うやむやが得意な大人たち

  

小学校4年の頃のことだ。
近所の商店街を歩いていたら、姉が私の耳元でささやいた。
「今、あそこに立ってる髪の毛三つ編みにしている子、
○○中学退学させられて、××中学に転校してきたんだよ。」
○○中学とは近所の品のいい私立女子中学校で、
××中学とは近所の品の悪い公立中学校である。
姉が言うには、彼女は妊娠中絶が学校にバレて退学させられ、
公立に転校してきたのだそうだった。

心理学者の小倉千加子さんは、「セックス神話解体新書」という本の中で、
このような状況を「腐った林檎の排除」と呼んでいる。
中絶した汚らわしい女子は清らかな学校からは排除する。
性教育は、そこから始まるはずなのに中絶はなかったことにしてしまう。

家に帰ってから、私は両親と姉に質問した。
「さっきの女の子、どうして中学生なのに妊娠したの?」
「結婚もしてないのに、どうして妊娠したの?奇形児?」
そう、私はこういう差別用語で質問したのだ。
誰もそれに答えなかった。
が、どうも、彼女が奇形児ではないらしいことだけは感じとった。
それから、私の悩ましい日々が始まった。
私ももしやあの女子中学生のようにいつか妊娠するのではないか。
奇形児ではなく、普通の子にも起こりうる。
しかも、もし、妊娠したら、学校をやめさせられるくらいヤバイらしい。
へそのあたりに掌を強く当てると、どくどくと音がした。
赤ちゃんがいるのではと思ったりした。
かすかな恐怖ではあったが、
長い間、そんないわれ無き不安を心の底に潜めていた。
みんなはそんな心配したことないのだろうか。

  

性教育らしいものを受けたという記憶はないが、
しいて言えば、高校の保健体育の時間にそれらしい内容が1日あった。
地理や世界史だったら、絶対覚えていないはずだが、
たった1時間の授業のことを私は今でも忘れずにいる。
先生は毎回、教科書を読むだけですませるといった授業をしていた。
一応、「質問はありませんか?」などとポーズはとってみるが、
質問する生徒なんて一人もいなかった。
が、授業で避妊具のことが出てきたとき、Y君が質問をした。
「ボク、コンドームは知ってるんですけど、
ペッサリーって見たことないんです。どういうものなんですか。」
先生は、「精子と卵子が出会わないようにするための避妊具です。」と答えた。
Y君は「避妊具っていうのはわかるんですが、どうやって使うんですか。」と聞いた。
みんな、しらけて下を向いていた。
「Y君、先生を困らせないで。」
みんなそう思っていたに違いない。
教室の空気は冷たく凍りついた。
それなのに、Y君だけは、「どういうのかイメージがわかないんですが」と訴えた。
もし、美術の時間に「水彩絵の具は知ってるんですが、油絵の具は見たことないんです。」
という質問をしたらどうだろう。
「それは、絵を描く道具です。」と答える先生がいるだろうか。
性に関する質問はしてはならなかったのだ。
なのに、なんの屈託もなく、Y君は質問した。
先生の口調には、「君の質問はとんでもないよ」という気持ちが丸見えだった。
「ペッサリー」という名前を教えるだけで先生は避妊を教えたふりをする。
それでいいだろという暗黙の了解があった。
Y君はそれを破った。
でも、わけのわかる答えは最後までもらえなかった。

  

私の家族は「どうして中学生なのに妊娠したの?」に答えられなかった。
保健体育の先生は「ペッサリーってどういうものですか。」に答えられなかった。
大人たちは、性のこととなると、すぐ、うやむやな言葉でお茶を濁す。
大人のそういう態度から、子どもたちは、何を学んでいくだろうか。

大人たちは子どもに性を語らない。
だのに、男の欲望を満たすために作られた
ねじ曲げられた性情報は平気で垂れ流している。
コンビニで、ビデオ屋で、本屋で、公園で、
万人の目に飛び込んでくる、これらの過激な性情報から、
子ども達は、いったい何を学んでいるのだろうか。
正しい性の情報はどこから得ればいいのだろうか。
大人になれば自然とわかっていくものだという人は多い。
では、あなたは、自然となにを学んだか。

「子どもにどう性を語ればいいのですか。」
と、すぐに専門家から答えをもらおうとする人がいるが、
性を語るとは、そんなものじゃない。
大切なのは、自分自身が性的存在であることを認識し、
自分の性をしっかり見つめ直すことだ。
なにを今更。私には性など関係ない。
そうだろうか、本当にそうだろうか。
人間は、死ぬまで性的存在である。