ワイセツという言葉のわな


愛のコリーダ2000」が上映されました。
20年前、猥褻な部分が全て”カットorぼかし”で上映されました。
当時、”ぼかし”だらけになった映像を観た大島渚監督は
「あれは僕の映画じゃない」と嘆いたそうです。
それが最近ノーカット(極端にそれとわかる外性器などは”ぼかし”を入れた)で上映されています。
大島監督も「これならばまぁ良し」と納得したらしい。
20年前、猥褻だった映像が、21性器じゃない21世紀を迎え、猥褻じゃなくなったのでしょうか。

  

「愛のコリーダ」は有名な阿部定事件をもとに作られた映画です。
小料理屋の女中・定とその店のダンナがいい仲になり、駆け落ちした後、
旅館でおいしいSEX三昧の日々を送り、最後に定がダンナの首を絞めて殺してしまいます。
4日後、定が捕まったとき、ダンナのペニスを後生大事に懐に入れていたというので、
全国的に有名になった事件です。


私はこの映画を観て猥褻だとは思いませんでした。
ある評論家のように「これぞ真実の愛の形」とも思いませんでした。
私は、単にSEXに溺れた二人のなれの果てだと思います。
また、ある評論家は「これこそ日本の女性たちが求めていた姿である」と言っていましたが、
私はそれにも共感しません。

でも、私は私なりにこの映画を感動的に観ることができました。
大島渚監督はこの映画で「とにかく性描写だけをしたかったんだ」と言っています。
その点で大変成功していると思います。
「愛のコリーダ」の中で描写されている定の積極的なSEXと
満足げなダンナの表情に私はとても好感をもちました。
SEXはこうでなくちゃいけないと思いました。
そして、SEXに満足しているときの自分を外側から見たら、
きっと私も「阿部定」になっているだろうと思いました。
ペニスを切るだろうと言ってるのではありません。
私もあんなイイ表情になるだろうと言っているのです。


この映画の中には、
子どものペニスを定が掴んで泣かせるシーンや
ダンナが60歳の芸者を強姦するシーンがあります。
そこは、基本的人権侵害シーンとして「イケナイ」場面と認識すべきです。
が、多くの映画の中で、無意味な暴力や理不尽な殺し合いだのは、許されています。
そういうシーンが猥褻罪でつかまることはありません。
「愛のコリーダ」のどこが猥褻だと言われたのでしょうか。
そう、映画の2/3を占めるSEXシーンです。
これが猥褻だと言われたのです。

定とダンナのSEXシーンは美しいものでした。
第一、定はとても感じていました。また、定はSEXを嫌がっていませんでした。
むしろ、積極的に楽しんでいました。
これが猥褻だとしたら、
日常行われている一般市民の性行為も猥褻ということになります。
SEXを映画にすると猥褻で日常行為なら猥褻ではないと真面目な市民は思うでしょうか。
こうした映画が取り締まりの目に合うと、真面目な市民はみんなこう思うのです。
「あ、やっぱりSEXっていうのは、猥褻だよな。
SEXは警察も取り締まれるほど、いやらしくてイケナイことなんだよな。」 
人殺しの場面はほとんど許されるのに日常行為である性の場面は許されないのです。

  

21世紀を迎え、今では、婚前交渉なんて言葉は死語になりました。
しかし、性の意識は20年前に比べてどのくらい変わったと言えるでしょうか。
変わったのは、処女価値がなくなっただけで、
性意識そのものはあまり変わっていないような気がします。
つまり、多くの真面目な人々は依然SEXを猥褻行為だと信じて疑っていません。
なぜなら、次のような発想をする人々がたくさんいることを私は知っています。
全部の人がそうだと言っているのではありません。
そう思う人が結構いると言いたいのです。
「SEXは猥褻である。猥褻とは、いやらしくて恥ずかしくてイケナイことである。
妊娠のためのSEXは清く正しいけれど、
阿部定のようにSEXを快楽として楽しむなんて最低なヤツらがすることなのだ。
快楽のためにSEXしているのではない。
愛しているから、触れ合いのコミュニケーションとしてSEXしているのだ。」
Sexless夫婦の一方がどんなに悩んでいても、
夫婦間で自分たちのSEXのことを語り合えない人がいっぱいいます。
思い切って話題にしたら、「そんなにSEXが好きか」
と言われて落ち込んでしまった人がいます。
「SEXのために結婚したの?」とバカにされた人もいます。
そんな発言をする人たちの心の底には、
本人が意識しようとしまいと結局「SEX=猥褻」観が潜んでいるのです。



「猥褻」という言葉を明治政府が作ったとき、
「SEXや性器や裸はいやらしく恥ずかしいものである」
という意識を人々に持たせることに成功しました。
正妻の座の女性から快楽の性を奪いました。
そして、子孫繁栄と血を守るためのSEXを女の仕事としました。
快楽のための性は、男のみが外の女(妾や売春婦)と楽しむことを国家が推進したのです。
正妻たちはなぜ不満を言わなかったのでしょうか。
外の女を見下すことで自分たちの立場を納得できたからです。
「妻はSEXに淡泊でして・・・」と言いつつ、外の女と気持ちいいSEXをしている現代の男は
明治以来の政府の政策にしっかり乗った真面目な人たちというわけです。
「浮気は絶対してほしくないけど、風俗なら許す」という女性たちも同様です。
風俗の女を見下す(人間と見ない。商品、ものとして見る)ことで、
自分(正妻)の価値、地位を安定した立場ととらえるわけです。
風俗嬢ではなく”素人女性との浮気”は相手を人間と見ている点で正妻たちは許せないのです。
その安定した妻の地位を脅かされる恐怖からです。


「猥褻」という言葉の発明が現代日本人の性意識にどういう影響を与えたか、
おわかりいただけましたでしょうか。

  

世の中には、取り締まりを受けないポルノ映画がゴマンとあります。
女性が犯されているだけで美しさに欠けるSEXシーンだらけの映画は
ちっとも「猥褻罪」で取り締まりを受けません。
私は、ポルノ映画は嫌いです。
私はSEXで苦しみたくありません。
ポルノ映画の中で女性が苦しんでいるのを見ると、私は目を覆いたくなります。
あれをSEXの教科書にしてはいけません。
日本人は、今、美しいSEXを美しいと感じ、
醜いSEXを嫌悪する正常な意識を取り戻すべきです。