『密か』―ひそか―・参
「煩いにも、程があるぞっ」土方は、舌打ちした。
道場から聞こえる、尋常ならざる喧噪に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
あれから、三日。宗次郎は、未だ高い熱に苛まれていた。
恐れていた狂気の影は見えなかったが、それ以前に、意識すらも戻らない。
往診の度、細やかに処方を変える道庵にも、焦りの色が見えていた。
土方は、不機嫌な貌のまま、ゆっくりと華奢な躰を抱き起こす。「宗次郎・・、薬湯だ」
抱き起こされた宗次郎は、薄っすらと目を開ける。
唇に触れる、湯飲みの固く冷たい感触に、弱々しく口を開く。
しかし、その瞳にも、小さく開かれた口にも、宗次郎の「意思」は見られなかった。
見慣れてしまったその姿に、土方は淡々と、薬湯を飲ませた。
慎重に夜具へ横たえれば、薄闇色の瞳もゆるゆると閉じられる。
その様子に、土方は小さく嘆息した。
寝ずの番を二夜(ふたよ)続け、三日目の朝を迎えても、一筋の光明も見えぬ状況に、土方の焦燥も頂点にあった。その苛立ちを煽るかのように、道場から、ともすれば宗次郎の急いた呼吸すら聞こえぬ程の気合が響く。
苛々と障子を開ければ、廊下の向こうから永倉が近付いてくる。「永倉っ、何だあの騒ぎはっ」
八つ当たる土方に、懐手の永倉は苦笑した。
「すまねぇな、それを謝りに来た」
「何?」
眉根を寄せた土方は、廊下へ出ると、後手に障子を閉めた。
「試合(しあ)っているんだ、少し我慢してくれ」端整な貌が、怒りのあまり青くなる。
「試合だと?何ふざけた事してやがるっ」
永倉は、吹き出した。
「宗次郎の事となると、どうしてそう短気かねぇ」
「五月蝿えっ」
「試合はすぐ終わるさ。山南さんも、ご立腹だしな」
「・・山南さん?あいつが、試合っているのか?」
話の筋が見えず、土方は眉根を寄せた。
「ここから先は、怒らずに聞いてくれよ?俺も、辛抱しているんだからな」
揶揄(からか)い口調ながら、永倉の目は笑ってはいない。
「何だ?」
土方は、何とか怒りを押さえ込む。
「評判が、立っちまったんだよ」「・・評判?」
永倉は、ゆっくりと頷いた。
「田舎道場の牛若が、弁慶を倒したってな」
土方は、呆気に取られた。
「何だそりゃ」
「あの下手人、とうとう身元が割れなかった。で、余計に噂に尾鰭(おひれ)が付いたのさ」
「・・それが、何故、弁慶牛若になる?」
永倉は、ゆっくりと両袖に腕を通す。
「下手人は、町人を試し斬りにするような無頼の輩、それも六尺を越す大男だ。で、討ち取ったのは、剣の修行中の、たった十六の少年。良くやったと言う訳だ」「・・噂は、それだけか?」
土方の険しい貌に、永倉は頷いた。
「噂の元は、例の商人の店だ。感謝の余り、声も大きくなったんだろう、が、初めて人を斬ったとか、寝込んじまっているとかの、余計な話は一切出てない」
出ていたら、只ではおかぬと永倉は笑った。
「それで、試合の申し込みか?」土方の渋い声に、永倉は頷いた。
「武士から武芸者崩れ迄、来るわ、来るわ、キリがねぇ。まさか、近藤先生が相手になる訳にもいかないだろう?で、俺と井上さんが、相手をしていたんだが・・」
「だが?」
「山南さんが切れた」
永倉は、笑った。
「あの人、今回の件に一度も口を挟まなかったが、腸は煮え繰り返っていたんだな」
「・・・質が悪いな」
土方は、貌を顰めた。
「あの分じゃ、皆、足腰立たんだろうさ。浮ついた奴等にはいい薬だ」「早く済ませろ」
「もう、済むだろう。それより少し代わるよ、土方さんまで倒れちまう。夕刻迄は、俺が見ているよ」
「それ程、柔じゃねぇよ」
永倉は、悪戯げに土方の貌を覗き込む。
「折角の綺麗な貌がやつれていたら、宗次郎が気に病むぜ?道場が煩くても、あんたなら平気で眠れるだろう?」
「随分な言い様だな」
土方は、眉根を寄せた。
永倉の言葉に甘え、自分の部屋へ戻ったが、夜具を延べる気にもなれず、そのまま畳に転がった。背に、染み込むような冷気を感じ、嫌でも井戸端の光景を思い出す。
天井を睨みながら、土方は重い溜息を吐いた。
あの晩、井戸端で、幽鬼のような宗次郎を目の当たりにした時、土方の感じた恐怖は、類の無いものだった。しかし、心裡に、恐怖とは全く別の感情も湧き上がっていた。
それは、今も胸の裡に、静かな焔となって燃え盛っている。
こうして気を緩めれば、胸の奥深くから、昏い囁きが聞こえてくる。――未だ開きもせぬ花を、こんな事で散らしてどうする?
