宇都宮~大田原

2022年10月24日~25日 宇都宮~白沢~氏家~喜連川~佐久山~大田原
我が家からは電車を乗り継いでJR宇都宮駅まで行き、まずは日光街道との追分となる伝馬町までバスで向かう。あいにくの小雨模様だが、天気予報ではそのうち雨はあがることになっているので、期待を持って歩き始める。

■宇都宮宿
宇都宮は、宇都宮城の城下町、二荒山神社の門前町として発展した。また、江戸幕府は、日光東照宮の入口として、また奥州地方の北の守りの拠点として重視したこともあり、日光街道・奥州街道で最大の宿場となった。しかし、戊辰戦争の際、城下のほとんどが炎上したため当時の遺構はほとんどなく、今は県庁所在地としてすっかり都会の顔つきになっている。

日光街道との追分標柱の立つ伝馬町交差点で、北に向かう本郷町通りが日光街道、東に向かう大通りが奥州街道である。
すっかり都会の佇まいになっている旧街道沿いに往時の面影はほとんど見られず、通りに面したビル群の中に布団、御雛、着物・帯を扱う店があってかろうじてかつての片鱗が見られる。
釜川を渡ると、旧街道はいったん大通りから離れ、右折、左折する枡形になっているが、今回は大通りをそのまま進んだ。
しばらく進んだ馬場通1丁目交差点、左手に下野国一ノ宮・二荒山神社の鳥居とその奥の高い石段が見える。二荒山(ふたあらやま)神社は延喜式内社で、宇都宮の名前の元となった由緒ある神社である。久しぶりの歩き旅の無事を願ってまずは参拝する。


街道は、この先の足利銀行のところで左に曲がって行く。
先方に見えてくる幸橋は、田川に架かる橋で宇都宮宿の出口にあたる。
幸橋手前左側の妙正寺前の路地を左に行くと清巌寺がある。境内に入ってすぐ右手の御堂は扉が閉っているが、自由に開けて見てよいと案内されている。ここに納められているのは国指定重要文化財の鉄塔婆で、鎌倉時代の正和元年(1312)、宇都宮城主が亡き母供養のために建立したものだという。


清巌寺を出て幸橋を渡ると、正面に重厚な造りの旧篠原家住宅が見える。江戸時代から醤油醸造業を営んでいた篠原家は多くの建物を戦災で焼失したが、明治28年に建てられた店蔵はそのまま残され、国の重要文化財に指定されている。


篠原家住宅のところから、街道は県道125号線となって北東方向に真っ直ぐ延びている。すぐ先、新幹線の高架の下で街道は二股に分かれるが、まっすぐ白沢街道と呼ばれる左の道に入っていく。
少し行った竹林交差点の先に、まことに見事な長屋門が見えてくる。


そのお隣も立派な四脚門の家で、いずれも大谷石造りの重厚な蔵を構えている。この地域の街道沿いには大谷石造りの塀や蔵がいくつも見られる。

街道はやがて緩やかだが長く続く稚児ケ坂に差し掛かる。
坂を上ってしばらくすると県道125号線は左に曲がって行くが、奥州街道は右に行く。
旧道に入ったところにあるバス停の脇に、「白澤宿 ここは江戸より三十里」と記された立札が立っている。
すぐ先に「勝善神」と刻まれた大きな石碑が立っている。勝善神は、「東北地方で蒼前さまと言われた馬の守護神」とのこと。全国各地で見かける馬頭観音に対して、神道系の勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願することから始まったものらしい。


その先から下り坂になり、右側地蔵堂に立つ説明板によると「今から900年前、源頼朝の命を受けた井沢家景が東北に向かう途中、先ほどの坂で子供を病気で亡くしたという。その子を葬ったのがこの地蔵堂で、以来900年もの間、白澤の住民が守ってきた」のだそうだ。先ほどの稚児ケ坂の名はこのことに由来している。
地蔵堂の先も下り坂で、やげん坂と呼ばれる。坂の途中の大榎は宿の入口に立つシンボル的存在で、木の下の小屋はなんと江戸時代の公衆便所跡だそう。ちょっと珍しい。
このあたりからは、各家に屋号を記した木札が掲げられ、往時の空気が漂い始める。
街道は、坂を下った先の丁字路を左に曲がる。
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■白沢宿
白沢宿に入ると街道に沿って左右に掘割が出来ており、ところどころに水車があって、なんともいい雰囲気である。中でも、連子格子の元旅籠住吉屋はなかなか風情がある。


