2025年5月13日 粕壁~大宮
今回は、先頃、川越街道を一緒に歩いたOさんとふたたび一緒に歩く。
春日部駅を出るとすぐ北に日光街道が通り、古利根川が流れている。利根川東遷に代表される徳川家康江戸入府後の関東一帯にわたる大規模治水事業の名残が今回歩くルート上の随所にみられる。
粕壁
粕壁は2011年日光街道歩き旅で訪れて以来14年振り。日光街道の中でも比較的大きな宿場として栄えた粕壁宿は今でもかつての宿場町の面影が随所に残っている。大山道に入る前に日光街道沿いに残る蔵造りの商家などを眺めながら旧粕壁宿を散策する。粕壁宿では日光に近い方が上手、江戸に近い方が下手と呼ばれ、街道に沿って下手から順に三枚橋・新宿(本町)・中宿(仲町)・上宿(上町)と続き、上手の突当りは寺町(旭町)であった。
駅からまずは現かすかべ大通りの日光街道に出て、仲町の粕壁東一丁目交差点近くに行くと旧商家の東屋田村本店の前に大きな道標がある。
かつてはこの先の高札場のところにあったもので、江戸・日光・岩槻の方面が記されている。
店の横の路地を通って裏側の古利根川のほうに向かって行くと、路地に沿って屋敷塀がずっと続いていて往時の趣が感じられる。
ゆったり流れる古利根川を眺めているとなんとなく気分もゆったりしてくる。
川沿いをながらぶらぶら歩き、近代的な古利根公園橋のところで再び街道に戻ると左手には蔵屋敷がずっと続いている。
仲町辺りは米問屋などの蔵造りの商家や、旅籠屋などが多く立ち並んだエリアで、公園橋(西)交差点角の蔵造りの建物・田村荒物店には、かつての宿場の典型的な地割の特徴が残っている。
宿場税が正面の間口幅で決められていたため、商家は「ミセ」と呼ばれる正面の間口が狭い店舗空間を持ち、その奥に「オク」と呼ばれる生活空間が続くという形状になっていった。こうした地割は江戸時代の宿場町の典型的な特徴であり、北側に流れる大落古利根川沿いまで蔵を連ねて、そこで舟荷の上げ下げをおこなう店舗も多かったという。
日光街道を少し北西に進むと、慶長年間創業という米穀店永嶋庄兵衛商店の蔵造りのどっしりした建物が残っている。
そのすぐ先の新町橋(西)交差点が今回の府中通り大山道の起点。今は高層ビルが建っているところにかつて高札場があり、先ほど見た道標があった。日光街道はここで右折するが、岩槻道(府中通り大山道)はこの先の最勝院のところで左折する。
*この十字路は、明治22年の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。
高層ビルの向かいの黒壁の土蔵は、戦前まで米穀商を営んでいた浜島家住宅土蔵。黒漆喰塗の外壁や桟瓦葺屋根の鬼瓦に影盛を施すなど、関東地方の土蔵造りの特徴を良く示していて国登録有形文化財となっている。
粕壁宿の上手の端にあたる旭町エリアはかつての寺町で、今も多くの寺院が集まっていて往年の面影を残している。
日光街道の先の正面に見える最勝院には春日部重行の墓所がある。春日部重行は、南北朝時代に後醍醐天皇の南朝を支持して新田義貞に仕え、各地で武功を挙げた武将で春日部市の祖とされている。
東武伊勢崎線を越え、東部アーバンパークラインに沿うように進むとやがて長い参道の春日部八幡神社が見えてくる。
1331年頃、鶴岡八幡宮を敬信していた春日部重行が鶴岡八幡宮を勧請して造営。神社のある場所は、かつての春日部重行の館があったところといわれている。
昔は新方四十余郷の総鎮守で代々領主の守護神社であったが、現在は春日部の総鎮守となっている。
粕壁~岩槻
