第18号 自主性を育てる


土曜日の午後、
自転車に乗った親子がひゅうひゅう私の横を通り過ぎていった。
母親と子どもが3人。
「お昼なににしようか。」
お母さんが言うと、一番大きい男の子が
「オレ、ラーメン」
「ダメ、ご飯炊いちゃった。」
「チャーハンにして。」
と、娘。
「面倒くさいな。」
「メロンパン買って。ねえ、メロンパン。」
一番小さい男の子が言う。
「ご飯炊いちゃったって言ってるでしょう!」
アッという間の明るい会話が風のように走り去って行った。
「だったら、聞くなよ、お母さん。」
て、感じはしますが、どこか暖かくほほえましい。

ところで、我が子の通う幼稚園の園長先生はいつもこうおっしゃいます。
「夕食のメニューを子どもに聞いて、”子どもの自主性や判断力が育つ”と思っている方がいますが、それは間違いです。夕食のメニューは、親が決めればいいのです。栄養のことは子どもより親の方がよくわかっています。親が導くべきときは、親が子供を導いてやらなければいけません。」

自転車の親子の場合、お母さんは別に子どもに判断力を育成しようと思ってそう言ったんじゃないと思います。
ただ、正直に「何にしようかなあ。」と、困ったから聞いてみたんだと思います。おそらく、お昼はラーメンでもチャーハンでもメロンパンでもなかったでしょう。たぶん、そのへんでコロッケでも買ったんじゃないでしょうか。

うちにある親子が遊びに来た。
「うちの子、100回言っても親の言うこときかないよ。」
と、その子の母親が言った。
午後3時ごろ、「帰るよ。」と、お母さんは子どもに声をかけた。
子どもは生返事さえせず逆に改めて違う遊びを始めた。
「いっつもこうなのよ。人の話なんか聞いてやしない。」
と、言いつつ、母親だって、帰る素振りも見せず
またぺちゃくちゃおしゃべりをはじめた。
会話の区切りになると、思い出したように
「帰るよ。」「もういいかげんにしなよ。」
と何度も子どもに言った。
この母親は、いったい本当に帰る気があるのだろうかと私は思った。
もう、4時になっていた。
「100回言っても言うこときかないのよ。この子。」
と、繰り返し言いながら、「帰るからね。」などと、効果のない声かけを続けた。
そのとき、私はその子に言った。
「もう帰る時間なんだって。
うちは4時半までいてもいいよ。4時半になったら帰ろうね。」
その子のお母さんには、
「もう4時半まで帰ろうって言わなくっていいよ。」
と言いました。4時半になりました。私は部屋を軽く片づけ、
「○○くん、もう、帰る時間だよ。また来てね。じゃあ、玄関まで送るから。」
と、言ってどんどん玄関へ進みました。母親の方もおろおろついて来ます。
こうして、この親子はあっさり帰って行きました。
帰り際、そのお母さんは私に言いました。
「うちの子、よその人の言うことならきくのよね。外面はいいんだから。」
本当にそうなんでしょうか。
お母さんは「帰るよ」と、言ったら帰るべきです。
帰らないなら、「帰るよ」と言わなくていいのです。
「この子、いくら言ってもきかないのよ。」
そんな言葉、子どもの前で言わなくていいのです。
いうことをきくように毅然と言えばいいのです。
そして、行動すればいいのです。
親は子供を導くべきです。
自主性にまかせていたら、眠くなるまで遊ぶでしょう。


先に述べた幼稚園の園長先生はこう言います。
「ご飯をなかなか食べないのは個性ではないのです。
個性という言葉の使い方に親の混乱があるように思います。」

「子どもが遊びたがっているからと言って、
ずるずると子どもの言うなりになって子どもが自主的に帰ろうとするのを待つべきではありません。
今、帰ろうと思ったら、帰ろうと言うべきです。
そして、帰らなくてはいけない。
何度言っても帰らないというのを許していると、親の言う言葉に真実味がなくなってしまいます。」

「幼児期にちょっとくらいのことは我慢できる土台ができていることが大事です。
そうして育った子は小学校の中学年くらいから、
だんだんと自主的に行動することができるようになってくる。
個性を生かしきれる子になってくるのです。」

「幼児期に自主性を重んじる親に育てられた場合、
子どものそばにいつも模倣すべき大人の姿がない。
いつも好き勝手に生活している。
だから、こういうときには、親はいつもこうしていたなという体験が体の中にしみこんでいない。
そのため、大きくなって、自分の判断で行動すべきとき、どうしていいかわからず、
周りの人をきょろきょろ見ながら、人のまねをしたりする人になってしまう。
自主性を育てようと思って育てたはずなのに、自主性は全く育っていない。」


今、話題の17歳。幼児期、模倣すべき大人が彼らのそばにはいなかったのかもしれない。



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