大宮~久米川

2025年6月6日 大宮(与野)~久米川

今回は電車でのアクセスの都合がよい埼京線与野本町から再開する。
前回歩いた春日部~大宮では幕府主体の大掛かりな河川改修の名残が随所に見られたのに対し、今回の大宮~久米川では民間レベルの様々な水との戦いの痕跡や松平信綱による野火止用水が見られる。

与野~宗岡
与野本町からまずは県道254号線に向かう。駅に着いたのが8時ころだったため、駅に向かう通勤通学の若者たちで町は非常に活気があった。
県道に出て100m程で道は2つに分かれ、分岐点に庚申塔が建っている。

右の方に行くのが府中への道で、直進する方に行くと浦和で中山道に合流する。
分岐点で右のやや狭い道を進んで、再び広い県道に出ると、道の向こうに彩の国さいたま芸術劇場の大きな真新しい建物が目に入ってくる。かなり立派な施設で埼玉のエネルギーを感じた。

やがて首都高速埼玉大宮線をくぐると左側に石仏・石塔が並んでいる。 道路整備の都合で移設して集められたもののようだ。


このあたりまで来ても、自転車で行き交う通勤通学の若者たちが多くて活気がある。

しばらく歩くと埼玉大学に突き当たった所で国道463号に合流し右折していく。
すぐ先の鴨川に架かる浅間橋を渡ったところの交差点を右に少し行くと、千貫樋水郷公園がある。
千貫樋(せんがんぴ)というのは、洪水時に荒川から鴨川への逆流を防ぐための水門で、江戸時代には木造のものだったが、今残されている煉瓦水門は明治37年に建設されたもの。


千貫樋水郷公園で一休みしたあと、再び国道に戻るとすぐに荒川に架かる羽根倉橋を渡る。この橋は荒川とともに少し下流の調整池である彩湖を擁する実に広大な河川敷を一跨ぎする橋であり、歩いても歩いてもなかなか対岸にたどり着けないと思うほどの長さであった。

宗岡
羽根倉橋を渡ると志木市宗岡地区になる。宗岡は荒川と新河岸川に挟まれた輪中(わじゅう)で、洪水から村を守るためまわりを堤防で囲む総囲堤のかたちとなっていた。大正時代から行われた河川改修以前は、たびたび水害に見舞われたため様々な備えが作られている。
昭和13年に羽根倉橋が架けられるまでは、対岸との交通は渡船を用いていた。現在、往時を偲ぶものはないが、羽根倉橋の上流に渡船場があったという。また、ここには荒川を利用した河川交通の要地として河岸場も設けられていた。

羽根倉橋を渡ってすぐの羽根倉橋西信号で左に曲がって県道215号線を道なりに進む。
やがて、右に大仙寺がある上宗岡5丁目交差点で旧道は左折し、県道36号線を進むとほどなく国道254号を横切る。
少し先の右手、宗岡第四小学校の東側に、総囲堤内からの排水を新河岸川に排出した樋の1つの北美圦樋(きたみいりひ)の跡が残っている。


この先中宗岡1丁目交差点の突当りを右に行くと、新河岸川に架かるいろは橋東詰北側にいろは樋の鉄管が保存展示されている。

いろは樋(とい)は、引又から新河岸川に落ちていた野火止用水の余水を対岸の宗岡に引くために新河岸川に架けられたもの。江戸時代の寛文2年(1662)に設置されたものは長さ約260mの木樋で、舟運の妨げにならないように川の水面から約4.4mの高さに架け、サイフォンの原理で送水した。 水路橋の柱が48本あったのでいろはの文字数にちなんでいろは樋と呼ばれたという。
ここに展示されている鉄管は、明治31年から36年の工事で伏越(川の下をくぐり逆サイフォンで送水)の方式に変更された際に埋設された宗岡潜管と呼ばれるもの。

いろは橋を渡った右手には真新しくて明るいイメージの志木市役所があり、通りを挟んだ左手に旧村山快哉堂の建物が見える。

明治10年に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵で、平成7年に解体後、平成13年に現在のいろは親水公園に移築復元されたもの。村山家は代々志木市で薬の製造や販売を営んでいた。

旧村山快哉堂の裏手は、景色のひらけた広場が整備されている。市役所のあるこの一帯は、ちょうど新河岸川と柳瀬川が合流するところにあり、豊かな水に囲まれてきれいに整備された公園があってまことに心地よい場所となっている。小さな子供たちがのびのびと遊んでいたり、二つの川が合流する一帯の景色を眺める人などで、ここにいるとなにかゆったりした気分になれた。

引又
新河岸川と柳瀬川を渡ると旧引又村地区になる。今の本町は、江戸時代から昭和にかけて近隣の物資が集散する商業の町として栄えた。粕壁、与野から日野に抜ける脇街道に置かれた引又宿は、新河岸川舟運の引又河岸とともに、毎月催される六斎市で大いに賑わった。

柳瀬川を渡ってすぐの市場坂上交差点右手のポケットパークにはいろは樋の復元展示施設がある。さきほどいろは橋のところで見た鉄製の樋に代わる前の木製のいろは樋が復元されている。

市場坂上交差点左手の路地を入ったところにもいろは樋の大桝があり、その先に行くと引又河岸跡がある。
市場坂上交差点のところには旧西川家潜り門がある。

西川家は江戸時代初期にこの地に来住し、幕末には酒造行・水車行・日了承を営むかたわらで引又町の組頭役を務めた名家であった。

電柱が地中化され、きれいに整備されている本町通りを南に進むと、所々に古い建物も残っている。
明治20年創業の朝日屋原薬局は、建物7棟が国の有形文化財に登録されている。店の前に明治44年の道標が復元されたものがあり「与野町へ貮里六町壱間壱尺」などと記されている。


