2022年11月16日~17日 大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂~白河
奥州街道の旅、前回の続きを大田原から再開する。一日目は、大田原から芦野まで行き、二日目は芦野から白河まで行く計画である。
大田原中心街までは、我が家からまず電車で西那須に行き、バスで向かう。金灯篭近くの山の手1丁目でバスを降り、まずは光真寺に向かった。
大田原宿(続き)~鍋掛
光真寺は、大田原資清開基の歴代大田原藩主の菩提寺である。境内の左手奥にある大田原家歴代城主の霊廟に並ぶ宝篋印塔は壮観である。
光真寺から龍泉寺前を通り、旧奥州街道に出て少し行くと左手に大田原神社の一の鳥居が見える。大田原神社は、大同2年(802)創建と由緒書にある古社であり、高い石段を上ると、境内は鬱蒼とした森に包まれている。
大田原資清が大田原城築城の際、城内の鎮守社として現在地に遷座し、代々の藩主が社領を奉じて崇敬した。鳥居をくぐると両側に16基の石灯篭が並んでいる。
神社の階段を下りて旧街道を行くと、県道に合流する手前左、大田原神社裏参道出口の横に大久保木戸跡碑が建てられており、大田原宿はここまでになる。
県道に出ると、大田原神社と大田原城跡をつなぐ橋が道をまたいで架かっている。大田原城本丸跡は公園になっており、奥の細道を辿る旅で一度訪れているので、今回は県道をそのまま進んですぐ先の蛇尾(さび)川を渡る。
蛇尾橋を渡って右折するのが黒羽道で、ここを東へ行くと那須与一ゆかりの那須神社を経て黒羽に至る。奥の細道の旅で、芭蕉はここから黒羽に向かっている。
奥州街道は、蛇尾橋を渡って左折し、その先で大きく右に曲がってから、はるか彼方まで真っ直ぐで平坦な道が続いている。いかにも那須野ヶ原らしい。
しばらくして箒川支流の巻川を渡ると、街道左側に中田原一里塚が残っている。奥州街道の中では数少ない現存する一里塚で、塚木は無くなっているが塚は残っている。
やや単調な道を淡々と進むと、市野沢小入口交差点のところに棚倉追分道標がある。正面に 「左奥州道」、右面に 「右たなくら道」、左面に 「南無阿弥陀仏」 と刻まれている。
ちなみに、棚倉道は、江戸時代に棚倉藩のあった岩城国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町)に至る道である。その棚倉藩は、関ケ原合戦後、西軍に与して一時改易の憂き目にあった立花宗茂が立藩したところである。かねてから徳川家康に特別視されていた立花宗茂は、後に、旧領の筑後柳川に復帰し、関ヶ原に西軍に与して一度改易されてから旧領に復帰を果たした唯一の大名となった。
追分からしばらく行った市野沢交差点のところに大きな高野槙(こうやまき)が立っている。与一の里おおたわら名木に指定されており、奥州道中三槙の一つと言われる樹齢400年の古木である。
高野槙からしばらく行くと、那珂川支流の相の川に架かる高野橋を渡る。
その少し先、街道左側に荒屋敷の麻疹地蔵堂があり、その横には馬頭観世音など多数の石仏が並んでいる。
このあたりでは、行く先々で那須連山がよく見える。
やがて、練貫十文字を過ぎ、しばらく進んで緩い上り坂で右に曲がるあたり、練貫集落の外れに、永代常夜橙や道標など石塔群がある。永代常夜橙には正面に「永代常夜橙」、側面に「右奥州海道、左原方那須湯道」と刻まれている。道標を兼ねて、宝暦6年(1756)に建立されたものだ。十九夜塔の右に「旧奥州道中 練貫」と彫られた未だ新しい碑があつた。
この石塔群の後方に鎮座する愛宕神社が素晴らしかった。社の周囲は明るく開けていて、ただ一本のまっすぐに伸びた杉の木が、秋晴れの真っ青な天を突くように立っている。
上り坂が終わり、下りに入るところに明治天皇御駐輦記念碑と刻まれた石柱が唐突にポツンと立っている。
やがて、羽田沼入口の案内板が立つ分岐があり、大田原市と那須塩原市の境界を越えて野間に入る。
芭蕉が奥の細道の旅で、黒羽から那須へ向かう途中、乗ってきた馬を返したのがこのあたりだ。この後、芭蕉は奥州街道で鍋掛まで行き、そこから高久へ向かったと謂われているが、諸説ある。
この一帯は、広大な那須野ヶ原が広がっており、高原の雰囲気が感じられるような中、右手に大野牧場が見える。
地図で見ると、この先には、競走馬の生産で知られたなべかけ牧場等もあり、街道沿いに牧草の大きな束が多数積み上げられていたりする。