すぐ先が宇加地家本陣跡で、塀の奥に江戸末期の本陣建物が残されている。
慶長年間の上杉氏討伐の際、家康は鬼怒川の対岸の氏家に兵を進めさせた。この時、鬼怒川を渡河する際の道案内を当地の庄屋であった宇加地家と福田家が行い、その功により白沢宿が設けられて宇加地家が本陣、福田家が脇本陣を務めることとなった。
道の途中に「奥州街道白沢宿の会」作成の「白沢宿街歩きマップ」が旅人用に置かれている。こじんまりした街だが、地元の方により宿場の保存活動などが積極的に進められていて、宿の魅力をたっぷりと感じられるよう頑張っている様子が伝わってくる。

街道は、突き当たりにある明治元年創業の造り酒屋・井上清吉商店のところで右に曲がり、九郷半川にかかる九郷半橋を渡る。橋の袂には古い石柱と道祖神があり、清流と緑豊かな景観がそこにあって、なんとなくほっとした気分になる。九郷半川とは、文禄年間に西鬼怒川より掘幅九尺の用水を開き、九ヶ村半の水田を潤したところから九郷半川と呼ぶようになったという。


この先は、鬼怒川堤防めざして広大な田圃の中の一本道を真っ直ぐ進む。
途中、豊かな水が滔々と流れる西鬼怒川は、元和6年(1620)に開削された歴史ある水路であった。西鬼怒川橋を渡った少し先の広場には、開田之碑と福禄寿石造に並んで白澤一里塚址碑が立っている。

白沢宿については、予備知識全く無しで訪れたのだが、細かなところまで気を配って整備保全された宿内、九里半川、西鬼怒川の豊かな流れと広大に広がる田園風景など、街道歩き旅をするものとしては実に満たされた気分になれるところであった。

鬼怒川の堤防に突き当たったら堤に上り、堤上の奥州街道を歩く。


10分ほど歩くと堤防から右に下る道があるので、下って杉林の中を行くと、杉林が切れた所に鬼怒川の渡し跡がある。江戸時代、増水時には川幅は約8町(870m)にもなったという暴れ川だった様だ。今は、少し上流の阿久津大橋で対岸に渡る。

阿久津は、明治まで鬼怒川舟運の拠点である阿久津河岸があり大いに賑わっていた。阿久津河岸は、慶長年間に開設されて以来、氏家に集中する奥州街道ほかの諸街道を通して奥州南部から集まった荷がここで川船に積み込まれ江戸へ運ばれるなどで発展した。
そうしたことを反映し、阿久津には、水運の安全や河岸の繁栄を願って、水神を厚く敬い祀ったことが色濃く残っている。

阿久津大橋を渡ってすぐに左の道に入っていくと船玉神社がある。水上安全の守護神として船の御霊を祀った船玉神社は、境内が船の形を模して作られたといわれ、舳(へさき)の位置に神殿がたてられており、本殿が極彩色の社で当時の阿久津河岸の繁盛ぶりがうかがえる。


少し先には浮島地蔵堂がある。鬼怒川は大洪水が多かったため、それを救済してもらおうと水神や地蔵等の信仰が生まれたが、中でもこの浮島地蔵は、どんな洪水にも流されずに浮いてこの地に留まっていたという。
そのまま進むと再び県道125号線に合流する。そこに歩道橋があり、これを渡ったところに高尾神社がある。


説明板によると、人間の能力では自由にならないのが天候であり、それを支配する神が高尾神で、雷神・龍神・水神などとなって人々に信仰されてきた。上阿久津の高尾神は鬼怒川と関係が深い水神(龍神)信仰が原点と考えられている。

街道の緩い坂を上って行くと右に見えるのは将軍地蔵堂、またの名をそうめん地蔵という。
前九年の役で、源義家が陸奥の阿部氏討伐に向かう時、法師がここで不動明王を祀って戦勝祈願したという。その後、亡ばされた阿部氏一族の亡霊が出て、人々を悩ませたが、ここの地蔵菩薩が現れて救ったとのこと。
また、室町時代勝山城主の代参で日光に赴いた僧達が「そうめん責め」に遭って苦しんでいた時、ここの地蔵が現れ、代わりにそうめんを全部平らげて助けてくれたことから、そうめん地蔵とも呼ばれるようになったという。今日、日光に伝わる「強飯式」の原型であったようだ。

