町田~横浜

2019年3月27日 町田~西谷
前々日、鑓水峠から町田まで歩いた勢いで、次は町田から一気に横浜を目指すつもりでいたが、少しのんびりしすぎて家を出るのが遅れたため、横浜まで二回に分けて歩くこととした。
まずは、我が家から近い小田急線町田駅前の絹の道碑のところから再開する。

町田~亀甲山
いつものように賑わいを見せる商店街を進んで行くと、町田商工会議所手前に原町田七福神の福禄寿と並んで二・六の市碑が立っている。


原町田と本町田のそれぞれで開催されていた市が、文政・天保年間(1818~1843)には二・六の市となって月6回開かれて、今日の原町田商店街繁栄の礎を築いたのだという。

この先、三塚(さづか)交差点で再び町田街道と合流したら、しばらく淡々と進んで行くと、やがて街道は国道246号を横切る町田市辻交差点のところに至る。ここは、かつて浜街道(絹の道)と矢倉沢往還が交差したところで、町田辻といわれた。
国道を横切る前に、旧道から左へ少し外れて行くと、郵便局のところに町田道祖神が置かれており、そこから国道を横切って反対側に少し行ったところには辻地蔵と横浜道祖神が置かれている。


この辻地蔵は、元々は浜街道と矢倉沢往還の交差する町田市辻にあったのだが、国道工事で現在地へ移転したもの。この周辺は国道246号立体化、国道16号立体化などの大規模工事により景色がすっかり変わっている。

町田市辻に戻ってやや細い旧道をまっすぐ進むと、東名高速の横浜町田ICにぶつかってしまう。
この先はいったいどうなっているのか全く見当がつかないところだが、正面のランプ下の小さなトンネルをくぐり、いくつかの階段とトンネルを上ったり下ったりしながら進んで行くと、いつの間にかインターの向こうに抜け出て行くことができた。ここは、あまりにも構造が複雑で、詳細説明は難しい。
たまたま数日前に、ここ数年続いた立体化工事の一環で、保土ヶ谷バイパス高架と東名ICを直接つなぐ最後の工事が完成していた。そうでなければ、少し手前で国道16号を渡った万葉の湯の方に行き、かなり大回りして巨大な迷路のようなルートをとらなければならないところだった。
なんとかかんとか、ICを越えて保土ヶ谷バイパス下の国道16号に出たら、しばらくはそのままバイパス下の国道を進み、川井浄水場裏交差点を通り過ぎて、川井浄水場入口信号で左に進むと、ようやく旧道になる。

亀甲山~西谷
やがてバイパスの上川井ICに近い亀甲山(かめのこやま)交差点のところで、八王子街道に接近するが、そのまま左の旧道を進んで行く。
すぐ先の若葉台団地入口交差点で左の方を見ると、谷を横断するような水路橋が見える。これは大貫谷戸水路橋といい、相模湖系原水を川井浄水場を経て西谷浄水場まで運ぶちょっと珍しい導水路の一部である。


少し行くと、左手奥の高台に長源寺があり、参道脇に舟形光背の六地蔵が並んでいる。永長元年(1096)、源義家が奥州征伐時の祈願達成のお礼に鎧を奉納されたと伝えられている。

ほどなく宮ノ下交差点で国道16号(八王子街道)にぶつかるが、左手の神明神社はおよそ700~800年前から旧小机領川井郷の総鎮守であった。


このあと、神明神社の裏手へ出て、丘の中腹の道を歩いていく。旧道の趣が残る道の途中に小さな祠にお地蔵さんが祀られている。岩船地蔵といい、享保10年(1725)の建立で、全国的な大飢饉の時、老人や子どもを守るために建立されたという。
この先も、落ち着いた雰囲気の屋敷や石仏などがところどころに見られ、丘の中腹を行くこの旧道には往時の雰囲気が感じられる。

川井宿あたりからは水道道に入り、やがて中原街道と交差する。中原街道は、東海道ができてからは脇街道となったが、江戸から平塚まで至る古くからあった重要な道路で、天正18年(1590)に徳川家康が江戸入りする際にも通っている。中原街道を少し左のほうに行ったところには、都筑郡役所創設之跡碑、日蓮大菩薩塔、庚申塔道標といった石碑類が立ち並んでいる。
元に戻って中原街道を横切ると、ほどなく築池交差点で国道16号に合流するが、すぐ先の今宿西交差点で再び左の旧道へ入って行く。
この旧道入口には立派な屋敷門と蔵のある旧家が見られ、すぐ先の大きな屋敷の片隅に地蔵が大事そうに置かれている。右が寛文9年(1669)、左が宝暦8年(1758)の造立になる。