樋沢地区に入ると、街道わきに樋沢の不動明王の説明板が立っている。
明暦2年(1656)に作製された寄木作りの像ということだが、といったいどこにあるのかと、あたりを見回すと、街道左手の畑の奥のかなり古い納屋のような建物の後ろに小さな小屋が見えた。近づいてみると、一見お地蔵さんのように見えるお不動様であった。建屋はやや粗末に見えるが、中のお不動様は、地元の方々に大切にされている様子がうかがえた。
その少し先左手には樋沢神社(八幡宮)が鎮座している。大きな自然石が二つあり、「八幡太郎義家愛馬馬蹄の石」と「葛篭(つづら)石」という。
後三年の役(1083年~)で、源義家が奥州に向かう途中、源氏の氏神であるこの神社の坂を馬で一気に駆け上ったところ、勢いの余り、石に蹄の跡が岩に付いたという。
葛篭石の方は、形が似ているから義家が名付けたという。葛篭とは、つづら藤で編んだ着物を入れる箱型の籠のことである。
しばらく行くと愛宕峠の切り通しの左手に鍋掛の一里塚の標識が立っている。
石段を上がっていくと奥に鍋掛神社があるが、石段を上がった右手に一里塚の標柱が立っていて、やや小ぶりの塚と比較的新しい気が一本植えられている。元々11m程東にあったが、道路拡幅のため平成6年に現在地に移されたものだという。
その先、鍋掛十文字を渡ると次の鍋掛宿に入って行く。
-----------------------------------------------------------------------------
■鍋掛宿
鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあって、川留めの時など、大いに賑わったという。
鍋掛宿の街並みに往時の面影は無いが、歩道と車道の境がガードレールの代わりに自然石が整然と並んでいた。
鍋掛十文字を渡ってすぐ左手に延宝7年(1679)建立という清川地蔵が鎮座している。
少し先、正観寺手前の八坂神社の境内に芭蕉句碑がある。
- 野をよこに 馬ひきむけよ ほととぎす –
文化5年(1808)に、鍋掛宿の俳人達によって建てられた。
正観寺門前には、蔵造りを模した鍋掛宿消防小屋があり、古い雰囲気を出している。ここには本陣跡の家があったという。
那珂川手前で旧街道は右へ入り、すぐ先で枡形になっていて、県道に復帰し、那珂川に架かる昭明橋を渡る。江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで水が多いときだけ船渡しで、江戸時代後期になると、舟橋や土橋も利用された。
那珂川を渡ると、突き当りですぐ左に曲がり、越堀(こえぼり)宿となる。右に曲がる道は、関街道と呼ばれ、蓑沢から栃木・福島県境の追分を経て白川の関跡に通じている。
-----------------------------------------------------------------------------
■越堀(こえぼり)宿
那珂川を挟んで鍋掛宿の向かい側の越堀宿は、奥州方面から江戸を目指す旅人が川留になった時のなどのために設けられた宿場である。明治に大火に遭い、宿の面影はほとんど残っていない。
右手の浄泉寺境内に黒羽領境界石がある。表に「従是川中東黒羽領」とあり天領の鍋掛に対し、川からこちらが黒羽藩領であることを示している。
すぐ先の民家の庭先に昭和13年建立の「征馬之碑」と、昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」と刻まれている大きな石碑が建っている。共に戦争に従軍して死んだりした馬の供養塔であろうか。
越堀宿の出口付近の越堀公民館前にある石碑には「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と彫られている。
この先、越堀宿を出ると、街道は右にカーブして上り坂になる。芭蕉と曽良は、このカーブのところで左に分かれる道に入り、高久に向かったとも謂われている。
坂を上っていくと、左手高台に「市指定史跡 高久靄崖の墓」(たかくあいがい)という白い標識が立っている。この地区に生まれた高久靄崖(1796~1843)は、江戸後期の文人画家で、谷文晁や渡辺崋山等と交友があった。
高久靄崖の墓からすぐ先右側の杉渡戸公民館前に伊勢大神宮遥拝碑が建っている。
やがて道は富士見峠となるが、今は、生い茂った木々が遮って富士山など全く見えない。
次の宿場、芦野までは23坂7曲がりと呼ばれる道中となる。