国道16号を新方袋(にいがたふくろ)交差点で渡り、右に緩やかにカーブする道をしばらく進むと左に曲がる角に「南無阿弥陀仏」と記された石仏に並んで道標がある。風化で文字は読み取れないが、「いわつき道」、「かすかべ道」、「ぢおんじ道」と記されているらしい。「ぢおんじ」は日光御成道を歩いた時に立ち寄った坂東三十三観音の第十二番札所慈恩寺のこと。
この先、田畑の中の道になるが要所にある道標が目印になる。ちなみに、ここをまっすぐ1kmほど行くと謡曲「隅田川」で知られる梅若丸伝説が伝えられる満蔵寺に至る。
ここで左に折れると田んぼの中の道になり、民家に突き当たって右折する所に道標がある。こちらも風化で文字は読み取れないが、「かすかべ道 十八丁/せきやと道 四里」「いわつき道 一り/しおんじ道」などと記されているらしい。
すぐ先、庚申塔が立つ角を左に曲がり、豊春中学校前を進んで行く。
<古隅田川>
豊春中学校の横を通っていくと前方に古隅田川の堤防跡が見えて来る。現在は古隅田公園という公園になっており、土手上に道標や供養塔が集められている。古隅田川は蛇行しながら春日部八幡神社の北を流れ、粕壁宿の北側で大落古利根川に合流している。
公園の先、民家が立ち並ぶ道を進むと「やじま橋」の説明版がかかる橋を渡る。やじま橋は元文2年(1737)岩槻藩主永井氏が架けた石橋だが川の改修の際近くに移設されている。古隅田川は、江戸時代の利根川や荒川の流路変更によって水量が少なくなり、今は小さな川となっている。
川を渡ると西側は遊水地となっており、旧道は消滅している。
このあと、2kmほど先の元荒川の方を目指してしばらくは東岩槻の町中を通っていく。
<元荒川>
やがて元荒川に出たら、土手道を歩いて少し上流の慈恩寺橋で元荒川を渡る。ゆったり流れる元荒川土手を歩いていると、往時の原風景を見るようで気持ちがよい。
かつては荒川の本流だったが、江戸時代に荒川が入間川に付けかえられた為、本流からは切り離された。
慈恩寺橋を渡ってほどなく日光御成道と府中通り大山道が合流。合流点にある地蔵堂の傍らの道標には「是より左ぢおんじ道」「是より右かすかべみち」と記されている。
岩槻宿の方から見る道しるべになる。
岩槻宿に向かって少し先右側に龍門寺参道入口が見える。岩槻藩の歴代藩主はしばしば代わっているがそのうちの大岡忠光の墓所がある。日光御成道を歩いた際立ち寄ったが、物静かな印象の寺であった。
岩槻
岩槻は2023年日光御成道を歩いてきたとき以来である。その際、岩槻城址や城下町内を色々見て回っていたので、今回は街道沿いの遷喬館、芳林寺などを見るにとどめ、先に進んだ。
遷喬館は寛政11年(1799)に岩槻藩士の儒学者児玉南柯(こだまなんか)が創設した私塾であり、文化年間に藩校となった。儒学を中心に講義が行われ、藩士の子弟たちがここで学んだ。
芳林寺には太田道灌像と太田道灌御霊廟がある。太田道灌は相州糟谷(神奈川県伊勢原)で謀殺され荼毘に付されたが、分骨されゆかりの地である岩槻にも埋葬された。
ここ岩槻では芳林寺のみならず岩槻人形博物館のところにも太田道灌像があった。
街道を進むと、浄国寺前を通る。浄国寺は岩槻城主太田氏房の発願によって天正15年に建立され、同19年寺領50石の朱印を受けた関東18壇林の一つとなった古刹である。この寺には岩槻藩主阿部家の墓所がある。
岩槻~大宮
市街地を抜け綾瀬川を渡ったらすぐ左の細い道に入る。新簀子橋交差点で国道16号を渡り、綾瀬川支流の深作川を渡るとほどなく県道65号線に合流する。合流点に東宮下道標が置かれており、ここから御成道は県道65号線を行き、府中通大山道は県道を横切ってやや狭い道を南西に進む。
しばらく歩くと見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)を渡る。
<見沼代用水東縁>
