自我

私は、幼稚園の園長先生に臆面もなく尋ねました。
「自我ってなんですか?」

園長先生の答えは、こんな感じでした。
「こうした方が楽だけど、みんなのためにはこうした方がいいと思うこと」
一口にいうと、そんなのが自我だと言いました。
「自我には、様々な成長の段階があります。
苦労があるから、自我が成長する。
苦労がないと成長しない。
自我は磨けば高まる。
そういうものです。」

私は「”知情意”の”知”のようなものですか。」と尋ねると、
「それに近いです」といいました。
そして、さらに、自我の話は、びっくりするような方向へ展開していきました。

ここに枝豆があるとするでしょう。
枝豆の中の豆が自我です。
人間の主体は自我なのです。
主体としての自我は意識的なあり方をしています。

肉体やエーテル体やアストラル体は豆を覆っている莢(さや)の部分に当たります。
自我を包んでいる莢は衣装のようなものです。
私たちは、女とか日本人とか、そういう衣装(莢)を着ています。
気質も莢の一部です。
これらは、人間の客体です。
客体は無意識の部分です。

自分の意識が自分の無意識に働きかけて、あるべき方向へ持っていこうとし、無意識がそれに抵抗します。
自我をもって感情をコントロールします。
自我をもって生命体をコントロールします。
自我をもって肉体をコントロールします。

「はあ〜〜〜、なるほど。自我によって病気も克服するって感じですか」
私が尋ねると「そういうことにもつながります」と園長先生が言った。

さて、自我ってなんでしょう?
自分の言葉でいうとしたら、私はなんというでしょう。

反抗期のたびに、「自我の目覚め」という言葉が使われますよね。
反抗しながら、自我が目覚めていくのでしょうか。
自分の意識がはっきり目覚め、自分の責任で考えられるようになっていくこと。
自我というのは、そんなところでしょうか。

あなたは、「自我ってなに?」と尋ねられたら、なんと答えますか。

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