今市~白河

2017年8月22日 今市~太田原
2017年8月23日 大田原~黒羽~那須湯本
2017年8月24日 那須湯本~芦野~旗宿~白河

今回の旅は、今市から大田原、黒羽、那須湯本、芦野、旗宿を経て白河まで、那須野が原を東に行ったり西に行ったりしながら、芭蕉の足跡をたどる。
かつて、このあたりは礫が堆積する広漠とした原野がどこまでも続き、旅人にとっては踏み分け道が縦横に分岐して迷いやすく、飲み水にも窮するような難所であったという。
日光からこの地に入った芭蕉は、黒羽で14日間も滞在し、ときには馬を使うなどして周辺のあちこちに足を延ばしている。私の旅では、バスをなるべくうまく利用して芭蕉が訪れた要所を効率的に巡ることにする。それにしても、広範囲で移動距離がかなり長いうえ交通の便悪く、結構大変な旅になる。
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今市~大渡~舟生~玉生
元禄2年(1689)4月1日、日光山の参詣を終えた芭蕉は、翌4月2日、裏見の滝と含満が淵を見物し、昼過ぎに日光を後にした。
日光から大田原までは、日光街道を今市まで戻って今市から北上して日光北街道に入って行くのが一般的だったのだが、芭蕉は、日光の宿の主人の勧めで今市の手前から日光北街道の脇道に入り、大渡手前で日光北街道に入って鬼怒川を越えるルートをとっている。

私の旅の一日目は、まず始発電車で北千住に行き、東武特急に乗り換えて下今市に行く。そこからバスで大渡まで行ってから大田原に向け歩き始める計画。
東武線の下今市駅に着いたのは8:11。まずは行動食の確保をしようと売店を探すが駅構内にはなく、大渡へのバスが出るのは8:28のため、大急ぎで駅から少し離れたところにあるスーパーまで走って行ってどうにかこうにか食料を確保した。
バスの乗客は私一人だけで、ほぼ定刻の9:00に終点の大渡に到着。運転手さんに言われた通り、すぐ目の前の船場亭の駐車場を抜けて街道に出ると、そこは鬼怒川に架かる大渡橋の南詰である。茅葺屋根のこの船場亭は、後で調べたら、鬼怒川に本格的な簗を設けている名の通った食事処のようである。今回は営業時間前で寄れなかったが、一度は寄ってみたくなるような処である。(写真は対岸から見る船場亭)


大渡橋を越えると日光北街道は船生(ふにゅう)に入る。すぐ先で、国道から分かれて、天頂まで旧道が続いている。昔は大きな宿場町だった船生は、今も街道に沿って街並みが長く続き、ところどころに道祖神や出羽三山信仰の石碑などがあって、往時の面影が残っている。


街道沿いの旧家舟生観音寺、子持ち地蔵などもかつての宿場の雰囲気を醸し出す。

 

 


天頂で国道に合流した日光北街道は、少し先の玉生(たまにゅう)でふたたび国道から分かれ、旧道に入る。
旧道に入るとすぐに石垣を巡らせた屋敷があり、入口に「日光北街道 玉生宿」と刻まれた真新しい石標が置かれている。


どういう謂れのある家かと、立ち止まって眺めていたら、屋敷の中からご主人が出て来て、「どうぞ中の方に入ってみて行ってください」という。この方は、趣味で大谷石を刻んで石灯籠など色々な置物を作っているとのお話であった。

このお宅の少し先のバス停の片隅に「芭蕉一宿之跡」碑案内板があり、さらにその少し先で街道が右に曲がる路傍に「芭蕉通り」という小さな石標が立っている。芭蕉は、日光を出て間もなくかなり激しい雷雨となったため、玉生(たまにゅう)にたどりついたところで玉生の名主に頼んで宿を借りている。
小さな宿場内だが芭蕉ゆかりの地を示すものが随所にある。

そういえば、この地域の街道沿いには独特の石蔵がところどころで見られる。大谷石や芦野石の原産地に近いだけあって、石の文化が旧街道の顔つきを特徴づけている。


玉生宿は、船生に比べ小さい宿場で、じきに旧道沿いの集落はおわり、梍(さいかち)橋で再び国道と合流する。ちなみに、“梍“は、普通のかな漢変換では出てこない珍しい文字である。