富士見峠を下る途中の寺子十文字の右手前に寺子一里塚公園が出来ている。
元は50m程白河寄りにあった、江戸より42番目の寺子十文字一里塚が小学校建築と、道路拡張の為公園の中に移設復元されている。
その手前に設置されているのは、富士見峠の頂上付近にあった安永4年(1775)建立の馬頭観世音である。左側面に「日光山16里、江戸41里、水戸22里、八溝山6里」右側面には「湯殿山66里、仙台50里、会津24里、那須湯元5里」と刻まれている。
峠を下ると、越堀と芦野の間の宿だった寺子地区に入る。
左手の会三寺(えさんじ)の地蔵堂には、第14代法印旺盛が、当時はしかが流行して幼児の死が多かったのを憐れみ、十余年にわたって111体も彫り上げた地蔵が納められているという。
すぐ目の前の余笹川(よささがわ)は、平成10年8月に大水害を起し、死者6名もの被害を出したという。今はすっかり改修も終わり、余笹川見晴らし公園として整備されている。
往時の奥州街道は、今の寺小橋の上流側に渡河地があったらしく、街道筋には石仏や寺子地蔵尊が残されている。余笹川の源流は那須連山の旭日岳で、那須町と大田原市の境で那珂川に合流している。江戸時代には橋が掛けられたこともあったが、すぐ流されたので、徒歩や人の肩、輦台(れんだい)で渡ったとのこと。
現寺子橋を渡って対岸の石田坂集落に入り、橋の渡詰めから左の堤防に降りて進むと、旧道口脇にだるま石がある。この石は、元は川の中にあって増水時の水位の目安になっていた。
余笹川の渡し付近からだるま石の後ろを通って東に延びる旧道が続いている。右手には県道72号線が並行しており、石田坂の集落を抜けると、上り坂で旧道は県道72号線に合流する。
県道との合流点に弁慶の足踏み石、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔、蓄魂碑(牛の像)などが集められている。
坂を上ったところ、左手に農業構造改善事業記念碑が建っている。昭和44年に建立されたもので、碑文によると余笹川の水の利用法を改善して農業生産基盤の整備を行ったようだ。
右手には広大な田圃が広がっていた。
前方に豊岡の集落が見えてきた。
坂を下っていくと、街道右側にゴーゴーと激しく流れる水音が聞こえる。少し先のポケットパークのところで見ると、水音の激しさからは想像もできないほんの小さな用水路であった。
豊岡の集落の外れに「芭蕉温泉ランド入口」の大きな看板があり、坂を上りきったところが、那須町と那須塩原市の境界となっている。
那須町は那須高原を占める町で、昭和29年、芦野町と伊王野、那須の2村が合併して出来た町である。北西部に那須岳が聳え、大部分が山地となっている。余笹川沿いに平地があり、米作と野菜と酪農の町となっている。なお、伊王野は古代の東山道の駅のあったところで、芦野は近世の奥州道中の宿場で古くからから栄えた地域である。
緩やかな坂を下っていくと、前方に黒川の集落が見えてきた。黒川の傍にある村で、かつては黒川端村と言われ、戸数が4戸の寺子村の枝村であった。
奥州街道は、黒川橋手前で左に曲がっていく県道から右に分かれ、黒川端の中を通っていく。往時、旅人を山乗駕籠に乗せて川を渡す川越場があったが、川が増水して川留めがあった時に泊まれる家もあったという。街道は、この先の黒川の土手で消滅しているので、土手を少しばかり上流側に行き、前方の黒川橋を渡る。
黒川は那須岳と赤面山に源を発し、那須町沼の井で余笹川に合流している川だ。平成10年の洪水で、余笹川と共に、ここも大きな被害を受けたところである。この川も、古くから水害には悩まされていたようだ。
黒川に伝わる伝承で天ん崖(あまんがけ)というのがある。この橋より1km程上流に天ん崖は、天ヶ岩とも呼ばれ高さ10数mもある巨大な岩がある。平成10年の水害の後、川筋を変える工事を行った為、今は岩の傍を川は流れていないが、以前は、川の流れがこの岩にぶっつかり深い渕となって人が近づけなかったという。洪水の時、中山道木曽路などで伝えられている蛇抜(じゃぬけ)と同じ様な現象があったらしい。
黒川橋を渡った先の崖に芦野温泉への大きな案内看板が見える。
旧街道は右にカーブして行くのだが、この日は芦野温泉ホテルを予約しているので、ここで左の方の坂道を上って芦野温泉の方に向かった。
-----------------------------------------------------------------------------
