日本橋~小山

日本橋~千住
日本橋から三越前を通って北に向かい、室町三丁目南交差点を右折して行くと大伝馬町、その左手は江戸伝馬町牢屋敷のあった小伝馬町である。
宿駅制度のもと、各宿場には荷物を継立する伝馬がおかれたが、江戸においては、小伝馬が市中、大伝馬が市中から市外への伝馬を担っていた。

繊維問屋がずらりと並ぶ横山町を過ぎると、神田川に架かる浅草橋を渡る。日光街道は、この先浅草までは、おおむね隅田川沿いに蔵前、駒形と進んで行く。ちなみに、神田川はすぐ下流で隅田川に注いでおり、柳橋を渡った先は両国である。
テレビの時代劇でよく聞く地名が次々と続く中を進んで行くと、やがて浅草寺の雷門が見えてくる。


街道は、雷門を右折して隅田川沿いの江戸通りを進み、言問橋西交差点を斜め左に進む。交差点からは、言問橋の先の方に建設中のスカイツリーが正面に見える。

少し行った東浅草交番前の先で、街道から路地を少し入ったところに東禅寺がある。ここに江戸六地蔵の一つ、宝永7年(1710)造立の地蔵菩薩坐像が鎮座している。


南千住駅手前に泪橋という交差点がある。東海道鮫洲の泪橋の先には鈴ヶ森刑場跡があるが、同じ様にこの先には小塚原刑場跡がある。また、刑死者を供養するために建てられた回向院には、橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎・鼠小僧等の墓がある。

千住大橋手前、国道4号と交差するところに鎮座する素盞雄神社には芭蕉句碑がある。
  - 行く春や 鳥啼魚の 目はなみだ -
文政3年(1820)、文人たちの手により、芭蕉旅立ちの地にちなんで境内に句碑が建てられた。今では毎年、俳句大会が境内に於いて開催されているらしい。
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千住
千住大橋は、文禄3年(1594)、家康が江戸で初めて架けた橋で、隅田川最初の橋であった。橋を渡ると、橋詰テラスには芭蕉と曽良の旅立ちの様子が壁面に描かれている。


元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は深川の採荼庵を立ち、隅田川を船で遡ってきて、ここから奥の細道へと旅立った。
旧道に入ってすぐ右手は足立市場で、その横の「千住宿 奥の細道」と大きく書かれた小公園には、芭蕉の像が立っている。さながら、この界隈は、芭蕉と奥の細道一色といった趣である。

その先の日光街道は、往時、青果物問屋が建ち並び、やっちゃ場と呼ばれて賑わった。今の街道筋は商店街になっているが、やっちゃ場の賑わいがそのまま残っているかのようである。
商店街のはずれには商家造りの横山家住宅が建っている。安政2年(1855)に建てられたもので、往時は地漉紙を商っていた。
荒川を渡る手前には名倉医院がある。江戸時代から接骨医として近郷近在に名が知られ、駕籠や車で運ばれて来る骨折患者でひしめいていたという。名倉の名は関東一円に広がり、私自身、子どもの頃、怪我をすると近所の名倉堂に連れていかれた記憶がある。


千住宿を過ぎ、毛長川を渡って浅間神社や火あぶり地蔵を過ぎると、草加宿に入る。
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草加
元々、日光街道は草加を迂回するルートだったが、大川図書という人が中心となって茅野を開き、沼を埋めて、千住から越谷への道路を造り、その途中に宿場を作ることを幕府に願い出て出来た宿である。

草加駅前を過ぎ、日光街道が県道49号線に合流する交差点の右側小公園には河合曾良像が建ち、左側のおせん公園には草加せんべい発祥の地碑が置かれている。
おせん公園を過ぎた六丁目橋の先は、綾瀬川畔の札場河岸公園となっている。その中の望楼の傍に、名残惜しそうに江戸を振り返る芭蕉像が建っている。


この先、綾瀬川沿いの草加松原は、奥の細道風景地に指定され、日本の道百選にも選ばれているだけあって、なかなか風情のある素晴らしい景観となっている。
遊歩道の途中に架かる矢立橋は、「行春や 鳥啼魚の 目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず」、百代橋は、「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」、それぞれ奥の細道の冒頭部分からその名が採られている。