玉生~矢板~大田原
玉生の先、国道をしばらく淡々と歩き、東北自動車道を越えると間もなく矢板の市街地に入る。
本町交差点のところに矢板武記念館があった。矢板武は、明治初期まで人の住めない不毛の地だった那須野が原の開拓と那須疎水開削に尽力した人物である。矢板武を初めに、広大な荒野の開拓に挑んだ明治貴族の人たちが抱いていた浪漫とその思いを結実させた苦労は想像を絶するものがある。


芭蕉は、玉生で1泊した翌朝8時頃宿を出て、黒羽に向かい日光北街道を進んだ。
途中で、草を刈っていた農夫に馬を貸してくれないかと頼むと、道を迷うのを心配した農夫が、この馬で行って馬が立ち止まったところで返してくれればよい、と親切にも馬を貸してくれたという。
この馬を追ってきた子供二人のうちの一人は小さな女の子で、名前を”かさね”という。珍しい名前で、優しい感じがしたので、
  - かさねとは 八重撫子の 名成るべし -
という句を曾良の句として奥の細道に記している。なんとなくほのぼのとした場面が目に浮かぶ句である。

ここまで国道461号の日光北街道は、矢板で国道4号の奥州街道にぶつかる。芭蕉が馬を借りたのは、ここから少し先に行ったあたりのようだが、その道がちょっと分からず、私は国道をそのまま進んでしまった。大田原へはまだ3里ほどもある。
国道4号をしばらく行くと、野崎の手前で再び461号に分岐し、大田原までまっすぐに延びる道をひたすら歩くことになる。
そうこうするうち、遠くで雷が鳴り始め、そのうち雨が降りだした。最近の雨は、局地的にとんでもない豪雨になることがしばしばであるので、予約している宿を目指して足を速めた。
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二日目は、大田原から黒羽、雲岩寺、那須湯本へと、那須野が原を東へ西へと、移動距離としては相当長いものになる。黒羽に長逗留してゆったりと時間を過ごした芭蕉の旅と同じようなわけにはいかず、できるだけバスをうまく使って、芭蕉の足跡を辿りたいと思っている。

大田原
朝食前、自転車を借りて市内を見て廻った。
大田原は、奥州街道、日光北街道、黒羽道、塩原道などの街道が集まる宿場町である。日光北街道は、大田原宿に入ると佐久山方面からきた奥州街道に合流する。少し先で塩原方面に向かう塩原道を分け、更に進んで蛇尾(さび)川を渡ったところで黒羽道と奥州街道に分かれる。

宿場中心部の街道脇に金燈籠が建っている。ここが塩原道の追分だったところで、昔から商店が多くにぎわった場所という。今も市街には石蔵など趣ある建物がところどころに残っている。


大田原は城下町でもあった。
金灯籠から黒羽の方に少し行くと、蛇尾川手前の小高い丘の上に大田原城趾がある。天文14年(1545)築城された後、江戸時代には奥州への備えで重視され、戊辰戦争の際には、大田原藩が新政府軍についたため、この城は会津攻めの重要拠点となった。
丘に上ってみたが、今は公園になっており、往時を偲ばせるものは特に見られなかった。

城趾公園を散策後、一旦宿に戻り、早めに用意してもらった朝食を摂ってあらためて黒羽に向かった。

蛇尾川を渡って黒羽道を進むとやがて道の駅「那須与一の郷」があり、そのすぐ隣に那須神社が鎮座している。街道に面して「那須神社」と刻まれた石柱が立っており、その先に杉の立ち並ぶ参道が一直線に伸びている。


<金丸八幡宮那須神社>
1600年の歴史ある那須神社は、金丸八幡宮として武家の崇敬を集めた古社であり、坂上田村麻呂や那須与一が戦勝祈願を行ったとも伝わる。中世末期からは黒羽城主大関氏の庇護を受け、現在の本殿は寛永18年(1641)、楼門は同19年に三代大関高増により再建された。

 