二日目、山の上の宿を出てからしばらく坂を下っていくと、菖蒲川手前で旧街道に出る。菖蒲川を越え、県道28号線を渡っていくとまもなく芦野宿に入っていく。
■芦野宿
芦野は鎌倉時代からの地頭で那須七騎の一家の旗本芦野氏が知行地としてこの地を治めていた。桜ヶ城の城下町として発達し、江戸時代になって奥州道中が整備され、交通、運輸が盛んになると、宿駅として発展した。
奈良川を渡り、左に直角に曲がると芦野宿である。
芦野宿はこの奈良川に沿って設けられており、また、この先の奥州街道は、この奈良川沿いに境の明神近くまで続いている。
川を渡ると左に大きな石地蔵尊がある。宿場の入口にある河原町地蔵尊で、蓮華の上に腰掛、左足を前に出していることから、座り地蔵と呼ばれている。
宿場に入ると、街道両側の家々には、屋号が書かれた石燈籠が設置されている。
中世の芦野氏の城下町で江戸時代は旗本芦野氏の知行地であった芦野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠40余の比較的大きな宿場であった。
街道右手に奥州道中芦野宿整備記念碑が立ち、側面に「奥州道中(奥州街道)形成ここに400年」と彫られてあった。
記念碑を右に行った奥は芦野宿問屋があったところで、明治天皇行在所跡碑が建っている。
芦野宿で、唯一残されている元旅籠丁字屋は江戸次時代初期の創業。当時より鰻が名物で、今でも営業している。奥には、江戸時代の蔵屋敷も健在で、そこで客は食事ができるらしい。
ここを通るのは二度目になるが、前回同様、朝早いため鰻をいただくことは叶わなかった。たまたま店先に出ておられたおかみさんと、少しお話をする。
変則十字路の右角に芦野郵便局があり、その敷地に奥州街道道標と芦野町道路元標が建っている。ここは芦野宿の番所跡である。
ここを右折すると中世の芦野城、近世の旗本芦野氏の陣屋があったところだ。城が築かれたのは、天文年間とも天正18年(1590)とも伝えられている。現在、城跡(御殿山)の麓に、那須歴史探訪館が出来ている。
街道左手にはストーンプラザという石の美術館が建つ。大正から昭和初期にかけて建てられた石蔵を再生して造られた。地元産の芦野石を中心とした石関連の美術館となっている。ここに、芦野宿・本陣があった。
少し先に北の枡形道があり、その右手角に延宝8年(1680)の庚申塔と大正6年の馬頭観音が建っている。
北の枡形道を抜けると、北東に向かって真っすぐな芦野宿が延びており、程なく右手に建中寺参道が伸びている。
建中寺境内には、江戸時代以降の旗本芦野氏歴代の墓がある。芦野氏19代民部資俊(みんぶすけとし)から27代目資原までの当主とその家族の墓とのことであった。
芦野宿の出口付近で、街道は直角に左に曲がり、また右折して国道へ出る。ここも枡形の形になっている。その手前角にあるのが新町の地蔵尊。保2年(1717)の造立で、入口の川原町地蔵とともに宿内に種々の災厄を入れないようにという役目があった。芦野宿には入口と出口に大きな石造地蔵尊がある。
奈良川を渡ると、旧街道は国道に出て右に行くが、国道を渡ったところに無料休憩所の遊行庵があり、その裏手に遊行柳が見える。私にとっては、2017年8月に奥の細道を辿る旅で訪れて以来である。その時は緑豊かな里山の風に揺れる柳がなんとも心安らぐ風情だったが、今回は時節柄そうした光景は見られなかった。
*奥の細道を辿る旅でここを訪れた時の様子はこちらへ
時宗の宗祖一遍上人(遊行上人)が旅の途中、上人が使っていた柳の杖が根付いて柳になったとかの伝説が残るもので、西行、芭蕉、蕪村たちが、この遊行柳を訪れている。上の宮湯泉神社参道の玉垣に囲まれたのが遊行柳で、その傍らに芭蕉の句碑がある。
- 田一枚 植て立去る 柳かな -
対面の栁の木の脇に西行の歌碑と、蕪村の句碑がある。
街道に戻って少し進んだ国道わきに「蘇る豊郷」と大きく書かれた芦野地区圃場整備事業完成記念碑がある。この辺は、嘗ては黒羽藩の領地で、肥沃で良質な米の産地であったが、奈良川の水不足等で時には悩まされる地域でもあったようだ。今の遊行柳周辺には広大な田んぼが広がっている。
更に国道を進むと、左側に峯岸の集落へ入る細い道があり、この道へ入って行く。
峯岸集落の外れの愛宕神社の参道の横に、べこ石の碑がある。嘉永元年(1848)、芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒(ただひろ)が晩年、人倫道徳の本道を人々に教え諭すために建てられたもの。