そこからしばらく行くと、街道左手にさくら市ミュージアムの標識が出ている。今は公園になっているここにはかつては勝山城があった。
勝山城は、建久年間に氏家公頼が築城した氏家氏の城である。南北朝時代に芳賀氏が城主となった後、慶長2年(1597)に宇都宮氏と共に芳賀氏が改易となり廃城となった。
ミュージアム横を進んで奥の方に行くと本丸大手口橋が堀を跨いでいる。この橋は発掘された根元柱を元に復元したもの。橋を渡ったところは、周囲を高さ4~5mの土塁で囲われた本丸跡の広場となっている。
勝山城は鬼怒川を見下ろす崖端城であり、二ノ丸南郭からの眺望は素晴らしい。


元来た街道に戻るが、この先の旧街道はちょっと紛らわしい。道路を渡った角に道標が立っており、 「愛染明王0.1k ・ 将軍地蔵0.4k ・ お伊勢の森0.6k」 と記されている。お伊勢の森はここからスーパーの駐車場に沿って100mほど行き、左に曲がって右にスーパーを見ながら300mほど行ったところで国道4号を横断。そのまま200mほど行くと、田圃の中にお伊勢の森がポツンと見える。といっても、森でも林でもなく、民家の庭木といった感じのもので、街道沿いに案内板がなければちょっとそれとは気が付かない。伊勢神宮の内宮・外宮を勧請したものが祀られ、あたり一面が森であったことから、お伊勢の森とよばれるようになったということらしい。

この先のJR東北線旧奥州街道踏切を渡り、しばらく歩くと丁字路に突き当たる。その右側にはかなり歴史を感じる地蔵菩薩坐像と道標、馬頭観音が並んで置かれている。


この突き当たりを左に曲がっていくと氏家宿に入っていく。
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■氏家宿
氏家宿は、鎌倉時代、この地を支配していた宇都宮氏没落により禄を失った家臣が氏家に住み着き、宿を開いたのが始まりであるという。奥州街道や原方街道・会津西街道、会津中街道に加え阿久津河岸もあって、江戸と奥州を結ぶ街道と河川交通の要衝として隆盛の道をたどった。

街道にかつての宿場の面影は感じられないが、氏家交差点を渡った左側の歯科医院のあたりが氏家宿本陣のあったところ。
少し先、左の路地を入ると突き当たりに西導寺がある。氏家氏の始祖氏家公頼が開山したと伝えられる古刹。室町時代作の宝冠釈迦如来坐像をはじめ、五間堂といわれる本堂や3基ある大型の五輪の塔、弥勒堂など数多くの文化財を有している。

街道に戻ると右側に光明寺がある。山門を入ると正面に鎮座する巨大な不動明王に圧倒される。


宝暦9年(1759)に鋳造された高さ3mの像で、部分に分けて鋳造する分鋳の技術は、この像の存在により江戸時代中期まで遡ることが証明され、鋳造の歴史を塗り替える資料となったという。

光明寺先の上町交差点が奥州街道と会津街道の分岐点で、奥州街道はここを右に曲がっていく。ちなみに、直進すると会津西街道と会津中街道で、会津西街道は氏家から大内経由会津までの道、会津中街道は氏家から三斗子屋経由会津への道である。
交差点を曲がるとすぐに五行川に架かる五行橋を渡る。五行川は、利根川水系の小貝川の支流で、鬼怒川の水が伏流水となって氏家で湧き出たものが水源となっている。

五行橋のすこし先に行った桜野の左手には、往時、名主を務めた村上家の棟門が見えてくる。
そのすぐ隣の長屋門の家は瀧澤家。瀧澤家は明治時代紡績業を営み豪商となった家柄で、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓などにも尽力したという。この日は閉館中で見学はできなかったが、明治25年建築の現在の建物は、鐵竹堂、蔵座敷、長屋門が栃木県指定重要文化財に指定されている。