平成26年に本殿と楼門が国の重要文化財に指定され、奥の細道風景地名勝にも指定された。
芭蕉は、元禄2年4月13日、黒羽滞在中にここに赴いている。

黒羽
那須神社を出てしばらく行くと黒羽町に入る。
芭蕉は、黒羽に4月3日から16日まで、旅の全行程中最も長い14日間滞在している。ここには、芭蕉門弟の桃雪、翠桃(いずれも俳号)という兄弟が住んでおり、歓待されたのである。桃雪こと浄法寺高勝は、当時、黒羽藩の館代(城代家老)の要職にあった。
この長逗留の間に、付近の観光をしたり、句会を催している。このため黒羽には芭蕉ゆかりのところが多く、特に大雄寺に近い桃雪邸跡周辺には芭蕉関連のものがいろいろ整備されている。

<大雄寺(だいおうじ)>
大雄寺は、600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺で、黒羽藩藩主大関家累代の菩提寺となっている。伽藍のほぼすべてが栃木県の有形文化財に指定されていたが、たまたま、私が訪れるついひと月ほど前の7月末に国指定重要文化財となっていた。曹洞宗寺院伽藍の類型をよく残し、室町期の様式を今に伝える総萱葺き屋根の伽藍は、実に見事で、まさに国指定重要文化財として相応しいものである。
(写真左上が山門、右上が総門、左下が本堂、右下が廻廊)


寺の裏手にある藩主大関家累代墓所は、思いのほか規模が大きく、目の当たりにすると圧倒されるものであった。


今の大雄寺は、座禅会や夏休み禅道場など、催事や文化活動の場としても使用されており、この日も本堂では子供たちが集まって何かの研修が賑やかに行われていた。かしこまって観るだけのものではなく、生きた文化財であるところが素晴らしい。

<芭蕉の道>
大雄寺の少し先に「芭蕉の道」がある。車道から左に少し上って浄法寺桃雪邸跡のところが、芭蕉の道の入り口にあたる。この道沿いには、芭蕉句碑や奥の細道文学碑なども多い。
桃雪は弟翠桃とともに芭蕉を歓待し、桃雪邸には8泊もしている。桃雪邸跡周辺は、芭蕉公園となっており、静かで趣ある庭が広がっている。


庭の奥の方に進むと、桃雪邸の庭園の佳景に対する賛美の句を詠んだ芭蕉句碑がある。
  - 山も庭も うごき入るや 夏ざしき -

芭蕉の道は、桃雪邸跡の先、芭蕉の広場まで続いている。この広場は芭蕉の里の中央公園の位置づけとなっており、芭蕉の名にふさわしい趣ある庭園となっている。
広場の東屋そばにある芭蕉句碑は、鶴と芭蕉の木を描いた桃雪邸の絵の画賛の句である。
  - 鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし -


広場の少し先に、「芭蕉の館」がある。比較的新しい建物だが、芭蕉ゆかりの物や黒羽藩主大関家文書などが展示されている。芭蕉の館前には、那須野ヶ原を行く芭蕉と曾良のブロンズ像がおかれている。


芭蕉の館に立ち寄り、受付の方に、これから雲厳寺に向かうにあたり何か食料を調達したいが、近くに何かあるか相談したら、近くにはないので車で買いに行ってくださるという。街道歩きでは、食事に苦労することがしばしばなので、ここはお言葉に甘えておにぎりなどの買い出しをお願いすることにした。おかげさまで、芭蕉の館の展示を見て廻っている間に食料を確保でき、ひと安心する。
ご親切に、感謝。
この後、芭蕉の館から大雄寺近くのバス停に行き、雲厳寺に向かう。

<雲厳寺>
雲厳寺は、弘安6年(1283)に執政北条時宗により建立された。筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで日本禅宗4大道場の一つに数えられている名刹である。
石柱門の先の武茂川にかかる朱塗りの橋は瓜鉄橋(かてっきょう)と言われ、東山五橋にも数えられている。


橋を渡り、見上げるほどの石段の先に、山門、仏殿、方丈が一直線に並ぶ、典型的な伽藍配置になっている。

 


芭蕉が江戸深川で、朝夕なく参禅に赴いた禅師で、芭蕉の作風に大きな影響を与えた仏頂禅師が、かつてここ雲巌寺で修行をしたことから、黒羽滞在中の芭蕉はここを訪れ、仏頂禅師を偲んだ句を残している。
  - 木つゝきも 庵はやぶらず 夏こだち -

