消えてゆくのがわかって・・それを、どうしようも出来なくて・・」

「宗次郎・・・」

「とても・・恐かった」

土方は、細い面輪を両手で包んだ。

「剣の道に、痛まぬ道も、楽な道も無い」

「はい」

「それを忘れるな。忘れなければ、お前は負けやしない」

「はい」

宗次郎が、はにかむような笑顔を見せた。


「でも・・」

「でも、何だ?」

「もう、二度と御免です」

土方は、眉根を寄せた。

武士の子として生まれ、あまつさえ剣の天稟を持つ宗次郎に、避けて通れるような道では無い。

「剣の道をゆくなら、そんな事は――」

宗次郎は、笑って頭(かぶり)を振った。

「返り血を浴びるのは、ですよ」

「お前・・・」

端正な貌が、呆気にとられた。

薄闇色の瞳は、常と変わらぬ柔らかな色を浮かべている。

行って参りますと、屈託無い笑顔を見せた、あの朝と同じく――。


「・・・剣の道をゆくなら、無理なこった」

土方の渋い声音に、宗次郎は、笑い出した。

「精進します」

「馬鹿野郎。精進して、如何にかなるもんじゃねぇ」

宗次郎は、首を傾げた。

「如何にか、ならないのでしょうか?」

「ならん」

憮然とした貌の土方を、宗次郎は面白そうに見上げた。

「土方さん?」

「・・馬鹿。剣術は芸当じゃねぇんだぞ?」

自分の不機嫌を、じっと見つめる宗次郎に、土方は諦めの溜息を吐いた。

慈しむように頬を撫でれば、宗次郎は、花のように笑う。

この少年なら――。

そんな思いが、土方の心を弾ませた。

宗次郎なら、そんな事も出来るのやも知れぬ。


「それにしても、もう少し躰をしっかりさせろ」

「・・しっかり?」

宗次郎は、首を傾げた。

「熱を出す度、細まってどうする?」

宗次郎は、両の掌をかざした。

二の腕まで滑り落ちた夜着が、細まった腕を際立たせる。

その様子に、土方は切れ長の目を細めた。

昨夜、優しく抱き締めてくれた愛しい腕。背に縋りついた細い指。

その一つ一つにくちづけて、泣き出しそうな恋情に苦悶したのは、ほんの数刻前の事だった。

宗次郎は、土方を見つめた。

「・・・細くなりましたか?」

「なった」

苦々しく言い切る土方に、薄闇色の瞳が笑った。


「熊の説教も、覚悟しておけよ?」

「・・道庵先生?」

「今度こそ、お前の嫌いを直すと張り切っていたぞ」

宗次郎は、愁眉を寄せた。

「嫌いとは、関係ないのに・・」

「関係がない筈ねぇだろうが。躰がしっかりしていれば、熱も長引きゃしねぇ」

「そうなのかな?」

首を傾げた宗次郎に、土方は嘆息した。

「・・もう、下げ緒を工夫しても駄目だろうな」

「次の出稽古までには、元に戻りますよ」

「暫くは、此処に禁足だ」

「すぐ、戻ります」

「あの嫌いの多さで、戻るものか」

苦笑いを浮かべた土方に、宗次郎は、屈託無い笑顔を返した。


その笑顔を見つめながら、土方は、ここ数日の疑問を思い出した。

「そう言えば、何故、夜に戻った?」

それが、全ての元凶である。

予定通りに戻れば、このような災難に遭う事は無かった。

商家の番頭にとっては、これ以上の僥倖は無かろう。

しかし、宗次郎は元より、試衛館の住人にとっては、辛いばかりの時だった。


宗次郎は、みるみる硬い表情を浮かべた。

見たことの無いような表情に、土方の方が驚いた。

「どうした?」

「荒すぎる、と」

「・・は?」

宗次郎は、土方の腕に縋るようにして身を起こした。

「橋本様の処で、お弟子さんにそう言われました」

「何?」

宗次郎は、言葉を端折る癖がある。


「お前は・・、いつになったら筋道を立てて話せるようになる?」

腕の宗次郎は、肩で息をしている。

「・・稽古が荒すぎる、と言われたのです」

薄闇色の瞳は、勝気な色を浮かべたが、躰はそれを裏切るように、土方の胸に沈み込む。

土方は、腕の宗次郎を暫し見つめた。

「お前・・・それで、夜中に戻ったのか?」

宗次郎は、硬い表情のまま頷いた。

「一体何処が荒いのか、若先生に教えて頂きたかったのです」

「・・・」

途切れがちな柔らかな声には、怒気が混ざっている。

「若先生や、土方さんと同じようにした筈なのに、荒いだなんて・・・」

同じではないだろう。

この少年は、誰よりも真摯に剣に向かう。

恐らくは、想いそのままにぶつかったのであろう。

最近は、近藤、土方ですら持て余す宗次郎の剣に、日頃、鍬を握り、土を相手にする者達が、太刀打ち出来る筈も無い。

褒めて育てる、そのような芸当は、宗次郎には出来ない相談だろう。


「真っ直ぐすぎるのも、考えものだぜ?」

「何がいけないのですか?」

宗次郎は、勝気な色で土方を見上げた。

頑是無い幼子(おさなご)のような様子に、土方は口元を引いた。

「いいか?護身で習う者達に、真剣の技は要らねぇ。・・わかるな?」

はっとしたように土方を見上げ、宗次郎は項垂れた。

大きな手が、宗次郎の頭を優しく抱いた。

「曲がる必要は無い。撓(しな)ればいい」

「撓れ・・?」

「そうだ」

土方は、笑った。