徳川吉宗の時代に、大宮、浦和の東側にあった見沼を埋め立てて新田開発を行った。沼がなくなり農業用水に困ったため、代わりに利根川から延々水を引いてきて造った農業用水。
日光御成道を歩いた際、ここより下流の見沼自然公園で井澤弥惣兵衛為永翁の銅像を見て、延々80kmにも及ぶ代用水をわずか5ヶ月で完成させたという偉業に驚いた。
このあとしばらくは住宅やマンションなどが建ち並ぶ大谷中通りを道なりに進んで行く。
蓮沼で県道を横切る手前、道が二股に分かれるところに鎮座する八雲神社の横に石塔群がある。
左端の馬頭観音は道標を兼ね、右面「この方 ふかさく はらいち みち」、左面「右 いわつき」「ひだり をふみや 大山道」と記されている。ふかさくは北のさいたま市見沼区深作、はらいちは北西の上尾市原市。中央は笠付の青面金剛像、右端は庚申塔の文字塔。
この後、県道を斜めに横切り、しばらくは大和田公園通りを進んで行く。
2km程行くと右手に広がる畑の向こうに大きな長屋門と屋敷林をもつ家が見える。 道路わきに立てられている説明版によると大和田村名主浅子家とある。
少し先にも同じように道路から奥の方に島村家長屋門が見えた。
大和田地区は建築工事や道路工事があちこちで進められていてやや雑然とした印象だが、広い畑地の奥に巨大な長屋門を構えた屋敷が複数見られるというのは珍しい。
しばらくすると左側は大和田公園となり、芝川を渡るとほどなく見沼代用水西縁に至る。
そこから左折して代用水と大宮公園に挟まれる形で新緑がまぶしく心地よい遊歩道を南に進む。
見沼代用水西縁に沿って進む途中、対岸(西側)の寿能(じゅのう)城跡の案内板が立っている。城主の潮田資忠は、後北条氏に従い小田原に馳せ参じたが嫡男と共に討ち死にし、寿能城も落城した。
見沼代用水西縁に沿って南下し、大宮第二公園の南端あたりで橋を渡って大宮公園のほうへ行くと大宮公園入口信号のところに大黒院がある。
大黒院は、足立が原に住む鬼婆を熊野那智山青岸渡寺の僧が法力で退治して葬った黒塚の場所と伝えられる。当初黒塚の傍らに建てられた東光院という庵は、大宮宿に移転して東光寺という寺となっている。
かつて奥の細道歩き旅で訪れた福島県二本松市の観世寺と黒塚に同じような鬼婆伝説があった。文字にするのをためらうようなおどろおどろしい伝説なのだが、「安達ヶ原・黒塚」として謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などで語りつがれている。
<武蔵一之宮氷川神社>
大宮公園入口信号のところから西の方が大宮公園でそこには武蔵一之宮氷川神社が鎮座する。
全国に多数ある氷川神社の総本社で、2400年以上の歴史をもつ古社。ここは中山道歩き旅で訪れて以来13年振り。
参拝後、三の鳥居を通り、参道を南下すると二の鳥居がある。そこから西の方に行くと大宮駅のほうに出る。二の鳥居からさらに参道を南下して行くとさいたま新都心駅前に一の鳥居が建ち、拝殿からは2km以上もある長い参道となっている。
二の鳥居を出たところから大宮駅の方に向かうと、先ほど見た黒塚の傍らに建てられのちに東光寺となった東光院がすぐ先の繁華街近くにあった。
そこからすぐの旧中山道に出るとほどなく大宮駅に至る。
大宮
大宮という地名は氷川神社が「大いなる宮居」と呼ばれたことに由来するほどに、大宮の歴史は氷川神社とともにあった。
中山道は、かつては氷川神社の参道の一部を経由していたが、寛永5年(1628)に一の鳥居から分岐する道が新たに開かれた。
門前町の大宮宿は江戸・日本橋から数えて中山道の4番目の宿場として栄えたが、今日の目を見張るような急速な発展は明治時代に上信越と東北への鉄道の分岐する駅が作られてからのことである。
府中通り大山道の旅一回目はここまでとし、いったん帰途に就いた。