2019年4月 4日 八王子~鑓水峠
2019年3月27日 鑓水峠~町田
今回の浜街道歩きは、まず初めに鑓水峠の絹の道資料館を訪れ、鑓水峠から町田まで歩くことから始めたため、起点の八王子から鑓水峠の区間が後回しになった。結果的に、史跡・絹の道の区間を一週間ほどの間に三度も歩くなど、紛らわしいので、このページでは八王子から町田まで順に歩いたように一部編集して記述する。
-----------------------------------------------------------------------------
八王子~鑓水峠
この日は、桜も咲きほころび、実にいい陽気で、絶好の歩き旅日和となった。
八王子駅から少し行った甲州街道と国道16号が交差するところに八王子道路原標がある。浜街道はここを起点に、国道16号を南に向かって行く。
少し行った寺町あたりは寺が多いところだが、国道に面したところには見当たらず、街道から少し入ったところにある観音寺に寄ってみた。山門は千人同心の千人頭旗本中村左京の屋敷門を移築したものという。さすがに千人同心の街八王子である。
街道(国道16号)に戻って黄金橋を渡り、その先の子安町交差点を過ぎると下り坂となる。
京王線の下をくぐり、湯殿川に架かる住吉橋の上から右手を見ると、片倉城跡公園の桜が目に入ってきた。公園は、花見を楽しむ家族連れで賑わっている。
片倉城は室町時代に築かれ、戦国時代には北条氏の支配下にあったといわれているが、詳しいことははっきりしていないらしい。山頂の本丸裏に鎮座している住吉神社は片倉城主・永井大善大夫道弘が応安5年(1372)に、城の鎮守として摂津国・住吉大社を勧請したもので、慶安年間(1648-1651)には江戸幕府から社領7石の御朱印状を拝領している。
街道に戻り、JR横浜線のガード下を通り兵衛川を渡って慈眼寺(じげんじ)へ向かう途中、交差点の片隅に水神がポツンと置かれていた。
慈眼寺の参道入口に立つ道標の正面には「板橋より壹丁参道」、側面には「至ヤリ水村」「至子安村」と刻まれている。参道を進んで行くと2階建で朱色も鮮やかな仁王門が迎えてくれる。
左手には六地蔵と百万遍供養塔が祀られ、創建は文安2年(1445)頃という古刹である。
参道を出て街道に戻るとすぐのところに小さな祠の白山神社がある。 この先、比較的新しい家が立ち並ぶ住宅地の中の長く緩い上り坂を淡々と進んで行く。片倉台小学校前を通り、さらに上り坂を行くと、国道16号八王子バイパスの上を跨ぐ。そこから、右手の住宅地沿いの側道を進むと、突き当りの手前左手に長い上り階段が目に入ってくる。鑓水峠はこの階段の先になる。
階段を上りきると、目の前に絹の道と記された道標が立っており、振り返ると、八王子市街が一望される眺望が広がっている。道標が示す右方向に進むその左手が道了堂跡のある大塚山公園である。前回、絹の道記念館に寄った後、一旦ここまで来てから同じ道を戻って町田に向かっていた。
<大塚山公園>
大塚山公園入口に至ると、正面の石段左に高さ約2m程の絹の道碑が立っている。
石段を上がると、かつて道了堂の境内だったところが公園となっている。道了堂は遣水永泉寺の別院として明治6年鑓水商人により、東京花川戸から堂宇を移築して創建された。最盛期には大変な賑わいを見せていたが、絹の道の衰退に伴い道了堂も衰え、昭和58年に解体撤去された。その後、史跡・絹の道整備に伴って大塚山公園として整備され、道了堂の礎石、延命児育地蔵や石燈籠などがひっそりと残っている。
今は樹林に囲まれて往時のような眺望は望めないが、地蔵の後ろの樹林の途切れている間から、わずかながら富士山が見えた。
大塚山公園入口の絹の道碑から峠道を下った御殿橋までの区間が八王子市指定史跡・絹の道で、特に昔の面影を残す未舗装部分は歴史の道100選(文化庁)で都内唯一選定されている。
峠道を下って、鑓水三叉路に至ると、分岐点には庚申塚など3基の石塔が並んでいる。
三叉路分岐から少し下るとすぐに黒塀で囲まれた絹の道資料館が見えてくる。
<絹の道資料館>
絹の道資料館は平成2年に開館した施設で、もとは鑓水の村名主で豪商としても知られる八木下要右衛門の屋敷跡である。
黒塀の見事な石垣は当時の石垣をそのまま使っているという。資料館には、生糸貿易で財を成した鑓水商人に関する資料を中心に、幕末から明治初期にかけての生糸貿易や鑓水の歴史などに関する展示がされている。
ちなみに、前回ここに来たときは、JR横浜線橋本駅から南大沢駅行きの京王バスに乗り、その名も「絹の道入口」というバス停で降りたらすぐであった。
資料館~嫁入橋
絹の道はこのまま御殿橋の方に下って行くのだが、資料館の方の勧めもあって、このあと資料館前を右に行ったところにある諏訪神社に寄ってみた。
諏訪神社は鑓水の氏神で、寛永11年(1634)に創建され、明治9年に子の権現と諏訪・八幡の2社が合祀され、諏訪三社宮となった。往時には、鑓水商人たちが競って寄進をし、その名残が石燈籠などに残っている。
