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女なんてたいしたことない? その2
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ー戦後の純潔教育の実態ー
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なぜ、ベッドの中で男女が対等になれないのか。
男女平等という言葉は、日本国憲法の中に閉じこめられている。
ジェンダーに縛られていると男女不平等な状況を見破る能力が育たない。
(男らしさ女らしさゆえに発生する様々な現象のことをジェンダーといいます)
2歳の息子が転んで頭を机の角にぶつけて泣いたら、パパが言った。
「バカヤロー、そのくらいで泣くんじゃねえ。チンチンついてんだろ」
チンチンついてたって、机の角に頭をぶつけりゃ大人だって結構痛い。
21世紀を迎えた今だって、男の子たちは、そんなふうに「男らしさ」と学んでいる。
社会的に元気な女性が増えてきた。
彼女らは学校時代、男よりテストでいい点をとり、
会社に入ってからだって、男に負けずにやっている。
自分が男に劣っているなんてゆめゆめ思っていない。
でも、男に負けないために男に勝たなきゃいけないのは、なぜなんだ。
男だろうが、女だろうが、同じ人間同士、
勝ちだの負けだのないはずなのに。
女には、男を追い越さないと男と互角になれない壁がある。
男は男というだけの理由で女に威張れたりする。
女は女というだけの理由で男から一歩下がったり、男を立てたりする。
それが当たり前になっている。
「そんなことない!」と、反発したい人もいるでしょう。
でも、自分からSEXしたいと言えない女性の多いこと。
自分からホテルに誘わなければいけないと思ってる男性の多いこと。
「男が能動的で、女が受動的」
この言葉は、まだ死語にはなってない。
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なぜ、こういうことが起こるのでしょうか。
それは、これが戦後日本が国民にしてきた純潔教育の実態だからです。
昭和22年文部省社会教育局長名で「純潔教育の実地について」という通達がでました。
以来、日本の性教育の基本は、このときの考え方からほとんど変わっていません。
女性に対して、「結婚前のセックスをやめましょう」と教え、「いい妻いい母になりましょう」と説きました。
貞操重視、良妻賢母主義の教えです。
では、男性に対しては、どう説いたのでしょうか。
それは、今も、ほとんどの男女が信じて疑わない次のような常識です。
「男の性欲は本能だから仕方ない。
自慰やセックスをしなければ、
精子は3日でたまる。
男の性欲は抑えられない。」
実際は、男だって、性欲は理性で抑えられます。
注)「性欲は理性で抑えられる」というのは、本当です。
だって、考えてみてください。
いくら性欲が旺盛だからと言って、公衆の面前でオナニーしますか。
しませんよね。
それは、性欲を理性で抑えることができるるからです。
「性欲は理性で抑えられる」というのは、
「オナニーするな」と言う意味ではありません。
オナニーは誰にも迷惑をかけずにできる性欲処理の良い方法です。
相手のいるSEXの場合、相手が嫌がっているのに、
「イヤよ、イヤよも、いいのうち」とか
「男の性欲は抑えられないものなんだよ!」などと言って、
女性を押し倒してSEXを要求してはいけません。
女性が嫌がっているのに、無理矢理SEXすることを強姦といいます。
*性欲は本能ではなく、学習の結果です。
* 精子は3日でたまるというのもウソです。
*射精されない精子は体内に吸収されたり、夢精となったりします。
(*このことは、一橋大学講師の村瀬幸浩先生(♂)が言っています。)
なんせ、政治家が国民の前で「法律がなければ男はみんな強姦するものさ」
てなことを平気で言ってしまうような国です。
そういう人たちによって作られた性教育が戦後の純潔教育なのです。
純潔教育によると、結婚した女性には「いい妻」「いい母」を求めます。
”夫婦がSEXしている間柄であること”は、世間様も認めてくれます。
ですから、当然、夫婦はエロスに満ちた男女であるはずです。
それなのに、純潔教育では、結婚した女性に対して「いい女」であることなど求めていません。
SEXは生殖のため。女は子どもを生めばいいのです。
女はSEXで快楽など求めてはいけません。
あくまで女のSEXは、男へのご奉仕”夜のおつとめ”なのです。
純潔教育は、結婚した女性に対し”性的存在ではない”ことを求めています。
”性的存在ではない”妻と男たちは楽しい性生活ができるのでしょうか。
男たちは、制度上、一生に一人の女とSEXすることに決めました。
でも、そんなこと不可能で、そんなつもりもさらさらないことを知っていました。
男たちは、うちの中に一人聖母マリアのように貞淑な妻を囲い込み、