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黒羽~那須湯本
芭蕉は、4月16日、14日間滞在した黒羽を後に、那須湯元の殺生石に向けて出立した。桃雪邸を出たあと、翠桃邸を経てまず野間に向かう。
桃雪は芭蕉に馬と道案内人をつけてくれたが、この馬を引く男に「短冊に一句書いてくれませんか」と乞われ、風流なことを望むものだと感心して次の句を詠んであげた。
  - 野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす -
野間で馬を返してからは徒歩で奥州街道を進み、鍋掛の先で奥州街道と別れて那須湯元へ向かった。ところが、雨が降り始めたため、この日は桃雪が紹介状を書いてくれていた高久の名主高久角左衛門宅に泊まり、次の日も雨のためさらに1泊し、その次の日の昼頃、殺生石に向けて出立している。

私は、雲厳寺でゆったりと静かな時間を過ごした後、バスで一気に那須塩原まで行き、そこで那須高原行のバスに乗り換えて、黒磯経由で那須湯本に向かった。

黒磯駅前を過ぎ、那珂川を渡って那須街道に入ると、見事な赤松の林が道路沿いに続いている。東北自動車道を越えて少し行ったあたりからは、沿道に洒落た建物などが目につくようになり、リゾートエリアらしい雰囲気になる。
新那須温泉郷辺りから勾配がきつくなり、バスがエンジンをふかし始めると、やがて那須湯元に到着する。

那須湯本
湯元バス停のすぐ先に温泉(ゆぜん)神社の大きな鳥居が建ち、長い参道が続いている。
芭蕉は、4月18日夕方4時頃那須湯元の温泉宿に到着し、翌日昼過ぎから宿の主人の案内で温泉神社に参詣した。この神社には那須与一が扇の的を射抜いたときに使い残した矢などが神社の宝物となっている。芭蕉はこれを拝観し、その後、殺生石(せっしょうせき)や湯壷を見て回った。

私は、まずは予約している宿に向かった。
湯元バス停前の道路を挟んで反対側の崖道を下りると、鹿の湯のところに出る。そこから、鹿の湯通りに面して10数軒の民宿が立ち並んでおり、そこに本日の宿の松葉があった。とりあえず、大きな荷物を置き、あとで鹿の湯に寄るためにタオル片手に、殺生石巡りに出かけた。
鹿の湯の横を通り、少し先に行くとすぐに、殺生石のあるガレ場が見えてくる。

<殺生石>
殺生石は那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにある。大昔、中国やインドで悪行をつくした「九尾の狐」伝説にまつわる史跡で、狐が化身したといわれる大きな岩の周辺では、今なお独特な硫黄の香りが漂っている。


ここを訪れた芭蕉は、『殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ 真砂の色の見えぬほど重なり死す』と奥の細道に記し、次の句を詠んでいる。
  - 石の香や 夏草赤く 露あつし -

現在、この周辺は木道を通って一巡できるようになっている。木道に挟まれた真ん中が賽の河原で、緑に包まれた周囲の山並とは対照的に、草木が一本も生えていない荒涼とした光景は独特の雰囲気が漂っている。虫が重なり死すということはないが、今も硫化水素ガスが発生しており、殺生石付近に近づくことはできない。木道横には千体地蔵もあって独特の雰囲気が漂う。


殺生石の前から左の小高い丘の方に行くと温泉神社のところに出る。
<温泉(ゆぜん)神社>
舒明2年(630)創立の温泉神社は、延喜式神名帳にもその名が記載される古社である。舒明天皇の時代、狩野三郎行広という者が弓で射た大白鹿を追っていたところ、温泉に浸かり傷を癒す鹿を発見し、このことを神の導きと思い、温泉神社を創立したと伝えられている。また、那須与一が屋島の合戦前に戦勝祈願で参詣したとも伝えられている。


温泉神社に参拝したあと、ふたたび鹿の湯への近道の崖道を下り、いよいよ鹿の湯に入る。

<鹿の湯>
那須湯元温泉の源泉に建つ鹿の湯は、約1300年前の舒明天皇の御世に開湯されたといわれ、湯治場の面影をとどめた浴場として人気がある。建物は、湯川を挟んで写真右側にある受付棟を入り、川をまたぐ連絡通路で左側の湯屋に渡る形となっており、なんとも風情のある佇まいとなっている。