少し先には、小さな祠の中に双体道祖神がおかれている。双体道祖神は信州地方ではよく見かけるが、関東地方では大変珍しい。


旧道は再び国道16号に合流するが、すぐ先の鶴ヶ峰本町信号で再び左の旧道に入る。

<鶴ヶ峰・畠山重忠所縁の地>
少し行った三叉路を左に入って行くとすぐに左に曲がる角に三体の石仏が安置された祠と「史跡六ツ塚 重忠公霊堂」の案内板がある。ここを左に行くと、薬王寺と六ツ塚がある。源頼朝の信頼厚い重臣だった畠山重忠は、頼朝の没後の元久2年(1205)、実権を握った執権・北条時政の謀略により、北条義時の大軍に敗れ、ここに一族郎党134騎とともに葬られている。


薬王寺から鶴ヶ峰浄水場の方に行くと駕籠塚がある。畠山重忠公合戦の報を聞いた内室の菊の前は急ぎ駆けつけたが、この地で重忠戦死を聞き、悲しみのあまり自害し、その場所に駕籠ごと埋葬されたのだという。


ここから坂を下って一旦国道を渡った水道道と帷子川(かたびらがわ)が交わる鶴ヶ峰駅入口交差点のところには、畠山重忠公碑とさかさ矢竹の説明板が置かれている。


「武士の鑑」と讃えられ、数々の伝説によりその名を語り継がれている畠山重忠は、ここ鶴ヶ峰で非業の最期を遂げた。この周辺には重忠ゆかりの史跡が多数ある。
ちなみに、その重忠が生まれ育った武蔵国男衾郡畠山郷(現埼玉県深谷市畠山)の畠山館(はたけやまのたち)跡は、現在史跡公園として整備されている。また、重忠がこの二俣川の戦いに出た時の居館は、現比企郡嵐山町菅谷の菅谷館跡と謂われ、すぐ近くを鎌倉街道(上道)が通っている。

国道に戻って少し進んだ白根交差点は、南北に延びる鎌倉街道(中道)と旧八王子街道が交差しているところである。交差点からすぐの路地入り口に「鶴ヶ峰坂」と記された標柱が建てられており、旧八王子街道の難所であったというこの急坂は、鶴ヶ峰浄水場の方に向かって上っていく。

この先、国道をしばらく歩くと、愛宕交差点のところに不動道入口の標柱と道しるべ不動が立っている。


ここは白根不動尊への参道入口で、この道を入って行くと白糸の滝や白根神社があるのだが、今回はこのまま国道を進んだ。

しばらく行くと、西谷町第二歩道橋の先の真新しい相鉄線の路線橋を渡る。渡ってすぐに新幹線の高架をくぐり、西谷商店街に入ると、左手奥のマンション入口に西谷不動尊明王が鎮座している。石造りのお不動様は寛永3年(1791)造立で、泥棒が多発した村内の泥棒除けとして祀られたものだというが、真新しいお堂の中に納められて大事にされている。


今回はここまでとし、西谷駅から帰宅。
上川井で八王子街道に出てからは、何度も脇道に出入りしながら、この八王子街道を歩いて来た。思った以上に、脇道がかなりの部分残っており、往時の遺構などが残る旧街道を歩くことができた。
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2019年4月5日 西谷~横浜
いよいよ浜街道の残り区間を歩く。

西谷~芝生の追分
西谷駅を出て大六天通りを進み、郵便局手前で左の路地を進んで行くと、やがて国道16号を渡ったところに妙福寺がある。


妙福寺の先から左に上る細い道が旧八王子街道で、細い上り坂の入り口左に元禄10年(1697)の建立という庚申塔がひっそりと置かれている。


道成りにしばらく行くと舟形観音の後ろに寛政3年(1791)建立の堅牢地神があった。道標を兼ねており、側面に「左神奈川」「右八王子」と刻まれている。


その先、左手に正観寺がある。寺史によると、後北条家家臣小机衆として勢力のあった矢上城(現在の日吉)城主中田加賀守の菩提の為、創建されたという。境内に上ると、石段下左手に開運弁才天、豊川稲荷が祀られており、石段の上の観音堂の背後には釈迦牟尼仏が坐っている。


正観寺のすぐ先に立っている真新しい旧八王子道道標には「至 八王子」「至 保土ヶ谷 鎌倉道」 とある。この先しばらく行った芝生の追分近くで旧八王子道は鎌倉街道下道と交差している。