土方は、固く目を閉じた。
朱に染まった宗次郎を見た時、大切に守りたいとの、強い想いとは裏腹に、全てを奪い、思う様蹂躙したいと、求める気持ちが確かに在った。
「・・それこそ、狂気だぜ」
苦々しく呟くと、腕を枕に横を向いた。
――どうせ散らす花ならば、その手に掛ければ良かろう?
密かな声が、欲望を誘う。
「馬鹿野郎・・」
土方は、己が心に毒づいた。
結局、一睡も出来ぬままに、宗次郎の張り番に戻った。夕餉の間、井上が看病を代わったが、宗次郎は目覚めなかった。
明日の稽古に障るからと、近藤をやんわりと部屋に戻し、土方は、一人枕辺に落ち着いた。
宗次郎の幼き頃より、隣の部屋だった事もあり、夜の看病は、いつでも土方が引き受けてきた。
しかし、ここまで意識の戻らぬ事など、嘗て無かった。
ほの暗い部屋に響くのは、息苦しくなるような、急いた呼吸。
こうやって、座している事しか出来ぬ自分に、言い様の無い焦りが募ってゆく。
幾度も繰り返したように、華奢な身を抱き起こし、薬湯を飲ませるが、宗次郎は、誰に薬を与えられているかもわからぬのであろう。土方は、鬱々とした気持ちで同じ作業を繰り返した。
せめて、一度でも、意識が戻ってくれれば――。
それは、祈りのような思いだった。
深更、音の無い闇の中、宗次郎が、小さく身動いだ。枕辺の土方は、身を乗り出すようにそれを見つめた。
「・・宗次郎?」
長い睫毛が震え、僅かに覗いた薄闇色の瞳は、焦点を合わせるでもなく、虚ろに空(くう)を見つめている。
喘ぐように開かれた口は、急いた呼吸を繰り返すばかりだった。
土方は、熱い頬に手の甲を当てた。
熱は、一向に引く様子が無い。
視界の端に、投げ出されていた右手が、強張るように震え出すのが見えた。「宗次郎・・」
それを握り締め、強張る指をゆっくりと解す。
先(せん)の夜から、幾度も繰り返した作業を、土方は丁寧にこなした。
冷たい指の先から、心までをも手繰り寄せ、全ての強張りを解いて遣りたかった。
その時、震える細い指が、土方の手を握り締めた。
縋るような、弱々しい指の力に、心の臓がドクリと打った。
「宗次郎・・?」薄闇色の瞳には、何の光も感じられぬ。
これ程近くに居ながら、自分の存在がわからぬ宗次郎。
その姿に、土方はもう耐え切れなかった。
「宗次・・」
土方は、細い指に唇を寄せ、小さく呟く。
「戻ってこい・・」
指を絡め取り、その一つ一つにくちづける。
「戻ってこい、宗次・・」
それに応えを返すように、熱で乾いた唇が、微かに動いた。
土方は、細指に唇を寄せたまま、その動きを目で追った。
音にならぬその声は、確かに「土方」と、呼んでいた。
刹那、湧き上がった衝動を、止(とど)める事は出来なかった。気付いた時は、華奢な身を腕の中に攫っていた。
すっかり細まった躰は、難無く土方の片腕に収まってしまう。
絡めた指はそのままに、背を抱く腕に力を込める。
抱き上げられ、不自然に躰を揺らされても、何の反応も示さぬ花の顔(かんばせ)。
その貌を、闇の中、暫し見つめる。
見開かれたままの薄闇色の瞳は、鈍く土方の貌を映し出していた。
瞳に映る自分の昏い表情(かお)に、土方は、己の真実(じつ)を見た。
絡めていた指を外すと、額からこめかみ迄を撫で、貌の輪郭を辿った。そのまま、そっと頤を上げ、震える指で、ゆっくりと唇の輪郭をなぞってゆく。
「宗次郎・・、もう一度、俺を呼べ」
低く掠れた声に、応えは戻らない。
幾度目かのそれで、僅かに開いた唇の、その皓歯に指先が触れた。爪先(つめさき)に感じた硬質な音に、己の箍が、見る間に緩む。
何の反応もない少年を暫し見つめ、そのまま、ゆっくりと唇を重ねた。
(やめよ)
耳奥に、戒めの声が厳しく響く。
(欲しいのは、心ではなかったのか?)
