第60号 TVゲーム 若者編
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キヨシローのライブを見に行ったときのこと。
会場は、渋谷の某ビルの5階のライブハウスだった。
私が会場についたときは、すでに1階の階段の下まで人がずらりと並んでいた。
みんなキヨシローのライブのために並んでいるのだろうと思った。
が、もし、違っていたらいけない。
私は列の最後にいた二十歳くらいの若い女性に
「すみません。お尋ねしますが、これはキヨシローのライブの列ですか?」
と尋ねた。が、女性は何も答えてくれない。
私はもう一度尋ねた。
が、女性はびっくりしたような目で私を見ているだけで何も答えてくれない。
目と目が合っているのに。
とても不思議な気分になりながらも、私はしつこく尋ねた。
すると、少し前にいた男性が振り返って私のほうに顔を向けて
「そうですよ。ここで500番目くらいみたいですよ」
と感じよく答えてくれた。
私はやっと"人間"に出会えた気がしてほっとした。
そして、お礼を言って列に並んだ。
さっきの女性が友達と明るく日本語でしゃべっているのを見たとき、
「なぜ、この人は私の質問に答えてくれなかったのか」
という疑問がふつふつと湧いてきた。
いくら「知らない人としゃべってはいけませんよ」とママから教わったからって、
同じライブを見にきた仲間じゃないか。
「キヨシローのライブの列ですか?」
くらいの質問に答えてくれたっていいじゃないか。
どうして何も言わずに、シカトしていられるのだろう。
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ある日、家族でマックへ行った。
注文するとき、夫はあることでレジのお姉さんにクレームを言った。
すると、お姉さんは、「はぁ〜?」と言ったっきり次の言葉が出てこない。
まさに、マニュアルの答えがわからなくてフリーズを起こした
といった表現がぴったりの出来事だった。
「マクドナルドのマニュアルはとっても細かい」という話を聞いたことがある。
しかし、お客様からの”クレーム”に対応する項目はないのだろうか。
そのとき私はキヨシローのライブの列で私の質問に答えてくれなかった女性を思い出した。
ライブの列で知らない人からものを聞かれるなんて項目は、
彼女の頭の”人間関係マニュアル”には載っていなかったから、
彼女もフリーズしてしまったのかもしれない。
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今、友達とうまくやっていきたいが、うまくやっていけないと悩んでいる若者が多いそうだ。
実際、18歳くらいの若者と話す機会が多い夫は、若者の変化を実感しているという。
予備校には、半年たった今でも、一人ぼっちで授業を受け、
一人ぼっちで弁当を食べ、一人ぼっちで帰っていく子が多いらしい。
なにも彼らは”一匹狼”を目指しているわけではない。
それどころか、友達を渇望している。
なんたって、「大学へ何しにいくのか」と聞かれて
「友達を作りにいく」と真顔で答える子が多いそうだ。
大学へ行けば、サークルがある。
サークルに入れば仲間が待っててくれて、
みんなが迎えてくれるに違いないと思っている節がある。
と、夫は感じるのだそうだ。
人との対応でフリーズしてしまうのも、友達とうまくやっていけないと悩むのも、
問題は”人間関係の未熟さ”というところに行きつく。
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私たちは子どものころ、「TVっ子」と言われ、大人たちはTVの見すぎを心配した。
しかし、今では、多くの人が番組を”選んで見る”ことを覚え、
生活の中で上手にTVを活用できるようになってきた。
私自身TVを見て育ったが、
TVのせいで問題ある大人になってしまったつもりはない。
だから、TVゲームもそうかもしれない。
なかったものが世に出てきたときは、みんな行く末を案じるのかもしれない。
TVゲームの弊害は言われ尽くしているが、案外、なんともないのかもしれない。
が、1983年にファミコンが世に出て19年。
今、まさにファミコンで育った第一世代の若者たちが大学生になっている。
若者たちの人間関係の悩みが、「もしかして、ファミコンのせい?」という気がしてくるのは私だけだろうか。
TVゲームも上手に活用すれば、家族の楽しい遊具のひとつになりえるだろう。
しかし、「子どもが静かにしていてくれるから」と言って、
小さいうちから子どもをTVゲームづけにして放っておいていいのだろうか。
幼児というのは、大人が思っているほど、「現実」と「作り話」の区別がついていない。
うちの娘は、あまりTVを見ていないせいもあるが、映画「ゴジラ」を5分観て、2時間震えが止まらなかった。
いくら「作りもの」だと説明しても恐怖心はぬぐえなかった。
小さいときから、ゲームをしている子たちは、それが「作りもの」であることを早くから認識しているかもしれない。
しかし、あまりにも早くから「作りもの」を認識してしまった子というのは、
反対に「現実」が「現実」と認識できないまま大人になってしまったりはしないのだろうか。
最近、人殺しをする若者が「ゲーム感覚でやった」という言葉には、そういう「現実の認識」の甘さを感じる。
「TVゲームをするな」とは言わない。
「TVゲームに呑み込まれるな」と警告したい。
それを”子どもの自主性に任せる”ことはできない。
子どもの心と体を蝕まないように注意を払うのは、買って与えた大人の責任である。
