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ワイセツ事始め
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子どもの頃、田舎のあぜ道を歩いていたら、向こうからトラクターがやってきた。
すれ違ったあと、姉と私は顔を見合わせ、「すごいねえ。」と、言った。
運転手が女性だったことに加えて、懐にオッパイを飲む赤ん坊がいたのだ。
オッパイがモロ見えだったこともすごかったが、
運転しながらオッパイをやってることにも驚いた。
のどかな田園風景の中に昼日中、オッパイを出して
赤ん坊に乳を飲ませながらトラクターを動かすたくましい母の姿があった。
これを猥褻行為と誰が言うであろうか。
私は両親の実家にいくと、そこの風呂に入るのがイヤだった。
小さい頃は別に気にもならなかったが、
小学校5年生くらいになると、田舎はなんでこうなんだと胸を痛めた。
母の実家は、台所と居間の境目に風呂場があった。
脱衣場がないので、居間と台所の間でみんな裸になって風呂に入るのだ。
おおらかなものだった。だれもイヤらしい顔なんかしなかった。
さすがにイヤだなと思うようになってから、私は風呂の中に服やバスタオルを持って入った。
父の実家は最低だった。
父の実家は、風呂桶屋だった。
たぶん、誰にも想像できまい。
お店の片隅に風呂場があったのじゃ。しかも、その風呂場にはドアがない。
いくら風呂桶屋だからったって、そりゃないぜ、Babyだ。
外から入ってきた人が「こんちは〜〜〜。」と言って右を向けば、風呂に入っている人が丸見えだし、
左を向けば、家族が居間でTVを見ている。
居間にふすまや扉はなく柱が一本立っていたっけ。
なんともオープンな家だった。
居間で真っ裸になったおじいちゃんが、居間の向こう側の風呂場に入っていくのを何度も見た。
おじいちゃんのお尻の割れ目が忘れられましぇん。
風呂につかってこっちを見ているおじいちゃんの顔も覚えています。
ここで、のぞきにあって困ったという話を一度も聞かない。
父には姉も妹もいた。叔母たちは、ここの風呂場で大きくなった。
両親の実家は猥褻な構造の家だったのだろうか。
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猥褻という言葉がいつ生み出されたか、ご存じですか。
明治維新のころ、日本へやってきた西洋人たちは、
日本人の開けっぴろげなさまざまな日常生活に相当たまげたそうです。
男女混浴、立ち小便、若者宿、性神崇拝、祭礼の後の乱交、
軒先で水浴びする女性、人前でオッパイを出して授乳する母・・・
そうした数々の習俗を野蛮と見た西洋人に迎合し、
明治政府の偉い人々がそういった習俗を「猥褻」と名付け、取り締まっていきました。
きっと、私の両親の実家の田舎などは、その取り締まりが行き渡らず、
昭和の中期になっても、そんなのどかな状態が続いていたに違いありません。
猥褻という言葉がなかった時代、
風呂場の前で人は平気で着物を脱ぎました。
明治政府は、西洋文明を受け入れ、鹿鳴館を建て、猥褻という言葉を発明し、
裸にまつわる全てのことを「いやらしい」「恥ずかしい」とし、
そういう感覚を臣民に植え付けました。
女性に対しては「貞淑になれ」「人前でオッパイなど出すな」と教えました。
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中学校の先生が赤ちゃんを生んで産休をとっていました。
教え子たちが先生の家に出産祝いに来てくれました。
先生は、うれしくって赤ちゃんのビデオを生徒に見せました。
母乳を飲ませているところがTV画面に映し出されました。
「先生のオッパイ見ちゃったよ。」
男子生徒がつぶやきました。
先生は、その時はじめてハッとしました。
赤ん坊とオッパイならエロではないという先生の感覚と
それでもオッパイはオッパイだった生徒の感覚。
見せてはいけないものを見せてしまったのだろうかと、先生はしばらく悩みました。
先生は猥褻行為を生徒に見せてしまったのでしょうか。
猥褻って、なんでしょうか。
猥褻小説は、どこからきたのでしょうか。
猥褻映画は、どこからやってきたのでしょうか。
人目に触れない脱衣場を作ったとき、人前で裸になるのが猥褻行為になりました。
お母さんのオッパイが大好きな男の子が、
通販誌のランジェリーページを見て、ニコニコしているとき、
「こら、そんなもの見ちゃいけません。」
と、突然、お母さんが顔色を変えて叫んだとき、
ただの「お気に入りページ」が「猥褻なページ」に変わるのです。
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*竹中労によると、彼の調べた限り、「猥褻」という用例はわが国にあり、中国にない。
明治政府の役人が取り締まりのために編み出した言葉に違いない、という。(性愛論 橋爪大三郎著 岩波書店)