男湯の浴室には41度から48度までの湯船が6つ並んでいる。入浴の心得には、「入浴前のかぶり湯を済ませたら、2~3分程度、湯船に胸のあたりまで身体を沈め、その後にお湯から上がって少し休み、次からは全身浴で2~3分程度浸かり、また休むを繰り返す。お湯が高温で薬分も強いため、短熱浴といわれる浴法になり、長湯は避けるべし。」とある。私は41度の湯から順に46度の湯までは挑戦できたが、さすがに48度の湯は熱すぎて断念。

鹿の湯を堪能した後、宿に戻り、宿の前にある宿泊客専用滝の湯にあらためて入る。こちらは鹿の湯と同じ泉質だが、鹿の湯のように込み合っていることもなく、程よい熱さの湯にゆっくりつかることができる。すっかりリラックスし、旅の疲れも取れた。
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今回の旅の三日目は、那須湯本から芦野、白河の関を経て白河まで行く予定。

いつものように朝早く目が覚める。窓を開けると、すぐ下を流れる湯川の音が心地よい。旅先では、いつもは早朝散歩に出たりするのだが、何と言ってもここは名立たる湯治場ゆえ、目の前の滝の湯が5時に開くのを待ってひと風呂浴びに出る。他の客はなく、実質貸切の湯にのんびり浸かると、前日同様とてもいい気分になれた。この湯の泉質は、私に合っているような気がした。

宿に戻り、早めの朝食をいただいて早々に宿を立つ。前日、バスを降りたところにあった観光協会で、湯本から黒田原まで行く村営バスが早朝に1本だけあると教えてもらっていたので、これに乗ることにしている。
つい先ほどまで青空が見えていたが、バスを待つ間に急に雨が降ってきた。山の天気は気まぐれだ。

那須湯本~黒田原
湯本を出てしばらく下ると、一軒茶屋交差点で道は二股に分かれ、黒田原へはここで左に行く。そこからしばらくは、リゾート地の雰囲気が漂う並木が続く真っすぐな道をどんどん下って行く。
東北自動車道の下をくぐり、漆塚から県道28号線をしばらく行くと、やがて黒田原に至る。
曽良日記では、湯本から漆塚まで3里余り、漆塚から芦野まで2里余りで、道を知らないと迷うようなところだと記している。

黒田原~芦野
那須町は、那須湯本から芦野までの大きな町だが、黒田原はちょうどその中心に位置するところで、ここに町役場もある。
那須町役場の次でバスを降りると、湯本で降っていた雨はすっかり上がって猛烈な夏の日差しとなっている。ここから、まずは芦野に向けて歩き始める。

黒田原の街並みを抜けると、県道は田園地帯を貫く一本道となる。街道沿いの黄金色に輝く稲穂の香りが、何とも心地よい。


やがて道は黒川を渡り、この辺りから峠道に差し掛かる。山の方の天気が良ければ、峠から那須の連山が見えるところだが、この日は残念ながら山に雲がかかっている。

峠を越えると芦野地区に入って行き、やがて国道294号にぶつかるが、芦野の旧宿場町は国道と奈良川を越えた少し先にある。

芦野宿
芦野は、鎌倉時代からの地頭で那須一族の名門であった芦野氏が知行地としてこの地を治めていた。居城の桜ヶ城の城下町として発達し、その芦野氏にかかわる遺構があちこちに残っている。江戸時代になって奥州街道の宿駅となった芦野は、幕末に至るまで奥州20余藩の参勤交代の往来で賑わった。
大田原からそのまま奥州街道を進めば10kmほどで芦野に至るのだが、芭蕉は途中の鍋掛から奥州街道を大きく外れ、那須湯本を廻ってここに至った。

宿内の旧旅籠丁子屋は、江戸時代から300年もの歴史を持つうなぎ料理の老舗として名が通っている。折角なので食べたかったが、開店までまだまだ早すぎるため諦めざるを得なかった。
街道を少し進んだところの石の美術館ストーンプラザは、大正時代の石蔵をギャラリーなどに再生した石の美術館である。芦野は、芦野石や白河石の原産地として知られている。