碑には、全文約3、500文字が刻まれており、孝行の大切さと善行の勧め、堕胎の戒めと生命の尊重等を実例や例え話を用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく説いている。
旧街道は国道に合流するが、すぐまた左に入ると、左手に峯岸館兵従軍之碑と峯岸館従軍者之碑が建てられている。
戊辰戦争の時、官軍として戦った、峯岸近隣の集落の農民が、ここに設けられた峯岸館で洋式の軍事訓練を受けて各地を転戦し戦功を挙げた、その顕彰碑である。
ここで、街道は国道を横切って右側に入り、間の宿であった板屋へ入る。
しばらく行った左手に諭農の碑というのが立っている。べこ石と同じ、芦野の戸村忠恕が農民に諭す為に撰文したもので、内容は、病害虫の駆除、予防から飢饉への対処の仕方までなどであり地方資料として貴重な物となっている。
この先の坂を上ると板屋の一里塚の案内が立っていて、一里塚は街道より見上げる高さにあるようだが、切り通しが深くてどれが塚なのかよくわからなかった。
少し先には馬頭観世音と、馬頭大神と掘られた石柱もあった。
板屋の一里塚を抜けると、坂を下って蟹沢集落に入る。街道の右上を見上げると、新旧の馬頭観世音が4柱並んでいる。
蟹沢を抜けると、気持ちよい街道筋となり、やがて前方に高瀬集落が見えてくる。集落の中ほどで右手の小道を少し入ったところに、嘉永2年(1849)と書かれた馬頭観世音があった。左端は大黒天と刻まれてあった。
高瀬の集落の外れ、街道右手に高徳寺がある。すぐ先の切通の崖に張り付くように多数の馬頭観音が見られる。
脇沢集落を抜けて再び国道に合流するとすぐ右手の崖上に脇沢の地蔵様が並んでいる。
国道に合流して少し先右側に大きな常夜灯が建っている。白井石材への入口の看板のようなものだが、この白井石材は、芦野石の採掘を行っていた会社で、那須町にある石の美術館、STONE
PLAZAのオーナーである。
白井石材の常夜灯から1200m位行くと左の旧道が寄居集落へ入って行く。
その手前、櫛田石材加工所を過ぎた右手に多数の石造物があり、狛犬の先の石段を上り詰めた所に石祠がある。石造物は、六地蔵石幢や明治・大正・昭和の馬頭観音である。
続いて右手に明和8年(1771)の地蔵菩薩坐像と明和9年(1772)の如意輪観音が刻まれた笠塔婆がある。
左の旧道に入った集落の入口には古い湯殿山常夜灯がある。寄居は間の宿であり、下野国最後の休憩地で結構賑わったといわれる。 右手には與楽寺(よらくじ)へ上がる階段がある。那須三十三所観音零場の第10番札所となっている。
街道が右に曲がっていくところに、問屋を勤め、寄居西組の名主を兼ねていた松本家、その隣に茶屋本陣を勤め、寄居町組の名主を兼ねていた大島家といった旧街道の趣を残す建物が残っている。
寄居の集落を抜けると、再び国道に合流する。
ここを右折して山の方へ行く道はかつての旗宿道で、古代の白河関へ繋がる街道である。前回は、芭蕉のとったルートとは異なるが、私は、ここで白河の関の方に向かった。
国道を少し行くと、左側駐車場の中に泉田の一里塚がある。訪れる人がいないのか、駐車場は閉鎖されていた。
泉田の一里塚を出ると、少し先左側に大久保の集落が見えてきた。
奈良川を渡った旧道入口すぐの右手には、馬頭観音、念佛供養塔、二十三夜塔等々、一列に並んだ石仏群が迎えてくれる。
少し行くと、旧道右側に小さく水が湧出していて、初花清水碑が建っている。
この旧道に沿って歌舞伎「箱根霊験躄仇討(はこねれいけんいざりのあだうち)」で知られる主人公の勝五郎とその妻初花がこの地で病気になり、名主大島家の世話を受けたという。初花清水は、美人であった初花が毎朝顔を洗ったといわれる清水であり、仇討を祈願し勝五郎が岩に彫ったものが瓢石(ふくべいし)であるという。
歌舞伎の「箱根霊験躄仇討」では、主人公の棚倉藩士の飯沼勝五郎は、兄を滝口上野に殺された。そして、同じく、滝口を父の仇としていた初花と夫婦になった。仇を探し求めているうちに足を病んだ勝五郎は、この地で療養の傍ら、仇討ちを祈願して、この「瓢石」を刻んだ。二人は、最後は無事に本懐を遂げ、二人の墓は東海道・箱根東坂の鎮雲寺にある。
再び国道に合流する左手の角に、瓢箪の形をした瓢石(ふくべいし)の像と道標を兼ねた石碑があり、「瓢石 勝五郎旧跡、初花清水従是二丁」と彫られていて瓢石の場所を示して建っている。