ちょっと先の路傍にはかなり古びた庚申塔がポツンとあった。


旧道はこの先で環状2号道路に突き当り、行き止まりとなっているので回り道して向う側へ渡る。
その先で国道へ合流するとすぐに杉山神社が鎮座する。

武蔵国都筑郡唯一の式内社という古社である。鳥居脇にある堅牢地神宮碑は寛政4年(1792)の建立になる。

この先、神社境内の右側を通り抜けて進むと旧道に入り、少し先で国道に合流する。その先の国道脇の駐車場のようなところにひっそりと双体道祖神・庚申塔・堅牢地神塔が佇んでいる。たまたま今宿でも見かけたが、関東地方で双体道祖神を見かけるのは珍しい。


国道16号を進み、相鉄線上星川駅の先の歩道橋のところに和田村道橋改修碑がある。鶴ヶ峰で見た白根村道橋改修碑と同一人物の櫻井茂左衛門が資金を提供して和田村及び隣村の川島村民の協力を得て、道を改修し、橋を架け、往来の難儀を救ったという。

たまたまこの日は、この近くの保土ヶ谷中学の入学式があるようで、多くの親子連れがきらきらと輝いて見えた。見ているこちらまで、なんとなくウキウキしてくる。

しばらく淡々と国道を歩き、宮田2丁目交差点まできたら左に曲がっていく。
左の道に入ると、すぐの所にあったのは延命地蔵堂。その昔、行き倒れの旅人の供養と、旅人の安全を祈願して建立された地蔵尊だとも云われている。


その先の道路際の祠の中に庚申塔があった。かなり風化が進んでいるが真新しい花が手向けられ、水桶も置かれてきれいにされている。私が通りがかった時にも、ご近所の方が手を合わせていた。


芝生(しぼう)の追分~吉田橋
すぐ先で丁字路に突き当たるが、ここが芝生(しぼう)の追分で、旧東海道と八王子道の分岐点である。標柱の説明書きには『八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政6年(1859)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、絹の道とも呼ばれています。』とある。八王子から運ばれた生糸はこの先、東海道と横浜道を通って関内に行き、製糸検査所を通って横浜港へと運ばれていった。

ここから旧東海道を江戸方向へしばらく行くと、石段を上った先に浅間神社が鎮座している。承歴4年(1080)に富士浅間神社の分霊を勧請して創祀したと云われ、源頼朝が文治元年(1185)に平家討滅の戦勝奉賽で社殿を修築したと伝えられている。


浅間神社から街道に戻り、浅間下交差点を横浜駅方向へ渡るとすぐに東海道から分かれて右へ曲がる道がある。この道が横浜道で、幕末の横浜開港に際して、東海道と横浜港を結ぶために造られた。街道には新田間・平沼・石崎(現・敷島橋)の三つの橋を架け、戸部坂・野毛坂の切通しを開き、さらに野毛橋(現・都橋)・太田橋(現・吉田橋)を架けている。そして、現・馬車道付近を通って横浜港に至る道とした。

新田間橋(あらたまはし)を渡り、少し行くと東海道線・相鉄線を跨ぐ巨大な平沼橋が見えるが、横浜道はその右脇の側道を進んで行く。ほどなく帷子川に架かる元平沼橋を渡ると、線路脇に浮世絵が描かれた案内板が置かれている。


この橋は、もとは平沼橋という名称だったが、昭和3年に新設された東海道線を跨ぐ橋を平沼橋と命名したため、こちらが元平沼橋となった。かつては、元平沼橋を渡り踏切を横断して平沼商店街へ入っていったのだが、今は踏切がなくなって先へは行けないため、ひとまず元平沼橋を戻った。すると、平沼橋上の歩道に出るためのエレベーターが設けられており、これで平沼橋上の歩道を歩いて川の向う側へ行き、そこで向う側のエレベーターを下りられるようになっている。両方のエレベーターの出入口には、ご丁寧に横浜道の碑が置かれていた。最初は予想外のこの仕掛けに気付かず、しばしうろついてしまった。
ともあれ、渡った先の平沼商店街は、横浜道沿いに発展したもので、かつては大変な賑わいだったという。

