心・体・頭
幼稚園の元園長、現理事長先生も
ありがたーくわかりやすーい話をよくしてくださるのですが、
一番私の心に残っている言葉がひとつあります。
「頭で理解するだけじゃなく、
心で感じ、体を巡って、頭でわかる、それが大事ですね。」
それだけの言葉です。
でも、私の心には、この言葉が大きく響くのです。
私は子どもの頃から、頭で生きてきたような気がします。
道徳的なことも、体で感じる前に、全部言葉で覚えてしまったような気がします。
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長女が年中のころの話です。
路上で、友達と「蟻退治」をしていました。
足で蟻を踏んで殺しているのです。
「あ、こっちにも」
「また来たぞ。」
足で力いっぱい踏んづけるのです。
オイオイオイオイ・・・と、思いながらも私は他のお母さんをおしゃべりしていました。
すると、他の幼稚園に通う近所の年長のお姉さんがやってきました。
鼓笛隊のある幼稚園に通う子で、ピアニカも上手に吹けるお利口ちゃんです。
「蟻を踏んじゃだめよ。かわいそうでしょ。」
彼女は、おバカちゃんなうちの子たちを注意してくれました。
うちの子たちは、その子に言われると、みんな、一瞬下を向き踏むのをやめました。
彼女があっちへ行ってしまうと、
また、大きな声でキャーキャー言いながら、蟻退治を始めました。
すると、また、彼女がやってきて、
「蟻がかわいそうだから、やめなさい。」
と、言いました。
うちの子たちは、再び、一瞬下を向き踏むのをやめました。
で、彼女が行ってしまうと、また、
「コラー、やっつけるぞー。」
と、言って踏んづけ始めるのです。
そんなことを何回も繰り返していました。
私はふと娘に聞きました。
「どうして蟻を踏むの?」
娘は、迷わず答えました。
「蟻はこわいんだもの。蟻は悪者なんだよ。」
それから、何ヶ月かたちました。
外でお弁当を食べたとき、こぼした御飯に蟻がやってきました。
蟻が集まってきて、その御飯を運び始めました。
娘はその姿に感動していました。
そして、「蟻って、家で飼えるの。」と、私に尋ねました。
「飼えるよ。」
と、答えると、
「飼いたい。」
と、心から言いました。
ある日、誰かが蟻を踏んでいました。
娘は「踏んじゃだめ。」と言いました。
「人が蟻を踏んで、蟻が減ると、自分の飼いたい蟻がいなくなると困るから。」
と、なんとも利己的な理由で蟻を踏むのをやめさせているのです。
もう、長女は蟻を踏みません。
蟻は自分の敵ではなくなったのでしょう。
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私は、娘に
「蟻がかわいそうだから踏むな」「命の大切さを知れ」
などと一度も言ったことがありません。
彼女の頭に「命は大切だ」というフレーズはないかも知れません。
でも、彼女が「蟻を飼いたい」と思ったとき、
生命のすばらしさを彼女の体が感じたのではないかと思うのです。
体を使って、思う存分、「こわい」蟻を退治し、
蟻が御飯を運ぶ姿に心を打たれ、
初めて「蟻は自分の敵ではない」と頭で思う。
これぞ、理事長先生の言う
「心で感じ、体を巡って、頭でわかる」
の実践だったのではないかと思います。
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うちの子たちを注意してくれたお利口ちゃんは、
言葉で「命の大切さ」を先に知ってしまいました。
頭ではわかっているのです。
いつ、彼女の心と体は、それを感じるのでしょうか。
命が大切なことなんて当たり前すぎて
命がどう大切なのか実感できないまま
大人になってしまうのかもしれない
なんて私は心配したりします。