ストーンプラザの少し先で路地に入り、奈良川を渡って、国道294号を横断して奥のほうへ少し行くと、一面に広がる田圃の中に大きな柳の木が見えてくる。


<遊行柳>


芭蕉は、西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、元禄2年(1689)4月19日、殺生石を見物したあと遊行柳に立ち寄った。奥の細道には、あこがれの歌枕の地に立った感慨が、『今日此柳のかげにこそ立より侍つれ』と記されている。
遊行柳は、上の宮湯泉神社の参道脇にある。参道の左右に1本ずつの柳が植えてあり、左側の玉垣に囲まれた方が遊行柳で、その傍らに芭蕉句碑がある。
  - 田一枚 植て立去る 柳かな -


もう一方の柳の下には、西行の歌碑と蕪村の句碑がある。

遊行柳の少し後方の鏡山に抱かれているような小さな社が上の宮湯泉神社で、境内には那須町指定天然記念物の大いちょうがある。


国道に戻ったところに遊行庵という無料休憩所がある。隣に茶屋もあるがまだ開店前のため、同じ棟の直売所で赤飯を二人前と茄子の漬物一袋を購入し、休憩所で腹ごしらえをする。ここでは、お茶を出してくれたり、漬物を食べやすいように取り皿を出してくれたり、大変親切にしていただいた。
今回の旅では、もともとは、遊行柳を訪れたあとは、堺の明神を経て、白坂から帰途に就く予定にしていた。しかし、ここでお茶をいただきながら、地元のおばさん方といろいろ話をするうちに、近道を教えるから、どうせなら白河の関を経て白河に出ればいい、と勧められる。芭蕉が歩いたルートと違うし、予定してなかった内容のため少し逡巡したものの、成り行きでおばさんの薦めに従うことにした。
芭蕉が向かった境の明神は、かつての下野と陸奥の国境、今の栃木県と福島県の県境の白坂峠にある。境の明神で国境を越えて白河領に入った芭蕉は、そこからさらに10町程行ったところで右に折れ、卯の花街道で旗宿に向っている。この日は旗宿に宿泊し、次の日に歌枕となっている白河の古関跡を訪れている。
*遊行柳から堺の明神を経て芭蕉が歩いた軌跡は奥州街道歩き旅のページにも記している。

芦野~寄居~旗宿(白河の古関跡)
遊行庵で教えってもらった近道というのは、寄居の與楽寺のところで国道から分かれ、峠道を通って白河の関に向かうルートである。
遊行柳から奈良川に沿う奥州街道(国道294号)を5kmほど行った寄居は間の宿であり、下野国最後の休憩地で結構賑わったといわれる。與楽寺の先の豆沢(ずさわ)の標識の立つところで、国道から分かれ、田舎道に入ると、これが延々と続く単調な上り坂となっている。

非常に蒸し暑くて熱中症の危険性が高い中、道沿いには田圃が見えるばかりの峠道を一人ひたすら歩くのはなかなか辛いものである。水分補給が不可欠なのだが、遊行庵を出てからこの峠を越えてしばらく先まで、自動販売機が一台も無いのには、少し焦った。
峠の頂上が県境で、ここを越えると、今度はひたすら緩やかな下り道となり、30分ほどで旗宿にたどり着く。峠を下ってきた道は、県道にぶつかりT字路になっている。この県道は、かつての東山道で、少し右に行ったところが白河の関である。

<白河の古関跡>
奥州三古関のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられている。


その後律令制の衰退とともにその機能を失ったが、歌枕として都人の憧れの地となり、能因や西行など時代を代表する歌人や俳人が多くの歌を残している。
もともとみちのくへの旅に思いを馳せていた芭蕉は、この地に来てみちのく路の第一歩を踏み出したことを『白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ』と感慨を込めて記している。

古代の白河の関が置かれた位置については諸説ある中で、寛政12年(1800)、白河藩主松平定信が地図や歴史書、詠歌、老農の話をもとに旗宿を関跡と定め、現在の白河神社の境内に古関蹟碑を建立した。


