地震や自然災害の多い日本に比べて、イギリスでは地学的・気候的に建造物が残り易く、幾世紀を経て今なお利用可能なものも少なくありません。
そのような歴史的建物の多くはナショナル・トラストなどによって管理されていますが、中には成人向け文化教室が開催されているものもあります。
その代表的ともいえるのがフラットフォード・ミル(Flatford Mill)です。イギリスの風景画家として知られるジョン・コンスタブル(John
Constable。1776-1837)の油彩画のモデルとなった建物で、それをとりまく建造物(なかには築600年のものもある)を利用して、いろいろなコースが催されています。
私が参加したのはエコロジー(生態学)のフィールドワークのコースでしたが、水彩画、森林の自然史などのコースが同時に行われていました。どのコースも野外で絵を描いたり近くの森をウォーキングをしたりといった、アウトドアでの活動を含んでいます。
私たちのフィールドワークは水棲昆虫を調べて池の生物の多様性のデータを出すというものでした。長靴を履き、網とバケツを持って池をさらっていると、童心に帰った気がしてウキウキしました(画像fm-03参照)。私たちのすぐそばでは、水彩画コースの女性がほがらかな陽光のなかで近隣の風景を描いていて、それぞれがそれぞれの興味の分野を楽しみながら追求しているといった雰囲気が流れていました。
生徒の宿泊場所は築400年の建物で、前述したコンスタブルの名作「The Hay-Wain」(画像fm-01参照)の実際のモデルになった建物です(現在の様子は画像fm-02を参照)。
さすがにむかしの建物なので、天井が非常に低く、背の高い人のために梁などにはスポンジがまかれていたり、窓から隙間風がはいったりしていました。歴史的建造物ゆえオリジナルの外観や間取の変更が厳しく禁じられているため、シャワーなどは近くに建設された別棟にありました。
ベッドもユースホステルのような極めて簡素なもので、しかも枕カバーと寝袋は各自持参しなければならず、きちんとベッドメーキングがされているベッドの枕に自分のカバーをかけ、マットレスと毛布のあいだに寝袋を入れてその中で寝る、ということになったのですが、これもベッドメーキングの人件費やリネン類の経費を節約しているのでしょう。それらが私たちのコース料にきちんと反映されていれば(そのぶん安くなっているなら)、納得できます。
しかしながら、築400年(ということは日本では江戸時代中期)の建物に泊まるのは、とても贅沢なことだなぁ、と思いました。何もかもが新しい新築の設備ならどこにでもありますが、築400年となると、極めて特別なことになります。天井の低さも、隙間風も、歴史の重みにすべて吹き飛んでしまいました。
さて食事のことですが、メインの建物(築400年とはいかないまでもかなり古い外観)の一階に60人ぐらい座れる食堂で朝食、夕食を食べました。素朴な木のテーブルとベンチが、なかなか魅力的な雰囲気を醸し出していて、イギリスならではのマズイ食事も苦になりませんでした。
昼食は、朝食後に食堂の隅に食パンやハム、チーズ、レタス、トマトなどが大皿に盛られて置かれ、朝食が終わった人から各自サンドイッチをつくる、というものでした。イギリス人のお昼に欠かせない小袋のポテトチップスと、リンゴやバナナ、大味のビスケット類、紙パックのジュースもありました。それらを、各自持参したタッパーにいれるか、タッパーを忘れた人は透明ビニール袋に一緒くたにぜんぶ入れて、ランチのできあがりです。この方法は、食べ物に好き嫌いや主義(ベジタリアンなど)のある受講者たちにとって有り難いですし、主催者側の人件費の削減にもなるなぁ、と思いました。
このコースの開催者はフィールド・スタディーズ・カウンシル(Field Studies
Council)といい、フラットフォード・ミルを含むイングランド12ヵ所の風光明媚な歴史的場所で、主に自然に関する次のようなコースを行っています:
− ウォーキングを通じた自然史のコース
− 野鳥観察、動物観察、昆虫観察
− 樹木観察、野草観察、キノコ・地衣類観察
− 生態学(エコロジー)、環境保全、環境関係の研修
− アウトドアスポーツとアウトドア指導者養成、ファーストエイド
− 子ども向けコース、親子向けコース
− 歴史学、考古学
− 絵画(油彩、水彩、スケッチなど)
− クラフト工芸、伝統工芸(バスケットづくりなど)
− 風景・ネイチャー写真
− その他(園芸、演劇、創作活動、自然の中での思索など)
週末コース(金曜夜〜日曜午後)は110ポンド(22,000円)前後、一週間コース(金曜〜金曜)は300ポンド(6万円)前後です。1日コースは25ポンド(5,000円)ぐらいです。
(パンフレットの画像についてはfmー04をご覧ください。)
フラットフォード・ミルのほか、画像fm-05のような場所でフィールド・スタディーズ・カウンシルは上記のようなコースを行っています。
歴史のある建物は、そこを利用し、泊まる人の心を豊かにするようです。また自然との交歓のなかで知的好奇心を満足させるコースは、お金で買うことが困難な、極めて贅沢なものだという感慨を持ちました。バブルを経験した私たちは、とうとう知的財産を身につけるというステージに来ているのかもしれません(ちなみにイギリスでは100年前にバブルのようなビクトリア時代と、それに続く斜陽の時代を経験しています)。
歴史的遺産や、文化的遺産、そして自然の潜在力の大きい日本では、同じようなコースが可能だと確信しています。西洋的な水彩画などのほかに、水墨画や俳句、古典鑑賞、茶道(野点)なども非常に贅沢な感じがします。もちろん、ウォーキングや地学、森林生態学、そして野生の動植物を身近に知るコースも大変魅力的で、日本の自然に対する深い理解につながり、豊かな人格形成に通じるとおもいます。廃校舎をこのようなコースの拠点として活用したら、自然の懐にいだかれた古い木造校舎に郷愁を持つ都市部の人々に対する強いアピールとなるに違いありません。
fm-01、 「The Hay-Wain」ジョン・コンスタブル(1776-1837)
fm-02、 コンスタブルの絵のモデルになった建物の現在の写真
fm-03、エコロジーのフィールドワークで水棲昆虫を調べた池
fm-04、フィールドワークのコース案内パンフレット
fm-05、各地におけるコース実施