第33号 無洗米
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ムセンマイってご存じですか。
無線で注文する米じゃありません。
洗わないんです。
米をとがないで炊いちゃっていいんです。
災害時用に作られたらしいんですが、今は普通に売っています。
私は、この米を知りませんでした。
スーパーで買い物中、夫が「この米買ったら?」と、持ってきました。
「洗わないでいいんだよ。楽でしょ。」
「ええ!別に洗うの大変じゃないからいいよ。」
「でも、忙しいときとかに使ったら・・・」
夫のススメで、小さいのを1袋買いました。
あまり興味はなかったけれど、使ってみたら、すっごく楽!!
米をとぐという基本的なことを省く。
ルドルフ・シュタイナー先生に言ったら叱れらそうだ。
「なんでも省く生活はいけません。
面倒なことでも、順番にひとつひとつやっていくことに意味があるのです。」
なーーーーんてね。
で、次に大きな袋の無洗米を買った。
そのうち、無洗米が日常的になってしまった。
ある日、友人が「無洗米って便利よ。」と言い出した。
友人があんまり元気よく「一度使ってみたら。」と、すすめてくれるもので
「実は、もう使ってる。」と答えた。
そのとき、私は初めて
無洗米を使っていることを恥じている自分に気がついた。
なぜ、無洗米が恥なのか。
楽をすることへの罪悪感です。
古いヤツとお笑いください。
でも、やっぱり、私の身体の中には、そういうのがあったのです。
楽しちゃいけない。苦労は美しい。
でも、苦労を口に出しちゃいけない。
口に出すとどうなるか。
「愛情が足りない」と叱られる。
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10年くらい前でしたか、埼玉県のある小学校で給食が廃止されました。
そのとき、その小学校の校長先生は男性でしたが、
「今のお母さんたちは子どもに対する愛情が足りない。
弁当くらい毎日作れなくてどうする。」
てなことを言ってました。
そばアレルギーの子がそばを食べて死亡したとか、そんな事件があった頃で、
給食を止めてほしいお母さんたちもいたにはいたようですが、
多くのお母さんたちは、給食があることをとっても有り難く思っていたのではないでしょうか。
それを「愛情」の一言で廃止するなんて・・・・・。
ある学校の話です。
低学年の生活科の研究授業のため、
よその学校からその道の偉い校長先生が教師を指導しにやってきました。
偉い校長先生は言いました。
「お母さんたち、洗濯するとき、洗濯物をパンパンってやるでしょう。
あれ、どうしてやると思いますか。」
「洗濯物がしわにならないようにでしょう。」
「それだけですか。」
「それだけでしょう。」
「それだけじゃないんですよ。
あれが、お母さんの愛情なんです。
家族の人たちが気持ちよく洋服を着られるようにと思ってパンパンってやる。
子どもたちには、そこまで掴ませなくてはいけない。」
つまり、その単元で「お母さんの愛情を学べ」というわけです。
が、なんか、あまりにも”価値観の押しつけ”って気がしませんか。
私は、あのパンパンってのは、”愛情”ではなく”洗濯の技術”だと思います。
私が出産のため入院中、洗濯物を夫に頼むと、夫は親切に洗濯してきてくれました。
が、全部しわくちゃ。くちゃくちゃのガーゼで赤ちゃんのよだれを拭いたのを覚えています。
でも、同室のママたちはみんなほほえましそうに笑いながら、
「洗ってきてくれるだけでも偉い」と夫を誉めてくれました。
「パンパンってやらなかったなんて愛情が足りないじゃありませんか。」
と言った人は一人もいませんでした。
男はパンパンってできなくってもいいってわけですか。
女はパンパンってやらないと”愛情が足りない”んだけど。
働いてるお母さんが言っていた話。
ある朝、ウサギやパンダの型を使っておにぎりを作ろうとしたときのこと。
子どもが「お母さん、型は止めて。手で作って。」と言い出しました。
今まで型で作ったおにぎりを喜んで食べていた子どもが急にそんなことを言うなんて。
不思議に思い「どうして?」と聞くと「手で握ったおにぎりは愛情があるから。」と答えたというのです。
お母さんは涙が出そうになったと言います。うれし涙じゃありませんよ。あんまり悲しくってです。
保育園の保母さんに言われたんだろうとすぐに察しがつきました。
型で作ったおにぎりは愛情がなくて、手で握ったおにぎりは愛情があるなんて、どういう価値観なんでしょうか。
新潟の米所には、おにぎり屋さんがあります。
寿司屋さながら、いせいのいいお兄ちゃんたちが、おにぎりを作ってくれます。
そこのおにぎりがおいしいのは、米がいいせいもありますが、
もう一つのおいしさの秘密は型で押して作ってるからっていうのがあります。
手でぎゅうぎゅうやらないから、米の間にちょうどいい空間があっておいしいのです。
が、やっぱり、新潟のおにぎり屋より、寿司屋の方が愛情があるってことになるんでしょうか。
寿司屋は手で握るから。

家事はあくまで労働です。
マルクス流に言うと、労働には賃金が支払われず、仕事には賃金が支払われるんだそうです。
で、家事は賃金が支払われないので労働です。
(ですから、私は家事を子どもが手伝ってくれても絶対小遣いをやらない主義です。)
家事は愛情ではありません。
家事に技術は必要です。
技術のうまいへたは愛情とは関係ありません。
そのへん、勘違いしてほしくありません。
無洗米を使っても家族への愛情は変わらないのです。
でも、マメな母さんから見たら無洗米はダメですか。
無洗米じゃあ愛情足りませんか。
女は楽しちゃいけませんか。
*この会報をお読みになった、あるお米屋さんから、
無洗米について次のようなコメントをいただきました。
「とぎ汁が出ないから”環境にいい”という説は非科学的であり、
現実をねじまげてPRされていますので、
くれぐれもご注意ください。」
詳細は、お米屋さんのHPをご覧ください。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tenchi/