外で快楽の性を楽しむことが可能な社会を上手につくりあげました。
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売春防止法(昭和33年3月実施)が作られた頃、
人々は売春婦をこうとらえていました。
売春する女は淫乱或いは男好き。
生来持ってうまれた性癖ゆえ売春婦になってしまう種類の女がいる。
だから、売春するふしだらな女は取り締まらなければならない。
買う男は仕方ない。
だって、男の下半身に人格はない。
売る女がいるから買う男が出てくるのは当然だ。
そう言いながら、男たちは、あからさまに女を買いました。
が、男のホンネはこうでした。
「でも、自分の妻や身内には売春婦なんかになってほしくない。」
下半身に人格はないのですから、
売春婦などという人格のない女が身内から出たら、それこそ恥なわけです。
公娼制度が廃止(昭和21年)され、私娼制度(昭和21年)に変わったとき、
「一般女子」が「売春婦」に転落しないように、
国は、純潔教育(昭和22年)が必要になったのです。
売春防止法と純潔教育のおかげで、
「一般女子」を持ち上げ、「売春婦」を徹底的におとしめる考え方(女の二分法)が
知らず知らずのうちに、日本人の心の奥深く根付いていきました。
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差別なんかされたこともしたこともないという人が多い昨今ですが、
今、日本人の中で一番堂々と差別されているのが売春婦であることにみなさんお気づきでしょうか。
たとえば、ホテトル嬢が客に殺されたとき、判事たちは平気で言うのです。
「ホテトル嬢が自分から進んで客のいる部屋へ行ったんだ。
客になにをされても仕方がないという覚悟ははじめからあったはずだ」と。
電気工事の仕事である家を尋ねた電気屋さんが殺人事件に巻き込まれたとき、
「見知らぬ人の家へ工事をしに自分から進んで行ったんだ。
なにをされても仕方がないという覚悟ははじめからあったはずだ」
と言う人がいるでしょうか。
でも、ホテトル嬢はそう言われるのです。
彼女たちの人権が見下されているからです。
(弁護士・角田由紀子さんの著書「買売春解体新書」参考)
女を畏怖し、それなのに、女を見下さなくてはならない男たちは、
世間から最も見下された売春婦を性の対象として選ぶのです。
「なにをされても仕方がない」と判事までが認めてくれる、
そういう立場の女性を選ぶのです。
商品としての女とSEXすることで、「女の上に立てた」という実感をもち、
「女なんてたいしたことない」ことがわかると、男としての自信が湧くのです。
その勢いで、自分の彼女をホテルに誘います。
そして「一般女子だって、たいしたことないぞ」と確信したとき、
彼は本当の男になれるのです。
男らしさにこだわるあまり女に畏怖の念を抱いた男が、
女の前で能動的に勃起するには、女を見下さなければならなかったのです。
女を見下すための練習として売春婦は格好の道具なのです。
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それにしても、売春などで、男たちは、楽しいSEXが可能なのでしょうか。
女を買ったあと、「空しい」などと言ってる男はたくさんいます。
もちろん、空しくなくて楽しい人もいっぱいいるでしょう。
妻には言えない愚痴を言って慰めてもらってる男性も多いと聞きます。
でも、風俗で「空しい」と感じる彼らは、一般女子とSEXしたって、きっと空しいのです。
空しいSEX観しかもっていないのだから仕方ありません。
そして、多くの男たちは再び女を買いに出かけていくのです。
男らしさに縛られ、男らしいSEXに疲れた男たちは、
生身の女とするより、バーチャル世界の女とする方がよっぽど楽だ言います。
インターネットのスケベ系サイトのH画像を見ながら励むオナニスト。
本物の彼女より、ゲームの中で育てた
自分の言いなりになる彼女の方がいいなどと言い出す若者。
思い通りにならない本物の彼女や妻よりも、
バーチャルな女とする方が楽でいいという声もよく聞きます。
現代の若者にとって、風俗嬢はアニメやネットやゲームの中の女の子と同じように
バーチャル世界の女性の一人なのだと思います。
本来、SEXは、生身の人間同士が生臭く抱き合い、体を暖め合い、
性的満足とともに心を潤わせることができる最高の行為であるはずです。
それなのに、「らしさ」や誰とも知らぬ「世間様の教え」に縛られて
楽しい人間関係をふいにしているのです。
もういいかげん、男たちは
「女なんてたいしたことない」なんて思いながら女を抱くのはやめて、
「なんてすてきな人だ」と思う人と心を潤わせながら抱き合ってみてはいかがでしょうか。
そこには、ずっとすてきなSEXがあるはずです。
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