越後毛利ゆかりの地

 昨年、八王子通大山道を歩いているとき、途中の厚木で毛利季光(すえみつ)ゆかりの地に立ち寄った。源頼朝の重臣大江広元の四男季光は、毛利家の祖として越後毛利や安芸毛利につながっている。
 おりしも、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に大江広元が登場しており、この機会に鎌倉、厚木、柏崎、吉田(広島県)の毛利家ゆかりの地を紡いでみる。
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 大江広元は、平安時代末期、朝廷の文官を務める下級貴族だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務めるなど幕府創設に貢献した。頼朝の死後も幕政を支え、承久の乱では京都への進撃を強く主張するなど、幕府方の勝利に貢献したことでも知られている。
 広元は、その功績により得た多くの領地のうちの相模国毛利荘(現在の厚木市、愛甲郡一帯)を四男季光に譲り、そこから季光が毛利を名乗るようになって毛利氏の祖となった。
 季光は、三代将軍の源実朝に仕え、評定衆を務める有力な御家人だったのだが、執権北条時頼と三浦泰村の対立から発生した宝治合戦で三浦方について敗れ、三浦一族とともに源頼朝ゆかりの法華堂で自刃した。
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<鎌倉>
 現在、鎌倉の源頼朝墓のある法華堂跡の近くに大江広元の墓があり、その左には広元の四男季光の墓、右に薩摩・島津家の祖忠久の墓が並んで建っている。これらは、江戸時代以降に島津氏及び毛利氏によって古墳時代の横穴墓を転用して造営されたものという。こうした横穴式の墓は「やぐら」と呼ばれる鎌倉独特のもの。


<相模国毛利庄>
 厚木の神奈川工科大学近くで大山道から少し外れたところに鎮座する日吉神社の社殿脇に三兜大神碑が祀られている。かつて、社殿の裏にあった老大樹が枯れてしまい、そこから毛利の3つの兜が出土したという。


また、そこから少し南の厚木市下古沢に鎮座する三島神社境内には「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。毛利季光屋敷は現在の三島神社の境内にあったと云われる。

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 宝治合戦で敗れた季光が、長男広光、二男光正、三男泰光とともに法華堂の露と消えたことで毛利家の命運は尽きたかのように見えたが、遠国の越後国佐橋荘にあって合戦に関わっていない季光の四男経光(つねみつ)には累が及ばず、越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)と安芸国吉田庄(広島県安芸高田市)の領有は安堵された。

 毛利の血を継いだ経光は、後に嫡男基親に佐橋庄北条(きたじょう)を、四男時親に佐橋庄南条(みなみじょう)と安芸国吉田庄を継がせている。

 時親は、南北朝時代に一族が敵味方に分かれるなどの紆余曲折を経たあと、佐橋庄から安芸国吉田荘へ拠点を移し、曽孫元春とともに安芸毛利氏の祖として西国での基盤を築いた。この系統が後の戦国大名毛利元就へと繋がっていく。
 一方、越後に残った越後毛利氏は北条を拠点に、やがて鵜川荘まで支配を広げ、北条・石曽根・善根・安田といった諸氏に分かれた。
 このうち、北条氏と安田氏はともに上杉家の家臣として活躍することとなるが、上杉謙信死後の後継をめぐる御館の乱(おだてのらん)で、勝利した景勝方についた安田氏と敗北した景虎方についた北条氏(北条高広)は、その後の歩む道を分けることとなる。
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<越後国佐橋荘>
 佐橋荘は現在の柏崎市の鯖石川と長鳥川の流域に広がる地域で、信越線の北条駅周辺になる。平安時代には荘園領地として栄えた地域であった。鎌倉時代から戦国時代の話の中で“北条“は”ほうじょう”と読むのが一般的だが、越後毛利については“きたじょう”と読むためちょっと紛らわしい。

 北条駅から南へ2kmほどの八石山を背にする南条の小高い丘に佐橋神社が鎮座している。神社境内と集落墓地などを含むエリアに、かつての毛利経光の南条館跡があったと伝えられている。

 


 一方、北条駅のすぐ西側の長鳥川を渡った小高い山に、毛利基親の子時元の築城と謂われる北条城跡がある。この山の麓の長鳥川に沿う道筋にはいくつもの寺が見られるが、このうちの専称寺は越後・北条家の菩提寺で、ここには北条城の大手門が移築されている。


 専称寺から大手道が延びているのに対し、搦手(からめて)門が移築されている普廣寺からは搦手道が延びている。

 長鳥川を渡って北条駅の方に向かう途中、諏訪神社がある。ここがかつての北条館跡となる。


 諏訪神社近くには古社御嶋石部(みしまいそべ)神社が鎮座している。元は八石山山麓の石部平にあったが、その後現在地に遷座したという。

 現在の北条駅のひとつ柏崎寄りに安田駅がある。鯖石川を挟んで右岸側にある北条城に対し左岸側の安田地区に安田毛利初代憲朝築城による安田城址がある。慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封時に廃城となり、現在は主郭部分がほぼ当時の地形のまま安田城址公園となっている。
 御館の乱で景勝方についた安田氏は、豊臣秀吉による上杉氏の会津移封後、関ヶ原合戦後は減封されて米沢に移った上杉氏に従い、以後米沢藩で越後毛利の血をつないだ。
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「放下 小説佐橋ノ庄」
 越後毛利については、史料も少なく判然としない部分があって、史実を辿っていると消化不良感が残る。その越後毛利を題材にし、世阿弥の謡曲『柏崎』に描かれた物語を重ねて、登場人物の心の中まで見るような人間味を感じさせるタッチで描いている歴史小説「放下 小説佐橋ノ庄」が実に面白い。

 謡曲『柏崎』は、越後柏崎の豪族柏崎勝長が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死、不遇に見舞われた妻子を巡るその後の流転の物語である。街道歩きで北国街道を旅した際、信濃善光寺と柏崎でこの謡曲にゆかりのものと巡りあった。
 柏崎勝長とその妻子については、柏崎の香積寺境内に墓碑と供養塔があり、由緒書きによれば越後毛利との直接的な関係性はまったく見えてこないのだが、当時の状況を鑑みると関係ありとみる方が自然であり、かねてからそのことがずっと頭に引っかかっていた。
謡曲『柏崎』については、 街道歩き/北国街道/善光寺~牟礼のページに詳しく記している。

 柏崎高校同窓で鎌倉在住の横村出(よこむらいずる)著「放下 小説佐橋ノ庄」では、毛利経光、基親、時元、時親のほか、執権北条時頼、光子(時頼の正室で宝治合戦後に離別した毛利季光の娘)など鎌倉ゆかりの人物および日蓮や柏崎勝長も登場し、鎌倉と柏崎を舞台に越後毛利を取り巻く出来事が実に見事な小説として描かれている。