それにしても、桜野地区には、瀧澤家、村上家の他にも立派な門構えの屋敷がいくつもみられる。

すぐ先の、櫻野八幡宮は櫻野村の鎮守で、本殿は文政9年(1826)に建造された。相撲との関りも深く、境内の土俵では江戸中期から続く奉納相撲が現在も行われているという。
桜野八幡宮から150mほど進むと、右手にスーパーが見える街道脇に十九夜塔、二十三夜塔と二十六夜塔があった。
この先の街道は国道293号に合流する。 
しばらく淡々と歩くと、松山交差点の手前の大きなお宅の入口に狭間田一里塚の案内板が立っている。矢印が家の方を向いていることから、どうやら塚は敷地内にあるらしいので、ここはパスする。
この先で国道293号は右に曲がって行き、奥州街道は直進して山の中へと入って行く。

国道から外れて旧街道の雰囲気が残る静かな道になるはずだが、このまま歩くと喜連川につく頃には夜のとばりが下りてきそうなので、残念だが今回はここからバスで喜連川に向かうことにした。

荒川に架かる連城橋手前でバスを降りた。連城橋を渡ると喜連川宿に入る。
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■喜連川宿
喜連川宿は、喜連川城下に設けられた宿場町である。徳川家康は、足利家の流れをくむ喜連川藩を重視し、五千石の小藩ながら、参勤交代や様々な負担免除など優遇し、普通の大名とは別格の扱いをしたといわれる。
今日の喜連川には、こじんまりした街のところどころに往時の宿場の名残が残されている。
少し薄暗くなってきているが、喜連川の観光マップを手に宿内の主だったところを巡ってから予約しているホテルに向かうことにする。

まず、連城橋を渡って100mほどの左手の路地を少し行くと、寒竹囲いの家が数軒見られる。


この寒竹垣は、喜連川藩6代藩主茂氏が、藩士の宅地を囲むのに板塀などでは製作保善が大変なため、笹の密植するのを利用して生垣とすることを勧めたという。なかなか味わい深く、おしゃれな感じがする。

街道に戻って本町交差点の少し先の右手路地に入った先は、足利尊氏が創立し、後に龍光院と改称した寺院。この寺の足利家歴代墓所には、喜連川氏歴代の墓がある。


再び街道に戻って向かい側の路地を少し行くと、喜連川藩10代藩主熙氏(ひろうじ)が開削した御用堀が見られる。160年前から現在も使われている用水掘で、堀沿いの武家屋敷跡と趣ある佇まいの街並みだ。


御用堀をもう少し先まで歩くと、喜連川神社の裏参道にでる。
石段を上っていくと、若山牧水歌碑の案内があった。牧水は地元の歌人高塩背山と親交があり3度ほど喜連川を訪問している。
さらに石段を上がったところに喜連川神社の社殿がひっそりと建っている。

神社を出て少し先の喜連川庁舎の方に行くと喜連川城大手門が再現されている。2代藩主頼氏は現庁舎辺りに館を建てたが明治9年に焼失し、大手門だけが平成3年に再現された。門を入った後方の山は、お丸山公園となっている。


再び街道に戻ると、ちょっと先右側に「街の駅本陣」の看板が出ている。ここが喜連川本陣跡で、明治以降は警察・郵便局・銀行など幾多の変遷を経て今に至っている。現在の建物は、大正15年に建築された喜連川警察署の建物。


かつて奥の細道の旅で訪れた登米や鶴岡でみた明治時代の警察署の建物にどことなく雰囲気が似ている。

本陣跡の少し先、右側に黒く塗られた重厚な土蔵を構えているのは、250年以上の歴史があるという呉服店笹屋。さらに進むと台町交差点手前に、黒板塀と屋敷門に囲まれた大きな屋敷が見えてくる。これがなんと高塩薬局だというから驚きだ。


この日予約している宿は、この台町交差点から左の専念寺の方に回って山の上にあると聞いている。すでに日が落ちて暗くなってきている人気のない坂道を、疲れた体に鞭打ってとぼとぼと上って行ったら、ようやくたどり着いた。
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二日目は、朝から気持ちのいい秋晴れになった。前日は、夕闇迫る中、喜連川の街を駆け足で見て回っていたので、チェックアウト後、この日はお丸山公園を通りぬけて急坂を一気に下り、大手門のところから街道に出て、前日歩いた道を再度台町方向に向けて歩き出すことにした。

台町交差点の少し手前で旧道は右に曲がっていくのだが、うっかり交差点をそのまま進んでしまった。金竜橋の少し手前に、とてつもなく大きく、きれいな屋敷があった。どういう謂れの家かはわからない。
旧道は、その先の金竜橋手前で右から合流してくる。

