リバーダンスとは  リバーダンス辞典  アイリッシュな人達





リバーダンスとは。 

 リバーダンスの始まりは、アイルランドがホスト役をつとめた1994年ユーロビジョン音楽祭において、その幕間の7分間のパフォーマンス作品として、発表されたものでした。

 プリンシパルダンサーに、タップダンサーのマイケル・フラットレーとジーン・バトラー、作曲にビル・ウィーランを迎え、幾重ものラインダンスを表現したかったという作品は、そのケルト音楽をモチーフとする情熱的な音楽と、30人のダンサーの息をもつかせぬ迫力の踊りにより、ヨーロッパ中の視聴者に大きな衝撃を与えることとなりました。観客は総立ち、ものすごい拍手と歓声が会場を包みました。その噂は、番組を見ていなかった人々にも広まり、リバーダンスを見たいという要望が後を絶たなかったそうです。

 放送日前日に発売されたシングル「リバーダンス」は飛ぶように売れ、初登場1位からその後18週トップを占めることとなりました。この大ヒットをきっかけに、アイルランドの伝統の更なる発展と他文化への影響を題材とした、2幕2時間のショーに拡大されることとなりました。

 わずか7分間のイベントを、2時間のショーにしようというその試みは簡単なものではありませんでした。アイルランドの伝統的音楽とダンスに、フラメンコの踊り、東欧の民族舞踊、黒人ダンサーのタップダンスなど、さまざまな文化の融合を表現した作品として、1995年2月、ついにリバーダンスのダブリン公演がスタートしました。

 1995年2月9日、アイルランドの首都ダブリンにあるポイントシアターで、リバーダンスの初回公演が開演しました。2500人収容の劇場で、5週間にわたり行なわれた公演は、前売りの段階でチケットが完売するという、アイルランドでは前代未聞の興行成績を挙げることとなりました。

 引き続き同年6月、ロンドン・アポロシアターで上演されました。追加公演を含め、計31日の公演のチケットはすべて完売、これがきっかけで、アイルランドのメディアにも、取り上げられることが多くなりました。

 同年9月、2度目のダブリン公演の直前、リバーダンスの存続を揺るがす大事件が起こりました。トップダンサーであるマイケル・フラットレーが、振付けの権利などを求めて契約交渉が決裂し、突如リバーダンスを脱退してしまったのです。代役は、コリン・ダンが務めることになりました。

 そして1996年春、リバーダンスはいよいよニューヨークへ進出します。ニューヨークにある、非常に有名なラジオシティ・ミュージックホールで1週間にわたる公演を行ない、6000人の聴衆の拍手喝采を浴びることとなりました。(この時の公演はビデオ・DVD化されており、私がリバーダンスにはまりまくるきっかけとなりました。^^)

 1997年2月、リバーダンスは第39回グラミー賞の最優秀ミュージカル・ショウ・アルバムを獲得しました。授賞式で披露されたキャストによるパフォーマンスを見られた方も多いことと思います。

 1999年3月、待望の日本公演が東京・大阪で行なわれました。その後日本でもアイルランド音楽やケルト文化への関心が急速に高まり、アイリッシュのミュージシャン達も続々と来日するようになっています。

 2000年、11/19〜12/17の約1ヶ月間、東京(東京国際フォーラム)・福岡(マリンメッセ福岡)・名古屋(名古屋レインボーホール)・大阪(大阪城ホール)の順で、第2回の日本公演が行なわれました。一部では、チケット発売後、5分で完売する席もあったそうです。


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