小山~鉢石

小山
小山宿は、小山城城下町の東側に位置し、歴史が古く比較的大きい宿場であった。
日光街道は、安房神社近くの粟宮三叉路で国道4号と分かれ、JR小山駅方向に向かってまっすぐな道を進む。淡々と小山宿中心部に向かって歩いて行くと、左手に須賀神社鳥居が現れ、その先に参道が彼方まで続いているので、旧街道を離れて長い参道を進んで寄り道をする。歴史上有名な小山評定は、この神社の境内で開かれたと謂われる。
慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は会津の上杉景勝を討つべく小山に到着した。このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日この地で小山評定が開かれ、後の関ヶ原の戦いが始まることとなる。


須賀神社のすぐ隣の妙建寺の見事なしだれ桜を眺め、市役所前を通って小山城跡に立ち寄る。
小山城は、久安4年(1148)の築城といわれている。守り神として祇園社(須賀神社)を祀ったことから祇園城とも呼ばれるようになった。

日光街道へ戻って北上し、JR両毛線を越えていくと、やがて喜沢交差点に至る。ここが、かつての喜沢の追分で、ここから斜め左に行くのが壬生道で日光街道は右斜めの細い道となる。
壬生道は日光西街道とも呼ばれ、喜沢から壬生を経て楡木で例幣使街道に合流し、今市で再び日光街道に合流する。芭蕉は、ここからこの壬生道に入り、日光に向かっている。
日光街道は、雑木林の脇を通り、新幹線高架下の道と合流し、しばらく行くと新田宿へ至る。
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新田
新幹線から離れて国道4号に合流するところで新田宿に入る。国道をしばらく行った左手に本陣跡の青木家の門が残っている。少し先で国道を離れ、旧道は左の道に入る。
やがて道が国道4号と合流する手前、畑で途切れた向こうに小金井一里塚が原型に近い形で残っている。
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小金井
一里塚のあたりから旧小金井宿の町並みになる。
奈良時代には、下野国の国分寺がこの地に置かれ、下野地方を統治する地として天平の史跡を残している。
一里塚から500m程先の慈眼寺は、徳川将軍の日光社参時の休憩所であったと云う。
このあと、淡々と国道を進むと、やがて石橋宿に入って行く。
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石橋
石橋宿には、往時の面影を残すものはほとんど無い。
石橋駅少し手前の宿の入口に、創建が天平宝宇3年(759)という愛宕神社が鎮座する。
駅の少し先にある開雲寺は、塀という塀に丸や四角の銃眼や矢狭間の穴が開いている。これは将軍の日光社参の時に境内に設けられた休憩用の御殿の警備のためのものである。
雀宮へ向かう真っ直ぐな道の両側には大きな旧家が多く、大谷石の蔵や塀が目に付く。

国道を淡々と進み、北関東自動車道をくぐって行くと、左手に自衛隊宇都宮駐屯地が続き、やがて雀宮宿へ入る。
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雀宮
雀宮宿は旧奥州街道が整備された時に置かれた宿場で、比較的小規模な宿場であった。
雀宮町に入ると、右手に黒い屋敷門のかつての脇本陣の屋敷が見える。そのすこし先に、宿の名前の由来になった雀宮神社が鎮座する。

国道4号を淡々と歩き、国道121号との交差点を通過して行くと、その先には広大な自衛隊北宇都宮駐屯地が続いている。このあたりの国道の両側には、カーディーラーなど自動車関係の店が多数見られる。
西原交差点で国道4号は右方向へ分かれていき、日光街道は直進して119号に変わるが、このあたりでは日光街道が東京街道と呼ばれている。

JR日光線の上を渡って行くと、不動前信号で道は二つに分かれ、日光街道は左側の不動前通を行く。宇都宮城主本多正純が日光街道と奥州街道を付け替えるまでは、不動堂が旧奥州街道と日光街道との分かれ目にあり、江戸方面から来る旅人にとって宇都宮に入る目印となっていた。


不動堂からすぐ先に東武鉄道宇都宮線のガードがあり、ここに宇都宮宿の木戸があったらしいので、宇都宮宿はここから始まる。
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宇都宮
道が不動前通から蓬莱大黒通という名前に変わると、左手に宇都宮朝綱建立の熱木(ねぎ)不動尊がある。すこし先の一向寺にある重要文化財の本尊汗かき阿弥陀は、宇都宮家に凶変がある時は仏体に汗が流れるといういい伝えがあったという。

裁判所前を右折してすぐの伝馬町交差点が奥州街道との追分で、奥州街道は大通りを直進、日光街道はここで左折して清住町通りを行く。
すぐ先の信号右奥に桂林寺がある。ここに木戸があったといわれ、宇都宮宿が終わる。

真っ直ぐな道をしばらく進んで上戸祭に入ると桜並木の通りとなる。ここは日光街道桜並木と呼ばれる桜の名所となっている。
しばらく行くと、桜並木は徐々に杉並木となり、歩道脇に日本橋から28里目の上戸祭一里塚跡があるのだが、並木の木にまぎれて注意していないと一里塚跡が分かりにくい。