旧街道は国道から少し先で、右の細い道に入り、下野最後の集落、山中に入るとすぐ左手の段上は墓地になっており、街道に面して無縁供養塔・文久3年(1863)の馬頭観世音などが並んでいる。
少し先で道が左に曲がるところで鈴木家の白壁の蔵が目に飛び込んでくる。明治天皇は、山形秋田両県及び北海道巡幸の際、二度鈴木家で休息しており、蔵の前には明治天皇山中御小休所碑が建っている。
山中集落を抜けると、国道に合流する。緩やかな坂を上っていくと右手に大きな安政6年(1859)の馬頭観音が建っている。
周囲には風化の進んだ馬頭観音などが点在している。ここに来るまでに数え切れないほどの馬頭観世音が建立されていた。
少し先に行くと、左手段上に明神の地蔵様(地蔵菩薩坐像)が建っている。
享保14年(1729)の地蔵菩薩坐像のほか、延享3年(1746)の如意輪観音、宝暦14年(1764)の光明真言三百万遍供養塔などが街道を見下ろしている。
明神の地蔵様の直ぐ先、左手に享保10年(1725)の庚申塔らしき石塔があり、その奥に温泉神社がある。社殿は鳥居の先の急斜面を上った山中に鎮座しており、参道は枝木に覆われた急斜面になっている。
温泉神社の先は緩やかに上る坂道となっており、街道沿いにちらほらと民家が見えてくると、いよいよかつての下野と陸奥国国境となる。現在では栃木県と福島県の県境である。
国境の右の切通しの上に、領界石 「従是北白川領」 が建っている。
国境には、通称堺の明神と呼ばれる神社が二社並立しており、国境手前の下野国(栃木県)側の境の明神は玉津島神社、国境を越えた陸奥側の明神は住吉神社と呼ばれている。
ところが、国境を越えた住吉神社の案内板には、「陸奥側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている」とある。
そもそもが、奈良、平安初期のころ、国境の明神には男女二神を祀るのが通例で、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰があった。そのため、下野・陸奥とともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としているという。
境内には、越後新発田藩溝口家や南部藩士が寄進した石灯籠が並び、芭蕉の「風流のはじめや奥の田うへ哥 芭蕉」などの句碑や歌碑も多く建立されている。
住吉神社の街道を挟んだ向いの段上に上がると南部部屋碑が建っている。かつてここには、お休所(峠の茶屋)南部部屋があった。八戸藩主南部直房が参勤交代の度に境の明神に詣でた後、この茶屋で名物の千台餅を賞味したことから南部屋と称した。
またそこには白河二所之関址碑がある。この関址碑は、岩田孝三氏が、白河の古関は旗宿でなく、ここにあったと指摘した碑である。
住吉神社の隣に境野明神ポケットパークがあり、ベンチが設けられていたので、ここでお昼ご飯をとることにした。もともと芦野からここまでの間には、食事処どころか飲み物の自動販売機すらないというのが分かっていたので、前日のうちに宿泊ホテルでおにぎり弁当を確保していた。これが大正解だった。
境の明神峠を越え、少し行った街道脇に「衣がえの清水」の標識が立っていた。街道からはずれて標識に従って下りて行くと、街道下から湧き出てくるような小さな清水が流れている。説明板によると、「衣がえの清水」は、古くは弘法大師がこの清水で衣を濯ぎ、芭蕉も境の明神参拝後、この清水に立ち寄り休息をしたという。
坂を下り終えると、左側に馬頭観音他の石碑群があり、その先に陸奥国最初の宿場・白坂宿が見えてくる。この石碑群のところに建っている道路標識には、右の方に行くと白河の関まで6.5kmとある。この道は「旗宿道」で、曽良の随行日記に「古関を尋て白坂ノ町ノ入口より右ニ切レテ籏宿へ行」とある道である。芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で遊行柳を見たあと、境の明神峠を越えたここから右に折れて、歌枕となっている古代の白河の関へ向かった。
-----------------------------------------------------------------------------
■白坂宿