往時の気分に浸りながら、綾瀬川に沿って進み、蒲生大橋を渡ると蒲生一里塚がある。
そこから左の川沿いの道が日光街道(現在の蒲生茶屋通り)で、そのわきに、草鞋をつり下げた小さな祠が立っている。その内側の奇妙な形の砂利道供養塔が鷲の姿に似ているところから、鷲の神様であるぎょうだいさまと呼ばれ、村人や旅人の道中安全を願って、草鞋を供えてしているという。


蒲生茶屋通りは県道49号線に合流し、しばらく先で武蔵野線のガードをくぐる。
瓦曽根歩道橋が架かる交差点を左方向へ入っていくと越谷宿となる。左の旧道へ曲がる手前には、武田勝頼の遺児千徳丸を弔う照蓮院がある。
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越谷
程なく日光道中は元荒川に架かる大沢橋に至るが、手前の越ヶ谷本町の信号を右折して久伊豆神社の方に行くと、川沿いの細道の先に越ヶ谷御殿跡がある。家康は、慶長9年(1604)、しばしばここに宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねていた。

街道に戻って、元荒川を大沢橋で渡る。荒川が現在の川筋になったのは、江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が付替えを行ってからのこと。
北越谷駅の先、東武鉄道伊勢崎線の高架をくぐると、元荒川の風情ある景色が目の前に広がる。


すこし先の街道左手には宮内庁埼玉鴨場の広大な敷地が続く。

しばらく進むと、日光街道は国道4号に合流し、宇都宮までこの国道と離合を繰り返して進んでいくことになる。
しばらく歩いて東武野田線のガードをくぐっていくと、一宮交差点から粕壁宿へ入る。
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粕壁
一宮交差点を右手に入って行ったところに、下の八幡様として親しまれる東八幡神社が鎮座する。


その一宮交差点のすぐ右手にある東陽寺は、芭蕉が宿泊したと伝えられる寺で、境内に曽良の随行日記の一節「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」が刻まれた碑がある。実際に宿泊した場所ははっきりしておらず、後述の観音院とも謂われている。

一宮交差点で3本に分かれる道を左へ進むと宿の中心に向かう。
旧くからの老舗商店がいくつか残る街道筋を進んで行くと、新町橋西交差点で日光街道は右折して大落古利根川を新町橋で渡る。
橋を渡ってすぐに左へ曲がって行くと小渕一里塚跡碑が立ち、その少し先が小渕の追分で、道標には左日光道と刻まれている。この先で国道4号と合流し、しばらくは国道を歩く。

しばらく行った県指定文化財の山門を構える観音院は、芭蕉と曽良が最初に泊まった場所だとも云われており、境内には芭蕉の句碑もある。
  - 毛(も)のいえば 唇さむし 秋の風 –
この先、堤根の信号で国道から分かれ、左の道を杉戸宿に入っていく。
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杉戸
日をあらためて、東武線で東武動物公園駅まで来て、歩き旅の再開する。
駅を出て少し行くと、原風景を見るような風情たっぷりの大落古利根川を渡って旧道に出る。


旧道に出るとすぐに本陣長瀬家跡があり、その先で右方向へ曲がって国道4号に合流し、真っ直ぐな道を淡々と歩いて行く。
やがて左から来る日光御成街道との合流点に至り、右に行って東武日光線の踏切を越え、志手橋を渡ったところで左へ行くと幸手宿に入る。
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幸手
往時の幸手は、日光御成道と日光道中が合流し、筑波道が分岐する宿場町として賑わった。また利根川の付替え工事により、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が盛んとなり、新田開発の進展も伴って、河岸には回船問屋などが立ち並んで賑わった。

