第24号 ほめられたい 



子どもが生まれて、半年くらいは夢中で育てていた。
夫婦で、子どもを可愛がって育てた。
初めての寝返りをビデオで激写したときは、二人とも、狂気に満ちた感動で大騒ぎした。
こんなにすごいのは、うちの子だけかもしれない、と、マジで思った。

半年くらいすると、外へ出歩くようになり、近所に友達もできた。
2〜3ヶ月ころのような手はかからなくなってきたためか、
関心が子どもだけでなく、自分自身にも向かうようになった。
そのとき、私はなんとも言えない不満が湧いてきた。
私は、夫に訴えた。
「私は、毎日こんなに一生懸命やっているのに、誰も私をほめてくれない。」
何度、こんなことを夫に訴えたことだろう。
そんなこと言われても夫だって困るに決まってる。
私がよくやっていると夫は認めてくれていた。
わざわざ、夫から、
「よくやっているね。」「偉いね。」「さすがだよ、君は。」
なんて言われたかったわけじゃない。
だけど、「誰もほめてくれない」という欲求不満はどうにも消えなかった。
ある日、夫が言った。
「子どもがあんたをほめてくれてるじゃないの。
オレが抱っこしたって泣きやまないのに、あんたが抱くと、すぐ、泣きやむ。
これ、子供があんたをほめてんのよ。これこそ、最高のほめられ方だと思わない?」
夫の助言は、私を思いやって考えついた妙案ではあった。
が、それで、「ほんと、ほんと、そうだったわね。」なんて、素直に喜ぶ私じゃなかった。
でも、この妙案以降、私はあまり「誰も私をほめてくれない」というセリフを口にしなくなった。



子どもが幼稚園に入ると、今までより、ちょっと社会的な自分になった。
もう、子どもとふたりだけじゃない。
私は、幼稚園の先生にほめられたいと思っていた。
しかも、きっとほめられるだろうと思っていた。
恥ずかしいことだが、そうだった。
でも、幼稚園の先生は、誰も私をほめてくれなかった。
はじめのうちは、いつになったら、ほめてくれるのだろうと思っていた。
だんだん、この幼稚園はだれにもほめないんだとわかった。
ほめられなかったのだけれど、3年たって、卒園するころ、私はなにか変わっていた。



子育て中、母親が偉い人から説教、或いは、指導を受けるとき、最も多いのが、過去の否定である。
「0歳のころ、ああしたでしょ。あれがいけなかったんですよ。これからは、こうしなさい。」
「これからはこうしなさい」の部分はいいのだが、「あれがいけなかった」という過去の否定ほど、辛いものはない。
女性センターの保育室に2歳の娘を預けたとき、娘が私から離れられなくて泣くと、保育者の方は、
「小さいとき、あんまり泣かせていないでしょ。だから、今こんなに泣くんですよ。」
と、私に言った。私は自分も泣きたい気分だった。実は、隠れて私も泣いた。
変えられない過去の否定は辛い。

私は、娘と密着して過ごした3年間に疑問を持ち始めていた。
自信にあふれて過ごした3年間だったのに、3年たって、幼稚園に入れてみたら、我が子は私から一歩も離れない。泣く。
他の子はみんな元気にやっているのに、うちの子は泣いてばっかり。私は3年間何をしていたんだろう。
自分を否定する声が自分の心の奥から響きわたりどうしていいか、わからなくなっていた。



でも、この幼稚園の先生たちは誰も私の過去を否定しなかった。
「過去はすべてよしとしましょう。」
と、言った。今こうなのは、あのせいだ、このせいだ、
こうすればよかったのに、ああしたのが悪かった。
そういうことを一度たりとも言われなかった。
先生たちは、子どもを誰とも比較しなかった。母親のことも誰とも比較しなかった。
この幼稚園で3年間過ごすうちに、
私には、「人との比較」という基準で、ものを考える癖があったことに気づいた。
イヤ、比較でしか判断できない自分に気づいたんだ。
はじめは、クラスの子どもの中で、うちの子はどのくらいのレベルにいるのかばかり気になっていた。
今、思うと、実に浅ましく、恥ずかしい。
でも、そうだった。
先生は、人との比較では、絶対ものを語らなかった。
この子が今求めているもの、この子が今必要としていること、それだけを語ってくれた。
子どもの成長には、それで十分だった。
人との比較は成長のこやしにはならない。
3年かかって、私は、「比較文化論」から抜け出した。



「ほめられたい」と思っていたとき、私の心の中に
「誰かに比べて立派な自分」を他人に認めさせたい
という欲求がたまっていたのではないかと思う。

人との比較と、他人の評価。
そんな基準で私は生きていた。
他人の評価が気にならなくなり、
自己評価で満足できるようになってくると、
ほめられたいと思わなくなった。
自己評価で満足するとは、
つまり、言ってみれば、自己満足するといったところでしょうか。
でも、自己満足できる力が私には、なかったんじゃないかと思う。
むしろ、自己満足をバカにしていたかもしれない。
人からほめられないと安心できなかった。
自分で自分を認め、自分に満足できる、たいした才能じゃありませんか。




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