少し先の道が左にカーブするあたりの左手に見える光明寺は、見事な竜宮門を構えている。ここは、将軍日光社参時に休息所となった寺であった。

宇都宮IC近くで東北自動車道の高架下をくぐって間もなく右手にレンガ造りの宇都宮市水道第6号接合井がみえる。今市浄水場から上戸祭に水を送るのに送水管に掛かる水圧を調整した装置が昔のままに残っている。
ここから下徳次郎宿となる。
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徳次郎
徳次郎宿の地名は、奈良時代、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒山神社御神体を智賀都神社に分霊した折、日光の久次郎に対して、外久次郎(そとくじら)と称した事に由来する。

徳次郎交差点を過ぎた徳次郎宿中心あたりでは、大谷石造りの石蔵が目につくようになる。
少し先に、智賀都(ちかつ)神社の大きな鳥居が見える。徳次郎三宿の総鎮守である。鳥居の後ろの2本の欅は、樹齢700年という大木で県の天然記念物に指定されている。


智賀都神社の東側には二宮尊徳が手がけた用水事業の一つ、宝木用水が流れている。
上徳次郎宿の町並みを抜けたあたりに六本木の一里塚があり、 少し先に石那田堰への案内標識が立っている。
しばらく行くと、松本というところになり、そこからは杉並木になってくる。さらに進んで、 山口交差点の先で旧道は国道と分かれ、右側に杉並木が続いている。鬱蒼とした並木が続く左手に杉並木寄進碑がある。


杉並木は武州川越城主だった、松平正綱が寛永2年(1625)から二十数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37kmにわたって植えたものだ。

この先、大沢の交差点で国道119号と合流し、大沢宿に入って行く。
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大沢
大沢の名は、建久年間(1190~1198)源頼朝がこの地を開墾をさせ、地名を恩沢としたのがなまって大沢となったといわれる。現在の大沢宿は、度重なる大火のため旧街道の面影を感じさせるものは、ほとんど無くなっている。

大沢交差点の先で国道と分かれて杉並木に入る。この先も、国道と離合を繰り返しながら進み、森友の信号の先で、また国道と分かれ、旧道は鬱蒼とした杉並木を行く。
森友交差点から1km程進んだ所に、日本橋から33里の七本桜の一里塚跡がある。塚上の大杉の根元は大きな空洞になっていて「並木ホテル」という名が付いている。


杉並木の道は、下今市駅近くで国道と合流するが、ここは例幣使街道との合流点でもあり、そこには追分地蔵尊がある。例幣使街道は、毎年京都の朝廷から日光東照宮へ幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野の追分から太田、佐野、富田、栃木、合戦場、金崎そして壬生道(日光西街道)と合流する楡木を経て、ここで日光街道に合流している。

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今市
今市宿は、日光街道、例幣使街道および会津西街道との合流点にあり、交通の要地として発展して、現在も日光や鬼怒川への玄関口として賑わっている。

日光に向かって、すぐ先右手に報徳二宮神社がある。二宮尊徳は、小田原市栢山に農民の子として生まれ、小田原藩の荒廃した領地を 再興した功績から幕府に登用されて、日光神領の開拓に携わった。

瀧尾神社横から国道と杉並木が分かれる。並木の横には杉並木公園が続き、古民家や水車などが復元されている。その先、瀬川の一里塚、瀬川の七本杉伐痕、砲弾打込杉などが続く。


杉並木を抜けると右手に薬師堂がある。かつて、ここには青雲山竜蔵寺という寺があったと云われ、薬師堂の前に大きな石の釣鐘が置かれている。


竜蔵寺は資力が無かったことから、金属製の釣鐘を造ることが出来ないため石の釣鐘を造ったという説がある。

やがて国道119号と合流し、歩道の無い道を歩くことになる。途中、ところどころで並木太郎や銀杏杉といった曰くつきの杉の木に出会ったりする。
七里に入り筋違橋を渡ると、右手にJR日光駅が見えてくると、いよいよ最後の宿、鉢石宿に入って行く。
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鉢石
日光街道のゴールはJR日光駅前から東武日光駅を通り、神橋まで真っ直ぐな道で、日光参道として観光客やみやげ物店が数多く立ち並んでいる。

御幸町に入った右手に竜蔵寺がある。宿の名のいわれとなった鉢石は、その先の案内標識を少し入った所にある。一説には勝道上人が日光山を開いた時、ここに托鉢の鉢を置いて一休みしたことから名がついたともいう。
神橋手前の金谷ホテルの上り口に板垣退助像がある。戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合って日光を戦火から守った功績によるという。


神橋は日光二荒山神社の参橋で、東照宮の造営が終わった時、以前からあった山菅橋を架け替えて、名を神橋と改めた。一般の通行は禁じられてきたが、現在は有料で渡らせている。


日光街道はここまでで、日光橋で大谷川を渡ると東照宮となる。
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<東照宮>
私が東照宮を訪れたのは2010年11月、紅葉が実に美しい時期だった。
世界文化遺産登録されている社殿群は、さすがに見事なものばかりだったが、ここでは陽明門と奥宮拝殿の先の宝塔の写真だけにとどめる。

 

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奥の細道の旅に出た芭蕉は、元禄2年(1689)4月1日、ここ日光山を参詣し、翌4月2日、裏見の滝と含満が淵を見物してから日光を後にして黒羽に向かった。裏見の滝と含満が淵の旅路については、 奥の細道(千住~日光)のページに、日光を後にしてからの旅路については奥の細道(今市~白河)のページに記している。