諏訪神社からのどかな道を歩いて行くと、大栗川に架かる御殿橋が見えてくる。御殿橋のすぐ手前左手に八王子道道標が立っており、道標の正面に「此方 八王子」、側面に「此方 はし本 津久井 大山」「此方 はら町田 神奈川 ふじさわ」とある。この道標は、生糸を横浜港へ運ぶ時の道標として慶応元年(1865)に建てられた。
八王子道道標のところから大栗川に沿って左に進み、少し先の嫁入橋手前で左に折れて行くと永泉寺がある。永泉寺本堂は、明治17年に火事で焼けたため、現在の絹の道資料館が建つところにあった八木下家の母屋を移築したもの。明治維新後、本堂に鑓水学舎が創立され、俳句教育が盛んに行われたこともあって、境内に芭蕉堂や芭蕉句碑が建てられている。
嫁入橋~町田街道・田畑
永泉寺を出て大栗川へ戻り、嫁入橋を渡る。浜街道は、ここから柚木街道を渡って板木谷戸地区へ入っていく。
板木谷戸道に入るとすぐ右手に茅葺入母屋造りの小泉家屋敷が目に入る。多摩南西部丘陵地帯に旧来から見られる典型的な民家建築の様式であり、東京都の有形民族文化財として指定されている。ここは現在も個人の住宅として使用されている。
緩やかなカーブの坂道を上って行くと、鑓水板木の杜緑地の説明板があり、この地にアイヌ民族が住んでいたということや鑓水の地名由来、緑地の尾根道は鎌倉街道が通っていた、ということが記されている。
車道を渡り、広大な造成地の中の緩やかな上り坂に入る。左手の鑓水中学校に沿ってゆったりした歩道を進むと、やがて左に鑓水公園が広がる見晴らしのいい丘の上に出る。
穂成田歩道橋を渡り、閑静な街路を道なりに行くと、やがて鑓水小山給水所の給水塔横に来る。このあたりに浜見場という小高い丘があり、昔はそこから横浜の海が望めたという。
給水塔の脇を通り、町田街道に向って田端坂という坂を下りて行く。
町田街道に出るすぐ手前に田端環状積石遺跡の案内板があったので、左折して寄り道した。
田端環状積石遺構は、縄文後期から晩期にかけての代表的な祭祀遺跡とされ、環状積石(ストーンサークル)や大規模な集落も発見されている。
町田街道・田畑~小山~上宿
浜街道は、京王相模原線の高架をくぐり、福生寺のあたりで一旦町田街道に合流するが、すぐに片所バス停の先で脇道の旧道に入る。旧道に入るとすぐの角に常夜燈と石仏がひっそりと置かれていた。
この先も浜街道は町田街道と脇道の旧道を小刻みに出入りしながら進んで行く。町田街道は幹線道路として交通量も多く、往時の趣を感じるものはほとんどないが、一歩脇道に入った旧道には、ところどころに石仏や常夜燈などが置かれていたりして往時の面影が残っている。
一旦町田街道に合流した旧道は、すぐに御嶽神社近くの小山駐在所の先で旧道に入って行く。広い道の先の四つ辻の右角には慶応元年の大きな石燈籠が建ち、左角には供養塔、太子塔が建っている。
この先、しばらくは旧道を進み、小山郵便局あたりで町田街道と合流する。ここは珍しく現町田街道に面して中村地蔵尊という地蔵群が見える。最初に建立されたのは宝暦6年(1756)で、以降、明和、安永、天明と続けて建立されている。その横には庚申塔・道祖神などの石塔群も。
地蔵尊から常磐バス停までは町田街道を淡々と進み、常磐駐在所北信号のところで大きく右手へ曲って桜美林大学キャンパスが広がるところを通る。
上宿~滝の沢
上宿交差点で町田街道と別れ、右折して旧木曽宿を進んで行くが、大きな屋敷が残っているなど、落ち着いた旧道の雰囲気が感じられる。
しばらく歩いていくと、上の地蔵さんと地元で親しまれたお地蔵さんがある。その隣は貞享2年(1685)に遠州秋葉山三尺坊から勧請したという秋葉神社だが、境内に樹齢400年あまりの欅が立っている。すぐ隣の福昌寺は、元和3年(1617)に徳川家康の遺櫃を久能山から日光東照宮へ移送の折り、休息所となった寺である。
旧道を進んで行くと、やがて変則的な四つ辻へ出る。
この四つ辻をちょっと右折して30mほど行くと、右手に木曽一里塚跡が残っている。
元和3年(1617)徳川家康の遺櫃が駿河久能山から日光東照宮へ移された際、東海道平塚から厚木、座間、木曽、小野路、府中を通ったことから、後にこの道は御尊櫃御成道と呼ばれるようになったという。
四つ辻には覚円坊というお堂があり、木曽の観音様として古くから親しまれてきたという。
旧道側のフェンスのところには小さな祠の中に庚申塔があった。また、旧道を少し行った丁字路の角に、下の地蔵さんが祠の中に佇んでいた。
滝の沢~原町田
旧道は、木曽交番あたりで町田街道と合流するが、滝の沢交差点で再び町田街道と分かれ、右の方に行く。
しばらくして森野交差点を過ぎ、町田駅方向へ進んでいくと、やがて小田急線の踏切を渡る。
踏切を渡るとすぐ、小田急線町田駅前の広場に絹乃道の碑が立てられている。側面に「此の方よこはま」、「此の方はちおゝじ」と刻まれている。
このあたりから、成瀬街道が分岐する三塚辺りまでが原町田といわれ、浜街道沿いの集落としては最大のものであった。
今も、この周辺はいつも大変な賑わいである。
本日はここまでとし、小田急で帰宅。