第53号 犬
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結婚前の話。
私のアパートは急坂のてっぺんにあった。
急坂を登っていくと、アパートの方から痩せた黒い犬が一人でとことこ歩いてきた。
飼い主はいない。
ワッと思って、私は急いでアパートの裏手に回った。
すると今度は、そっちの方から、さっきの犬がニコニコしながら向かってくる。
エッと思って、元来た方へ戻ってみると、
またその犬がこっちへやってくるじゃないか。
私は死ぬる思いで、アパートの周りを犬とぐるぐるまわりっこしていたが、
そのうち、うまい具合に犬を巻いて自分の部屋にたどり着いた。
犬がうちの中に入ってこないように、
私はさっと部屋に入ってあわてて鍵をかけた。
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5歳の娘と歩いていたとき、
生後まもない小さな犬を路上で遊ばせている人に出くわした。
飼い主がボールを放ると犬はボールをくわえて戻ってくる。
確かに見るからにかわいい光景ではあった。
が、そのそばを通るには、あまりにも恐ろしい状況であった。
まだ犬に気づいていなかった娘が
「おかあさん、かけっこしよう」
と言うと、娘はいきなり犬に向かって走り出した。
犬はしっぽを振って娘のほうに寄ってきた。
犬に気がついた娘は、「ワァーーーー」と大声を上げて逃げ出した。
瞬間的ではあったが、娘は犬とともに路上をぐるぐる走り回った。
飼い主がすぐに子犬をつかまえてくれたから大事には至らなかったが、
娘は恐怖におびえて私のところへ戻ってきた。
飼い主は「大丈夫だよ、赤ちゃん犬だもん」と言った。
「赤ちゃん犬でも、アタシャ大丈夫じゃないのです」と思ったが、
なんにも言えず、それどころか作り笑いをしながら、こそこそ通り過ぎた。
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子どもの頃の犬の思い出はいろいろある。
近所にとても美人でやさしいお姉さんがいた。
お姉さんは小学校高学年くらいだったろう。
でも、私から見たらはるか大きなお姉さんだった。
お姉さんの目から額にかけて紫色の針の縫いあとがあった。
犬が大好きな子だったのに、飼い犬に噛まれたそうだ。
私は大きな犬を見るとそのお姉さんを思い出す。
隣のヨーコちゃんちはスピッツを飼っていた。
白い犬なので「シロ」という名前だった。
子ども心に私は「シロはとってもおしゃれな犬だ」と思っていた。
シロはいつもブロック塀のすきまから黒い鼻を出してキャンキャン吠えていた。
ヨーコちゃんが「お座り」とか「お手」とかいうと、
それなりの芸をして見せるお利口な犬だった。
でも、触ったことはない。
塀の向こうから見る分には、とってもかわいい犬だった。
裏にはポチという名前の雑種がいた。
いかにもポチという顔をしていた。
ポチはいつもヒマそうにしていた。
ポチが散歩してるのも飼い主に構われているのも見たことがない。
消防自動車のサイレンが鳴ったときだけウォーーーーンと切ない声を出していた。
近所にちょっと有名な頭のいい大きな犬がいた。
どうして頭がいいとわかったのか知らないが、
みんなが「この犬は頭がいい」と言っていた。
名前は知らない。
大きな家に住む品のいいおじいちゃんが飼い主だった。
おじいちゃんは、よく犬を散歩させていた。
私たちは、路上でよく隣近所の子たちと大縄跳びをしていた。
縄を回す人が二人いて歌を歌いながら、みんな上手に跳んだものだ。
ある日、私は、大縄の順番を待ちながら、
手の甲がぬるっと冷たくなるのを感じた。
手のほうを見ると、なんとその犬が大きな舌を出していた。
私の手の甲を舐めたのだ。
震え上がるほどぞっとしたが、
「この犬は頭がいいから絶対噛まない」と信じていたせいで、
なんとか取り乱さずに、その場をやり過ごした。
何事もなかったように、犬はおじいちゃんとあっちへ行ってしまった。
その犬は、よく公園で滑り台をして遊んでいた。
階段を上手に登り滑って降りた。
私が滑っていたら後ろからこの犬が降りてきたときは、ちょっとビビッた。
友達と公園でシーソーをしていると、
どこかの犬が子どもたちの中でうれしがって走り回っていた。
シーソーに乗りながら、私はそのつながれていない犬のことが気が気でなかった。
とりあえず、シーソーのそばへ犬が来ても自分はシーソーの上だから大丈夫
と思いつつ、でも、どうやって降りたらいいものか悩んだ。
何度もシーソーから降りるグッドタイミングをシミュレーションし、
犬があっちへ行った瞬間、
パッとシーソーから飛び降り走り出した。
すると、あっちへ行っていたはずの犬が
アッという間に私のほうへ追いかけてきて、
私の足をぱくっとかじった。
キャーーーーーー!!!
私は泣きながら家へ走って帰った。
そのあと、友達が「かずみちゃん、どうして帰っちゃったの〜〜〜?」と迎えに来た。
が、「もう行かない」と言って、せっかく迎えにきてくれた友達を帰してしまった。
外へ出るとまたあの犬が追いかけてくるような気がして、
一日外へ出られなかった。
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犬好きな人には信じられないだろうが、
犬がこわい者にとって「犬の放し飼い」ほど恐ろしいものはない。
犬というのは、すぐニコニコしながら人間に近寄ってくるので参る。
猫のように人間を見たら、さっと姿を隠すような習性になってもらえないものだろうか。
娘たちは、すっかり私に似てしまったが、
私よりはまだマシで、おとなしい犬なら背中をなでることができるから大したものだ。
小4の娘は「ブルドッグなら飼ってみたい」と言っている。
娘の説によると、顔がこわい犬は実はおとなしいのだそうだ。
だから、ブルドッグは好きなんだそうだ。
しかし、私はブルドッグを抱くことができるだろうか。

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