白河神社は、成務天皇5年(135)、白河国造命と天大玉命を祀ったのが始まりだといわれている。社殿は仙台藩主伊達政宗が奉納したものと伝えられている。


白河の古関跡~白河
ここから白河に向かうにあたり、ルート確認のため白河の関の前の駐車場にあった道路案内図をみると、「新奥の細道」なるものが示されている。「新奥の細道」というのがどういうものかよく分からないが、なんと先ほどまで歩いて来た道を戻るように示されている。地元の人に尋ねようにも、人影はみあたらず、帰りの電車の時間も気になりだして、結局、地図上はっきりしている県道76号線で白河に向かうことにした。
*後日、「新奥の細道」をネットで調べたら、旗宿を起点とし、東北6県を巡って郡山を終点とする229のコースと連絡コースから構成された東北自然歩道のことだという。

県道76号線は、大型トラックが走る舗装道路だが、時折車が通るだけの山間の道が延々と続く。途中、ほとんど人気のない道を、ただひたすら白河駅を目指して淡々と歩くしかない。

白河
やがて国道289号にぶつかると、南湖公園への標識が現れ、漸く街中に入って行く。
南湖公園は、享和元年(1801)に松平定信により造園された日本最古の公園だという。定信は、「士民共楽」という理念のもと、武士も庶民も分け隔てなく誰でも憩えるように南湖を築造した。

ここまでくれば、白河駅ももうすぐだと思うが、こういう時にはなかなかたどり着けない。やっとの思いで白河駅に着いた時には、疲れがどっと出た。
ここからは、東北本線で隣の新白河まで行き、新幹線に乗り換えて帰途に就く。
ホームにあがると、駅の直ぐ向こうに小峰城がよく見えている。

奥州関門の名城と謳われた小峰城は、結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりで、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主、丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた平山城である。松平定信をはじめ、7家21代の大名が居城したが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城。平成3年に三重櫓、平成6年に前御門が復元されている。

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近年、ゲリラ豪雨や線状降水帯と言った言葉が、日本列島のどこかで連日語られ、異常気象が常態化している。また、今年の関東地方では、梅雨明け後も夏らしい天気がほとんどなく、8月は曇りか雨のすっきりしない日が続いて、日照不足が語られている。
そんな折、8月も末になって漸く晴れの日がありそうになったので、今回の旅の日程を決めた。

結果的に、おおむね天候は良好だったが、非常に湿度が高く蒸し暑い中での旅となった。
1日目は、大田原に到着するころ雨になったが、それまでは時折青空がのぞく薄曇りで、この時期としてはまずまずの天気であった。この日は、黒羽を目指し、その手前の大田原までひたすら歩いて移動する旅であった。

2日目は、前夜から降っていた雨も上がり、久しぶりに青空が広がる日差しの強い日となった。この日は、黒羽の芭蕉ゆかりのところを巡った後、東の雲岩寺から西の那須湯本まで、那須野が原を一気に横断するような形で、バスで移動。標高900mほどで心持涼しさを感じる湯本では、殺生石を巡った後、鹿の湯と宿の外湯で泉質のいい湯にたっぷり浸かり、すっかり疲れをとることができた。

3日目は、湯本を立つときこそ雨だったが、黒田原に着いてからは青空が広がり、日差しが強く猛烈に暑い日となった。当初は、湯本から黒田原へ行くバスがないので歩くしかないと思っていたが、朝1本だけ村営バスがあって、時間に余裕ができた。それに加えて、遊行庵で薦められたこともあって、予定していたルートを変更して、白河の古関経由で白河まで歩くことにした。結果的に、白河の関までは道を間違えることもなく行くことができたが、白河の関から白河までは下調べもろくにしてなかったため、本来のルートを外れて白河にたどり着くことになった。

芭蕉の旅に比べるとかなり駆け足だったが、芭蕉の足跡を辿って数多くの名所旧跡を訪れる、密度の濃い旅をどうにかこうにか無事に終えることができた。
ときどき、暑さで意識が朦朧とするようなこともある道中ではあったが、行けども行けども田圃が広がる道筋には、稲刈りを前にした稲穂のほのかな香りが漂い、疲れた身体には心地よかった。