陸奥国に入って一番目の白坂宿は、天正18年(1590)小田原征伐後に行われた奥州仕置の際、豊臣秀吉が伊達政宗に命じて小田原から会津の街道整備を行ったが、芦野と白河間が長すぎるということで宿場として整備されたのがはじまり。
宿内に入ると各戸の前に屋号碑が建っている。宿内の中程左手に植栽のある大きな家があるが、これが本陣問屋の白坂周右衛門宅跡である。
宿の外れの左手に観音寺がある。本陣を務めた庄屋・白坂家の菩提寺であり、戊辰戦争で、亡くなった大垣藩士3名の墓も立つ。境内には観音堂・薬師堂のほか、墓所には白坂若野屋の長子・大平八郎などの墓がある。観音堂は、夕日堂と呼ばれ、古くから金売吉次の埋蔵金伝説が残る御堂である。
白坂宿を抜けると峠道となる。県道との交差点を越えて上り坂の峠道を進むと、右手に古い大証の馬頭観音に並んで真新しい馬頭観音が建っている。牛頭観音とは珍しい。
白坂の峠を越えると、皮籠(かわご)交差点の向こうに皮籠集落が見えてきた。
金売吉次が砂金を入れた「皮籠」が地名の由来となっている皮籠は、白坂宿の加宿で立場があった。
皮籠の交差点の先の八幡神社には、「金売吉次三兄弟の墓 是より300m」の案内が立っている。承安4年(1174)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害された。里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。
後に、源義経は平泉に下る手引きをした金売吉次への恩から盗賊どもを討ち果たし、吉次兄弟の霊を弔って合祀したことから 「吉次八幡」 と呼ばれた。
八幡宮の前には、金売吉次兄弟古墳碑、庚申塔、十九夜塔などが立ち並んでいる。
皮籠を過ぎ、鬼越山の左側を抜けて小丸山の溜池の横を過ぎると、国道294号(旧陸羽街道)から右に分かれる旧道が残っているが、まっすぐ進んだ。
すぐ先の西大沼交差点を左に行くとJR新白河駅で、右は棚倉だが、奥州街道は直進である。このあたりからは、正面に稲荷山が見えるようになる。戊辰戦争の激戦地として知られており、稲荷山の麓には多数の慰霊碑や記念碑が建っている。
<白河口古戦場跡>
稲荷山は、慶応4年(1868)5月1日、白河における戊辰戦争(白河口の戦い)で激しい戦闘があった場所である。この日一日で会津藩や仙台藩など、奥羽越列藩同盟側の諸藩では約700名が戦死したとされる。
戦死墓は、会津藩戦死者を弔うため、戊辰戦争後まもなく地元新町の人々が建立した。
会津藩主松平容保の題字の銷魂碑には、若年寄横山主税、海老名衛門他、304名の戦没戦士の名が刻まれている。明治17年に白河の有志と会津藩関係者によって建立された。
ここにはある会津藩士田邊軍次の墓は、戊辰戦争中に起きた数々の悲劇のうちのひとつを伝える。
鎮魂碑等の街道を挟んだ向かいには、長州藩・大垣藩6名の墓がある。
奥州街道は、稲荷山をぐるりと回り込む様に進み、白河・小峰城下町の南口の九番町となる。九番町、八番町、・・・と続き、道なりに進むと、谷津田川(やんたがわ)を南湖橋で渡る。
南湖橋を渡った先の信号の左角に、歴史風致形成建造物である藤屋建造物群が建っている。藤屋(藤田本店)は、味噌・醤油の醸造業店 として天保元年(1830)頃に初代藤田弥五兵衛氏によって創業され、現当主で6代目を数える。
やがて一番町に入ると白河宿がはじまる。
-----------------------------------------------------------------------------
■白河宿
白河宿は、道中奉行の管轄下にあった奥州街道最終の宿駅であり、小峰城の城下町としても発展し賑わった宿場であった。
天神町交差点で旧街道は直角に右に曲がる。この交差点の角に「月よみの庭」という一風変わった庭園がある。
街並はこの先、勘定町や鷹匠町、大手町といった町名が続き、桝形も何カ所かあってかつての城下町らしい感じが残っている。
旧街道沿いには、今井醤油店など、往時の面影を色濃く残す建物も見られる。
鷹匠町と中町の間の交差点は枡形となっており、旧街道は交差点を左折してすぐ右折していく。
この枡形で街道を外れて右に入ると、関川寺(かんせんじ)がある。
中世、白川城主で一帯を支配した結城宗廣が中興開山し、天正9年(1581)に現在地に移ってきている。紅葉に染まった境内には戊辰戦争での東軍の戦死者供養塔がある。このあたり、慶応4年5月1日の戦いで、最大の激戦地となり、東軍の戦死者は682人にのぼった。