商店街の真っ直ぐな道を進み、3番目の敷島橋を渡る。川辺の桜がなかなかきれい。


しばらくは道なりに淡々と進んで行く。やがて左手に掃部山公園が見えるようになって坂を上り切ると、そこは横浜道・保土ヶ谷道分岐になっている。ここは、ひと月ほど前に保土ヶ谷道を歩いた際来たところで、左側から来る坂道は紅葉坂で、保土ヶ谷道は右に行く。横浜道は分岐の交差点をそのまま越えて、その先の野毛の切通しを下って行く。
野毛の切通しを通って野毛坂交差点まで来たら左に曲がり、野毛坂通りを下って大岡川に架かる都橋を渡る。初代の橋は安政6年(1859)に架けられ野毛橋と呼ばれたが、後に架け替えられたとき都橋と改められている。

都橋を渡り数分、伊勢佐木町入口交差点を右に曲がると伊勢佐木町商店街だが、ここを左に曲がると吉田橋の上に出る。安政6年(1859)に仮橋の太田橋が架けられたのだが、馬車が通るのに難儀するという粗末な橋だったため、3年後の文久2年(1861)に本格的な橋に架け替えられ、この時から吉田橋と呼ばれるようになった。橋の上に吉田橋関門跡碑が建てられている。


吉田橋ができたことで人の往来が盛んになり、その治安を守るため関門が設けられた。当時、この先の馬車道側を関内、伊勢佐木町側を関外と呼んでいた。その名残がJR関内駅に残されている。
吉田橋を渡った先が馬車道で、外国人居留地となった関内を外国人は馬車で行き交うようになったため馬車道と呼ばれるようになった。

吉田橋~象の鼻
馬車道を進んで行くとひときわ目立つ県立歴史博物館の建物が目に入ってくる。かつての横浜正金銀行本店で、横浜港開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため明治13年に設立。その後政府の保護うけて外国貿易関係業務を専門に担当する銀行として成長、世界三大為替銀行のひとつと数えられるようになった。明治37年に完成した建物は明治時代の代表的な洋風建築。


通りの向かい側に、牛馬飲水槽というものがそれとなく置かれている。牛馬が行き交っていた当時は数か所にあったらしく、馬車道十番館前にあるのは本物だが、こちらはレプリカらしい。
少し先でみなとみらい大通り(国道133号)を横切った左手に見えるのは横浜第二合同庁舎で、ここには元横浜生糸検査所があった。


みなとみらい大通りを右にしばらく行くと、ジャックの塔が特徴的な開港記念会館の赤レンガ造り建物が見える。横浜開港50周年記念として大正6年に建てられたもので、国指定重要文化財である。


ここから海側に行くと、海岸通りの角にクイーンの塔が特徴の横浜税関ビルが見える。(写真は海側から撮ったもの)


さらにその先が、横浜開港150周年として整備された横浜港象の鼻パークで、横浜港を望む眺めの良い公園である。
安政6年(1859)の横浜開港に当たり、2本の直線状の突堤が突き出した波止場(現在の大桟橋付根附近)が造られた。西側には税関があり、東側の突堤は外国貨物用として使われた。
東波止場は数年後には内側に湾曲した形状に改修され、その形が象の鼻に似ているところから、開港時の物揚げ場を「象の鼻」と呼ぶようになったという。


生糸などがここから海外へ輸出され、明治42年には、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっている。

象の鼻パークから海岸通りに戻ると、日本大通り右手にはキングの塔が特徴的な神奈川県庁本庁舎が見える。昭和3年に創建された和洋折衷の外観を持つ建物は、県内初の国登録有形文化財となっている。


日本大通りを挟んで横浜開港資料館が建ち、大桟橋通り側にまわると開港広場となっている。
開港広場には、安政元年(1854)日米代表が会見し和親条約を結んだところに地球儀の形の日米和親条約締結地碑がおかれ、通りの向こうにはシルクセンターが見える。


この地域一帯には、ここに紹介しているもののほかにも史跡や見どころがたくさんあるが、折角の機会なのでシルクセンター内のシルク博物館を見学して、今回の浜街道(絹の道)の旅の締めくくりとした。
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安政6年(1859)の横浜開港により生糸の輸出が始まり、遣水峠を中心として活況を呈した浜街道も、明治41年の横浜鉄道の開通によって、その使命を終え、衰退していった。
その一方で、開港当時の人口わずか300人ほどの寒村だった横浜村は、近代日本発展とともに想像もできないような大変貌を遂げている。当時まだ海の中だった横浜の現在の姿を誰が想像できただろうか。
八王子から横浜まで絹を運ぶために使った浜街道(絹の道)の道筋には、横浜に限らず、驚くほど大規模な開発が行われているところが多くみられた。
浜街道(絹の道)は旧街道の中ではそれほど距離が長い道ではないが、時代を越えて様々な人間のエネルギーを感じさせられる道だった。