金竜橋を渡って少し行くと、右手に金鶏山と書かれた真っ赤な鳥居が見える。ここで街道は右に旧道が分かれており、分岐点にかなり大きな双体道祖神があった。


旧道はすぐに県道に合流し、しばらくは鶴ヶ坂の長い上り坂になる。

やや殺風景で長い鶴ヶ坂を上ってようやく峠の頂上あたりに来ると、そこには年代物の庚申搭、二十三夜塔など石塔群があつめられている。道路工事の時動かされたようだ。
峠を越えるとしばらくは下りとなり、県道25号線と合流する南和田追分のあたりの路傍には馬頭観音がひっそりと置かれていた。

しばらくして曾根田の集落に入ると、あたりは広い田圃となっている。上江川郵便局の向かい側に農家の立派な長屋門が見えたが、残念ながらちょうど修理工事中で、カバーがかけられていた。
その先、曽根田信号を右折していくと、江川の手前に天皇御小休之際御膳水碑と大きな双体道祖神が待ち構えている。


双体道祖神は信州で多く見かけたが、この地方のもののように大きなものではなく、小さくほのぼのするようなものばかりであった。この地域の双体道祖神は大きさを競っているかのようだ。

のどかな道をしばらく行くと、きつれ川幼稚園のちょっと先、にこんきつれ荘横の公園奥に明治天皇御休輦之處碑がぽつんと立っている。ここで一休み。

この先、引田集落には大谷石づくりの蔵や塀を構えた家が立ち並んでいる。このうちのひときわ立派な蔵が建つ毛塚家の敷地内に引田の一里塚跡があるらしい。


家屋が途切れたあたりの道の左側に「ほほえみ仏」の看板の横に小さなかわいらしい仏像が並んでいる。


街道が県道48号線と合流する交差点の片隅にガードで挟んでしっかりと守られて古い道標が置かれていた。
ここからしばらく直進し、右に農産物直売所を見る変則五差路の交差点で旧道は左に行くが、曲がってすぐのところに佐久山宿案内板が置かれている。佐久山宿が近い。
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■佐久山宿
佐久山は、平安末期、那須与一の兄・那須泰隆が佐久山城を築き、その城下町として発達した。江戸時代、同族の福原氏がこの地を治めて明治まで続いた。宿場の規模としては小規模であった。

案内板から4~5分進んだ佐久山前坂交差点で、旧奥州街道は県道48号線を横切り、坂を下って佐久山宿に入っていく。坂の途中左側に観音堂があるはずだが、うっかり見落としてしまった。
突き当りの枡形を左折すると、佐久山宿入口で、前坂の信号で横切った新道の県道48号線に合流する。
県道に合流し、街並みを進むと、立派な屋敷門が見えてくる。ここは薬屋の八木沢氏宅で、門に「運用膏」と描かれた古い看板が架かっている。戊辰戦争の時、良く効く傷薬と評判になったらしい。

少し先で、かなり目立つ公衆便所の看板が目に入ってくる。道路側の壁に那須与一が弓を射る絵が描かれてあり、その前には大きな「厠」の標識が建っている。これほど存在感を示す公衆便所は珍しい。
この横の路地を右に入ったところに大日堂がある。この大日堂には不動明王が安置されているそうだが、ご開帳は秋の彼岸だけということで見ることはできなかった。

街道に戻ると安政年間創業という饅頭屋小島屋があり、その少し先左側の郵便局横の路地を入っていくと、右側の階段上に實相院の山門が見える。實相院は福原家の菩提寺で、この山門は藩主福原資倍の妻が正徳年間(1711~16)寄進したもの。


街道に戻り ちょっと歩くと道は右に曲がって下っていくが、坂の途中左側に正浄寺がある。この寺の本堂の左に芭蕉句碑が建てられている。
  - 花の陰 謡に似たる 旅寝哉  芭蕉翁 -


もともと奥州街道沿いにあった句碑だが、宿場の火災で焼けたため、ここに移されたということらしい。なんとなく石が焼けて赤茶けているように見える。

正浄寺前の坂を下り、箒川に架かる岩井橋を渡ると大田原宿までは那須野ケ原の中の直線道路となる。川の上流には高原山(1795m)が見える。箒川は高原山の北斜面を源流とする川で、下流に行って蛇尾川に合流し、さらに那珂川に合流している。