「お前は、真っ直ぐでいい」

端正な貌を見上げ、宗次郎が微笑んだ。


華奢な身を横たえた時、障子の向こうから、静かな声が掛かった。

「入ってもいいかい?」

障子が開くと、零れるような陽射しが、部屋に流れ込む。

光を背に立つ二人に、宗次郎は笑顔を見せた。

「山南さん、お久しぶりです。永倉さん、待っていてくれたのですね?」

永倉は、人懐こく微笑んだ。

「おう、お帰り。宗次郎」

「やあ、やっと気が付いたね」

山南は、柔らかな笑顔で、宗次郎を覗き込んだ。

「心配をお掛けしました」

「私は、何もしていないよ」

手に、何冊かの書を持っている。

「宗次郎に、丁度良い本を見つけたので、持って来ただけだ」

土方と永倉は、呆れた様に山南を見つめた。

「山南さん・・、それだけの為に、逗留していたのか?」

山南は、二人を見比べ頷いた。

「そうだが?」

土方は黙り、永倉は、声を立てて笑い出した。

柔和な貌の仙台武士は、首を傾げながら永倉を見つめた。


廊下を駈ける音が、大きく響く。

「踏み抜きそうだな」

土方が、笑った。

「近藤さんにも礼を言えよ?お前が倒れてから、殆んど眠っていない」

宗次郎は、驚いたように土方を見上げた。

「宗次郎っ」

部屋の入口に立った近藤の貌は、涙でぐしゃぐしゃだった。

「若先生・・」

近付く筈の師の貌が、何故か、遠く揺らいで見えた――。





翌晩、試衛館に好事が訪れた。

今回の礼にと、灘の下り酒が、樽で三つも届けられたのだ。

更に面々を喜ばせたのは、一緒に届けられた様々な酒肴。

漸く床払いした宗次郎は、露骨に嫌な貌をした。

「お酒と・・お鮨・・・?」

「それも、灘の下り物だ」

永倉はご機嫌だ。茶碗に、なみなみと酒を注いでいる。

「酒問屋を助けるとは、でかしたぞ、宗次郎」

選んで助けた訳ではない。


道庵と徳治も、貌を出した。

道庵は先ず、自分の患者の様子を見る。

「嫌いが幸いしたな。生魚とは言えんが、急にこんな物を喰っては駄目だ。酒など論外だぞ?」

宗次郎は、むくれている。

「・・お酒は、まだ飲んだ事がありません」

「そいつは幸いだな」

豪快に笑う道庵の横から、徳治が、にこやかに風呂敷包みを差し出した。

「宗次郎さんの好きな物を拵えてみましたよ。夕餉は、これで我慢して下さい」

「徳治さん、ありがとうございます」

笑顔の宗次郎に、すかさず、道庵が声を掛ける。

「包みの半分は、俺からの見舞いだ。煎じて飲め。・・捨てるなよ?」

宗次郎は、ガックリと項垂れた。


「喜べ、宗次郎。卵焼きは全部やる」

背中の騒ぎに、宗次郎は、頬を膨らませた。

「そんなに、入りません」

「お前、好き嫌い直せよ。酒は試しに飲んでみろ」

永倉の言に、井上が反対した。

「駄目だ駄目だ。最初に下り酒なんて飲んじまったら、安酒など口に出来なくなる」

二人共、既に貌が赤い。


「初めに良い酒を飲むのも、大事だよ?」

「この坊やに、酒の味などわからねぇさ」

山南の言葉には、土方が茶々を入れる。

「病み上がりだ。駄目だぞ」

最後に飛んだ近藤の声だけが、真っ直ぐに宗次郎に向かっていた。

宗次郎は、若い師を見つめ、素直に頷いた。

そのまま、近藤の隣にちょこんと座る。

既に出来上がり始め、好き勝手言う酔漢どもなど相手に出来ぬ。


近藤の横に行儀良く座る宗次郎を、土方は、少し離れた場所から見つめていた。

視線の先の想い人は、薄闇色の瞳を輝かせている。

その姿に、土方は、ここ数日の不安をやっと取り除く事ができた。

人を斬った事で、あの無垢な魂がどれ程傷付くか――。

その事を、土方のみならず、試衛館に居る誰もが案じた。

しかし、あの優しげな姿の少年の裡が、思うよりもずっと強靭な事がわかった。


そして、もう一つわかった事。

想いは、断てぬ。

捨てた筈の恋情は、埋み火となり、息を潜めていただけだった。

許される筈が無い、受け入れられる筈など決して無いと、自分の弱気を、ずっと誤魔化し続けてきた。

しかし、吹き込まれてしまった風に、もう、その火を消す事など出来ないだろう。

想いの丈は、必ず告げる。

仮令(たとえ)それが、宗次郎に、拒まれるものだとしても。

初めての佩刀で、怯む事無く敵と対峙した宗次郎への、自分の見せられる唯一のもの。

それは、己の本心(じつ)のみだ。

愛しいと――。

偽り無き想いを、必ず告げる。


土方は、静かに盃を干した。

「歳、こっちに来い」

近藤の、張りのある声が響いた。

土方を振り向き、宗次郎が綺麗に笑う。

「今、行く」

土方も、笑顔を返した。


先に待つのが何であっても、もう二度と諦めはしない。

惚れたが負けと言うのなら、疾うに勝負はついている。

しかし――。

土方は、腰を上げながら小さく笑んだ。

宗次郎が、自分から離れる事などある筈も無い。


「負ける喧嘩を、した事はねぇ」






密か・3

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