西川地蔵堂の先の本町3丁目交差点のところに上の水車跡の説明版と水車のモニュメントが置かれている。

江戸時代、野火止用水の流末に位置する引又宿には、上の水車、中の水車、河岸の水車(下の水車)と呼ばれる3台の水車があった。こうした水車はおもに玄米を精製するために使われ、精製された白米は引又宿内の宿屋、飲食店、酒造業者などで使用された。

引又~新座
本町通りを進んで行くとやがて志木駅に至る。
ちなみに志木駅は志木市ではなく新座市にある。

新座は最近歩いた川越街道で通ったところである。川越街道の野火止大門交差点には「平林禅寺」と刻まれた大きな寺号石標が建てられていた。平林寺はそこから1.5kmほどとちょっと遠いため、その時は寺への寄り道をあきらめ川越街道をそのまま進んだが、いつか平林寺には訪れたいと思っていた。
平林寺への道は府中通大山道とは少しばかり違っているがほぼ並行しているので、今回は訪れる絶好の機会である。

<平林寺>
平林寺は、南北朝時代の永和元年(1375)に岩槻城主・太田備中守によって開基され、その後、川越城主松平伊豆守信綱の遺志により寛文3年(1663)に現在地の野火止に移転した。
約13万坪の広大な境内林は武蔵野の面影を残す雑木林で、国の天然記念物に指定されている。寺の西側には信綱が玉川上水から分水することを許された野火止用水が流れている。
総門横から境内に一歩足を踏み込むと、総門から本堂までが一直線に並ぶ典型的な禅宗伽藍とその周囲は実に端正に整備された日本庭園のごとき景色が広がっていて息をのむ美しさである。

 

境内マップの順路に従い境内奥の方に足を進めると大河内松平家廟所がある。その面積が3000坪にもおよぶ大廟所で、松平信綱公をはじめとした松平家歴代の墓所が並ぶさまには圧倒される。

墓所後方に広がる境内林の中の散策路を歩くと、大きな自然に包まれて実にゆったりした気分になる。


新座 ~久米川
平林寺を出て大山道に戻る途中、たまたま野火止用水散策路案内板を見つけた。用水沿いに散策路が整備されていて、清瀬の方まで行けるようなので急遽この道を歩いてみることにした。
はじめは本流から分岐した平林寺堀に沿った道だが、やがて本流に沿った道になる。
散策路は、はじめは豊かな自然の中の遊歩道だが、やがて一般道の側道のような形となり、一部暗渠化されているところがあるものの、ずっと野火止用水の豊かな水の流れを横に感じながら歩く道となっている。

 

 


野火止用水散策路は清瀬までだが、その先も水道道、野火止用水道として久米川の方まで続いている。散策道ではなく車も通る一般道になるが、ずっと野火止用水の横を通る道が延々と続く。

 

 


野火止通りはまだまだ続くが、そろそろ久米川が近くなったので、恩田稲荷神社のところで本来の大山道に戻ることにした。
街道に戻ってすぐの住宅街の道路わきに宝暦9年(1759)と記される庚申塔が置かれていた。


ほどなく新青梅街道を横断し、西武新宿線の久米川駅に出る。つい先ほどまで野火止用水の横を通るややのどかさのある道を歩き続けてきたため、駅周辺の景色を前にして急に都会に戻ったような錯覚を覚え、浦島太郎になった気分だ。

街道はこの先で府中街道(鎌倉街道上道)に出て左折し、南下する。
今回はここまでとし久米川駅から帰途に就いた。
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天気予報ではこの日の気温が30度に迫る高さで少し躊躇したが、湿度が50%を切る予想だったので出かけることにした。結果的には気温の割には結構快適に歩くことができ、梅雨入り前のコンディションとしてはまずまずであった。

今回歩いたルートについてはほとんど予備知識もなく歩いたのだが、事後的に色々調べたことを含めると、結果的には思いのほか見聞を広めることができて充実した旅になった。旧街道歩きでしばしば見るような城跡や戦の跡などの歴史上の名所旧跡などはあまりないが、どちらかというと各地域の水との闘い、生活に密着した遺構などが随所に見られる歩きであった。

出発点の与野は、中山道からすこし離れており、明治以降は鉄道開業などで大きく発展した大宮と県庁がおかれた浦和に挟まれて影が薄い存在だが、明治時代初期までは大宮、浦和とまちの規模はほぼ同じだったという。
近年の「さいたま新都心」エリアは合併前の3市にまたがっているため、再び与野も賑わいを見せるようになってきているようだ。

志木といえば慶応志木高のあるところということしか知らなかった。比較的歴史の浅い地域ではあるが、今回、室岡、引又をきょろきょろしながら歩いて様々な面を知るにつけ、大変魅力的な街だと認識を新たにした。

当初からぜひ寄り道したいと思っていた平林寺は、さすがに一度は訪ねてみるべきところと言われるだけのものがあった。
平日のせいか訪れる人がほとんどない中、たまたま総門横の受付で十数人のインバウンド客グループと出会った。皮肉なことにインバウンド客が訪れるところは、一見の価値ある所にまず間違いない。

平林寺を訪れた後歩いた野火止用水沿いの道はもともとルートとして予定していなかった。だが、今回辿った地域は多かれ少なかれこの用水の恩恵を受けて発展してきた姿を目にして、広く住民に寄り添った松平信綱公の功績が大きかったことをあらためて再認識するとともに、昔の人は大変な苦労を乗り越えてきたのだなと認識を新たにした。
昭和になって宅地開発などにより一時荒廃したが、地元住民・関連自治体など中心に復元・復活活動が行われ、今日までこの素晴らしい用水が残されている。将来も貴重な遺産として残し続けてほしいものである。