土方は、固く目を閉じた。
(欲しいのは心で、躰ではないのだろう?)
くちづけは、深まる。
(無体が、お前の本心(じつ)か?)
土方は、喉奥から声を絞り出した。
「欲しいのは、・・全てだ」
切ない呟きは、理性の戒めを黙らせた。
土方は、腕の宗次郎を暫し見つめる。
未だ焦点の合わぬ薄闇色の宝石に、今にも泣き出しそうな己が閉じ込められていた。
「・・宗次郎」
再び、ゆっくりと唇を合わせる。
啄ばむように丁寧に輪郭をなぞり、それから、柔らかな唇を割った。
少年の内も、熱い熱に冒されていた。その塞(とりで)とも言える、白珠の歯を、舌先で抉じ開けてゆく。
差し入れられた舌の冷たい感触に、華奢な身が微かに震えたが、反応は、只それだけだった。
そのまま舌を絡め、深く吸い上げてゆく。
その、目も眩むような甘やかさ。
抱き締める腕も、絡みつく舌も、戒めの理性さえもが我を忘れる。
細くしなやかな背を抱く腕が、段々と力を強めてゆく。
蠢く舌が、触れるように掠った一箇所に、宗次郎の躰がビクリと震えた。
宥めるようにその背を撫でれば、宗次郎は、ゆっくりと虚ろな瞳を土方に向けた。
「宗次・・?」
応えは、僥倖として現れた。
力無く投げ出されていた両の手が、ゆっくりと上へ伸ばされてゆく。そして、震える細腕が、土方の背に廻った。
たった一度だけ、縋るように、許すように、柔らかく抱き締めた細腕は、あっと言う間に力を失い、土方の背を滑り、軽い音と共に夜具に沈んだ。
熱い躰もまた、土方の腕に、ゆるやかに落ち込む。
乱れた髪が、花の顔(かんばせ)を覆い隠した。
一瞬の僥倖は、土方を驚かせた。
宗次郎を夜具に収め、乱れた髪をそっと掻き揚げた。現れた顔(かんばせ)の、薄闇色の瞳は、固く閉ざされている。
次にこの瞳が開く時、この想いは、受け入れられるのだろうか――。
「・・卑怯だな、俺は」
土方は、呟いた。
捨てた筈の恋情は、疾うに諦めた筈の想いは、埋み火となって燻っていただけだった。
忘れよう、忘れたいと思えば思う程に、叫びたいような衝動に駆られる。
傍に居られれば、それだけで良い、そんな事は偽りだ。
あの細い月の夜、朱に染まった宗次郎を抱き締めた時、開きもせぬ花ならば、己が手で咲かせ、摘み取りたいと思った。それこそが、本心(じつ)だ。
想いを告げれば、この少年ならば自分を受け入れてくれるやも知れぬ。
しかし、欲しいのは、繋げたいのは躰ばかりではないのだ。
何よりも欲し続けているのは、少年の心。
告げて失う事の恐怖に、ずっと己を偽ってきた。
抱く為だけに選ぶ妓は、想い人の面影を映す者ばかり。
そんな気弱な自分と比べ、敵と対峙し、今、呻吟の中に居る宗次郎の、何と心根の強い事か。
「俺は、卑怯だ・・」闇を這う、苦しげな土方の声にも、宗次郎は、応える事なく眠り続ける。
緩やかに弛緩した細い手は、漸く強張りを解いていた。
土方は、傅(かしず)くように貌を寄せ、細い指に、順に唇を押し当てた。
唇に、少年の熱を感じる。
されるがまま、その身を預ける宗次郎を、土方は再びそっと抱き上げた。
「・・なあ?宗次郎」
腕の力を強め、白い耳朶に唇を寄せる。
「俺は・・お前が欲しい・・・」
それは、まるで泣いているような囁き声だった。
「心を、呉れ」祈りのような、声音だった。
つづく