街道左手の幸手駅付近は、幸手を治めた古河公方の重臣幸手一色が館を構えたところといわれる。
宿場のはずれは桝形となっており、手前左手に勅使門を構える聖福寺があり、突当りに正福寺がある。このあたりに幸手の一里塚があったようだ。少し曲がって北上していくと、権現堂堤に至る。
権現堂堤は天正4年に築造されたといわれている。権現堂川は元々利根川の本流の川で、暴れ河川としても恐れられ、何度も決壊をして、その被害は江戸にも及ぶほどだった。大正9年、権現堂堤に3000本のソメイヨシノが植えられ、堤の桜とその横に広がる菜の花畑とのコラボレーションは見事。今では関東有数の桜の名所になっている。


ひとしきり満開の桜を楽しんだ後、行幸橋(みゆきばし)を渡って土手下の旧道を行く。
国道に沿っている旧道を行くと、やがて栗橋宿になる。
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栗橋
栗橋は、利根川の渡し場として賑わい、関東平野北辺警備の関所が設けられた重要な地であった。栗橋宿内の国道と並行する旧道を行くと栗橋関所跡に至る。
この関所は、東海道の箱根、中山道の碓井と並ぶ江戸の重要な関所で、利根川の渡船場が発展して関所となった。
利根川橋を渡ると中田宿となる。
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中田
街道は橋を渡ってすぐ左折し、堤防を降りていく。
栗橋と合宿で半月ごとに継立てを行っており、本陣、問屋、旅籠、茶店などが軒を並べていたが、かつての宿場のあったところは、今は河川敷になっていて跡形もない。
少し先の鶴峯八幡は、源頼朝が鶴岡八幡宮より分祀して創建させたという古社で、中田の鎮守となっている。
茶屋新田に入ると幅広い道が一直線に続いている。江戸時代も道幅が5間(約9m)で、両側は一段高い松並木になっていた。将軍徳川秀忠が日光参詣の折ここに仮設の茶屋を設けたのが、そもそもの茶屋の地名の由来という。

旧道は東北本線に沿って北上し、台町三叉路から古河宿に入る。
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古河
三叉路の先に、左手の古河城址に向かう道があるが、この入口に史跡古河城御茶屋口門址碑が立っている。古河藩初代藩主土井利勝がここに茶屋を設け、三代将軍家光を出迎えて以降歴代の将軍はここから古河城に入った。

古河のメイン通りを歩いて行くと、本町二丁目交差点左側に古河城下本陣址と刻まれた石碑が立っている。その先、枡形の二丁目交差点を左折すると、右手に古河宿道標がある。常夜燈が上に乗っている大きな道標で、正面に「左日光道」、右側に「東筑波山」、左側に「右江戸道」と刻まれている。


一本目の角を右に曲がり、よこまち柳通りに入る。かつて日光街道の北玄関口として作られ、宿場としての問屋場や旅籠、茶店等が軒を連ね、交通の要衝として賑わった。

やがて国道4号に合流する手前で、道は下総国(茨城県)から下野国(栃木県)へと入り、野木宿へ入っていく。
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野木
野木宿は古河宿から近い位置にある小さな宿だったこともあり、遺構等はほとんど残されていない。
街道左側に長い参道が続く野木神社があるが、野木宿は、この神社の周りに形成された。

国道を進んでいくと、下妻道との分岐の所に法音寺と八幡神社が建っている。法音寺の境内には芭蕉の句碑がある。
  - 道はたの むくけは馬に 喰れけり -
その先、間々田宿に入る。
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間々田
日光街道の中間に位置し、位置的に重要な宿場であった。
間々田駅入口交差点から少し行くと、逢の榎碑が建っている。ここは日光街道の中間地点で、江戸から日光に向かう例幣使が旅の道のりを知る為に一本の榎を植え、元々「間の榎」と呼ばれていたが、いつの頃からか縁結びの木として「逢の榎」と呼ばれるようになったという。

間々田四丁目にある間々田八幡宮は間々田宿の鎮守で、創建は1200年前の天平の頃。平安期のはじめ平将門の乱を平定する為に藤原秀郷がここで祈願をしたといわれ、その話を聞いた源頼朝は自らの戦勝祈願に松を植えたと云う。
間々田八幡宮から少し進むと右側に行泉寺、左側に浄光院が立つ。梵鐘を2階に備えた浄光院の山門が特徴的である。


ほとんど真っすぐに続く道を淡々と進むと、小山宿は天神町あたりから始まる。
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