また、赤穂四十七士の一人、中村勧助の妻の墓もある。勘助の父が白河藩士であり、討入り前に家族を白河の親戚に預けた。長男の忠三郎は連座して遠島になったものの、後に赦免され、その後白河で僧になったといわれる。
街道に戻る少し手前で、街道と並行する門前通りに出て右に進ンでいくと、白河ハリストス正教会聖堂が建っている。大正4年に建てられたビザンチン様式の漂う建築である。
その近くの皇徳寺は、大同年中(806~810)創建と伝わる古い寺で、戊辰戦争の際の東軍兵士11名の戦死人供養塔や戦死した新撰組隊士菊池央の墓、谷文晁高弟羅漢山人の墓。又、傍らに会津磐梯山で有名な小原庄助墓などがある。説明板によると、山人に絵を習いにきた会津漆器の塗り師で、久五郎という酒飲み。安政5年に没し、墓石の形は猪口と徳利、時世の句が「朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし」。
旧道に戻って、少し先の桝形を進むと、白河宿の中心であった本町(もとまち)に入る。
街道右側に、現在は堀川印刷所となっている旧本陣芳賀家跡がある。芳賀左衛門家が代々本陣を勤め、明治9年、明治天皇の東北巡幸の際に、ここで休憩されている。
本陣跡の向い側奥に脇本陣栁屋旅館跡があり、明治天皇行在所跡の看板が立っている。天皇が泊った蔵座敷や御膳水跡が残り、また戊辰の役の際の新選組の宿営地でもあった。
この後300mほどで左折して行くと横町に入る。JR東北本線のガードをくぐって田町に入り、田町大橋で阿武隈川を渡る。
田町大橋の手前に大木戸があって、白河宿はここで終っていたといわれる。
田町大橋から850m程で女石に至る。
<女石追分>
女石は、奥州街道(現国道4号)と会津街道(現国道294号)の分岐点であった。ここで会津街道は左へ、奥州街道は右へ向う。道中奉行管轄の奥州街道はこの追分が終点となっていた。
この分岐に、仙台藩士戊辰戦没之碑が建っている。この碑は、明治23年、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
この碑の傍らの「戦死供養碑」は、白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で、明治2年の建立である。
追分を奥州街道の方へ少し行った右手に遊女志げ女の碑というのがある。これも、戊辰戦争の悲劇の一駒を伝えている。
-----------------------------------------------------------------------------
この後、帰途に就くため駅に向かった。
駅前の城山公園には三重櫓と前御門が復元されている。
<小峰城>
鎌倉時代、結城朝光氏が奥州藤原氏討伐の功により、源頼朝から白河庄を与えられ、興国元年(1340)、結城氏5代・親朝が小峰城を築いた。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉により所領を没収されて、結城家による白河地方の支配は終ったが、徳川時代に入ると、寛永4年(1627)には丹羽長重が棚倉より入り、初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立。小峰城を改修するとともに城下町を整備した。
以後、幕末まで奥州街道の重要拠点として有力大名が頻繁に入れ替わる形で配置されたが、慶応2年(1866)、8代目藩主阿部正靜(まさきよ)は棚倉への転封の命を受け、戊辰戦争の時は白河城は藩主不在のままで、奥州列藩同盟軍と新政府軍の攻防の舞台となった。その結果、戊辰戦争で同盟軍は破れ、石垣のみを残して落城した。
-----------------------------------------------------------------------------
宇都宮から歩き出した奥州街道の旅は、ここで終わる。
奥州街道の所々で芭蕉の奥の細道の旅と重なるところがあって、懐かしさを感じながらの旅であったが、白河に近づくにつれて、戊辰の役の足跡がどんどん色濃くなった。
芦野から堺の明神までの間は、国道の左右に細切れのように旧道が多く残されており、それぞれの集落に特徴ある旧跡も多くあって、思いのほか旧街道の風情を楽しむことができた。奥の細道を辿る旅の時は先を急ぐあまり見逃したところであった。
今回の旅の終点の女石追分周辺は、鮮やか色づいた紅葉を堪能でき、いい旅の締めくくりとなった。