箒川を渡ると道は上り坂となり、坂の頂上付近に多数の馬頭観音があった。


吉沢の集落に入ると、街道沿いに「イトヨ生息地 0.6km」の看板が立っていた。吉沢には天然記念物に指定されているイトヨの生息地がある。この辺一帯は、那珂川、箒川、蛇尾川等で形成された扇状地で、豊富な伏流水が湧出している。イトヨの生息地の方から流れてくる街道際の流れには、清流に群生した長い水草が揺れていた。


大田原市親園(ちかぞの)は、かつての間宿八木沢である。享和年間に、此の辺一帯は幕府の直轄領となり、八木沢に陣屋が設けられた。この八木沢を中心に、明治になってから近隣の村を集めて、親園と呼ばれるようになったという。
往時の面影を感じさせる家並みで、立派な門構えの大きな屋敷が多い集落であった。


集落を歩いていると、ひときわ目立つ見事な赤松が目に入ってくるが、これが与一の里名木に指定されている国井宅の赤松である。


しばらく歩くと左奥に湯殿神社があるが、その参道入口の御堂に収められているのは蒲慮(ほろ)碑。漢字だけが並んだ碑だが傍らの説明板に次のようなことが記されている。
「旅の僧が那須野で見た蜃気楼のことを土地の人はほろ(蒲慮)と呼んでいることを知る。また、この地を収めていた代官の善政を知った旅僧は感激して、孔子の「夫政也者、蒲慮也」と蜃気楼の蒲慮と結びつけ称えた」ということが記されているらしい。 
蒲慮碑堂の向かいに立派な門構えの家の門内左手に自然石が置かれている。祠の中に収められているのは町初(まちはじめ)碑で、寛永年間(1524~45)、奥州街道筋のこの地に八木沢部落が開かれたことを記念して建てられた碑だという。

町初碑の先で百村川に架かる筋違橋を渡ると、街道は大田原宿まで真っ直ぐ延びている。はるか彼方が見渡せない、典型的な那須野原の道である。
かつては、ここから大田原宿まで約3kmに亘り、防風林として立派な松並木が植えられており、那須野原で一番美しい松並木と言われていたが、太平洋戦争の時、松根油を採るために、すべて伐採されてしまった、という。
その名残だろうか、筋違橋を渡ったところに少しばかりの松林があった。

ここからは、次の宿場である大田原宿を目指してただひたすら歩く。
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■大田原宿
平安、鎌倉時代は那須氏の所領であったが、室町時代後期、那須家の家臣・大田原資清(すけきよ)が大田原城を築城し、城下町を形成した。以降、江戸時代は、大田原氏の城下町として、また、奥州街道、日光北街道、黒羽道、塩原道などの街道が集まる宿場町として、大いに栄えた。

佐久山宿を出て那須野ケ原の真っ直ぐな道をひたすらテクテクと歩き、神明町交差点の信号が見えてきたときには、正直ほっとした。佐久山のほうから来ると、この神明町交差点を左に曲がるのが日光北街道で、奥州街道はここを右に曲がって行く。
私が、奥の細道を辿る旅で日光北街道を歩いてこの地を訪れたのは2017年8月のこと。その時も同じように、矢板から大田原に向かってまっすぐな道をひたすら歩いた。これぞ、那須野ヶ原だ。

神明町交差点で右に曲がって少し行ったところに薬師堂がある。


寛永年間(1624~44)に大田原政清がここに薬師堂を建立したが、大田原宿の大火で焼失し、現在の堂は寛政5年(1798)に再建されたもの。境内右手の七重塔は貞享元年(1684)の建立、 対面には元禄7年(1694)建立という舎利塔もある。

薬師堂の少し先の旅館の甲州屋の脇に建てられた石碑には「大田原宿 下町」と刻まれている。その少し先右側に本陣・問屋・高札場跡と続く。本陣跡の少し先左側に那須与一像が立っている。


さらに進むと、交差点に金燈籠(かなどうろう)が建てられている。初代金燈籠は文政2年(1819)に建立されたのだが、太平洋戦争末期の金属回収運動で供出されて、現在の金燈籠は昭和54年建立の3代目になる。台座は往時のもので、西側に「江戸」、東側に「白川」と大きく彫られている。
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今回の旅はここまでとし、久しぶりの長旅から帰途に就く。
ここからJRの最寄り駅は西那須野か那須高原になるが、そこまでの交通の便がすこぶる悪い。