原町田~所沢

2010年7月24日、我が家からすぐの小田急町田まで行き、歩き旅の再開。

原町田~分倍河原
町田駅東口を出るとすぐ目の前の道が浜街道(絹の道)で、駅前広場の片隅には”絹の道碑”が置かれている。鎌倉街道は、この絹の道を渡って正面の路地を進むとすぐに突当る道で、そこを左に行って小田急線踏切を渡って行く。その先からの旧道は、消滅しているので鶴川街道を北に向かって進んでいく。

しばらく行くと左手に町田三天神のうちの一社本町田菅原神社が見えてくる。井出の沢古戦場のこの地に、室町時代に天神像がこの地に奉安されたが、寛永7年(1630)に大沢玄藩によって新たな天神像を奉安し菅原神社が建立された。


神社裏手には井出の沢古戦場の碑がある。


建武2年(1335)、鎌倉幕府再興を図り信濃から南下した北条時行(北条高時の遺児)の軍は、この地で足利尊氏の弟・直義に迎撃されたが、激しい戦いの末足利勢を破り鎌倉を占領した。しかし、一時鎌倉を占拠した時行も20日にして尊氏に滅ぼされた。

菅原神社前から鶴川街道を少し行って、恩田川の橋を渡った先を左に折れると、すぐのところに、永禄10年(1567)開創という養運寺が見える。
その先の仁王門を構える宏善寺は、文永8年(1271)、井出の沢にあった真言宗の小庵を日蓮宗に改め創建したと伝わる寺である。

すぐ前を流れる恩田川沿いを北上すると、やがて今井谷戸交差点に至る。
街道は交差点を横断して、住宅地の中の道を七国山に向かう。町田ダリア園の前を通り、七国山に向かう雑木林の中の土道に入ると、鎌倉井戸が残されている。


この井戸は新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘って軍馬に与えたと語り継がれている。すぐ横には七国山鎌倉街道の碑がおかれている。七国山は町田市の中心部にあり標高120mの山頂から相模、甲斐、駿河、など7つの国が見えたことからこの名がついたという。
鎌倉井戸のすぐ先で左へ下る土道が続いており、雑木林の中を進んで行く。


往時の雰囲気がたっぷり感じられる道を下って行くと、突然住宅地に出る。

稲荷神社の方に進んで行くと、ほどなく鶴見川に架かる新鎧橋を渡るが、そのすぐ先に鎧橋がある。新田義貞軍と幕府軍による関戸の戦いで犠牲になった兵士の屍が鶴見川を流れて折り重なって堰の如くになったといわれている。
鎧橋を渡った後、都道を右に進んですぐに左折し、野津田公園に向かう山道を上って行く。上り切ったら公園に沿う道を下って行く。

しばらく行くと小野路一里塚前に出る。元和3年(1617)、徳川家康の遺骨を久能山から日光東照宮に移す際に街道整備が行われ、その時に一里塚が造られたという。


その先で都道156号に合流すると、すぐ先で小野神社のところに出る。


小野神社の隣は旧旅籠角屋があった所で、現在は小野路里山交流館として一般開放されている。小野路は、鎌倉街道上道の他、江戸期に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還、大山街道へ至る街道が通っていて賑わっていた。室町期には既に小野路街道の宿駅の機能を有していた。交流館に沿って左に曲がって行くと、すぐ先に小野路村の旧寄場名主小島家屋敷があり、その先には高札場跡が残るなど、この周辺一帯には往時の趣が残っている。


このあとふたたび古道らしい道を辿って小さな丘陵地を超え、恵泉女学院大学脇を通って行く。

南多摩尾根幹線道路を横断すると、その先はニュータウン開発で旧鎌倉街道は消滅しているので、広大な多摩ニュータウン内の道を北に向かって進み、小田急多摩線と京王相模原線の高架下をくぐって乞田川(こったがわ)を渡る。
乞田川を渡ると現鎌倉街道は乞田新大橋交差点で右に折れるが、その少し先の六差路となっている乞田交差点まで行き右の道へ入って行く。

関戸にくると熊野神社のところに霞ノ関南木戸跡がある。建暦3年(1213)に鎌倉街道に設けられた木柵の関で、熊野神社境内参道に柵跡が残されている。


この先、関戸古戦場跡のところには地蔵堂がある。


関戸から先は、古代官道を利用した東ルートと、新田義貞鎌倉攻めの際通った西ルートの二つあって、官道は多摩川を斜めに横断して大国魂神社へ向かっている。
関戸古戦場跡のあと、大栗橋を渡って現鎌倉街道に合流し、多摩川に架かる関戸橋を渡って西ルートを北上する。京王線中河原駅を過ぎてすぐ右斜めに分倍通りへ入ると、中央高速道路の手前に分倍河原古戦場跡碑が立っている。元弘3年(1333)と北条軍がこのあたり一帯で戦った。


<分倍河原・関戸の戦い>
元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条軍を破り、さらに久米川の戦いで優勢に立った。5月15日、北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家(北条高時の弟)を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は一旦所沢方面に逃れたが、その夜、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の国人衆が多数加わり、翌16日未明再び分倍の北条勢を急襲、勝利を収め、多摩川を越えた。分倍河原から退いた北条泰家は鎌倉幕府の関所である霞ノ関付近で防衛戦を行ったが、新田軍側が勝利を収め、同日夜、泰家は鎌倉に敗走した。翌17日、関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は、18日鎌倉へ攻撃を開始。関戸の戦いから6日後の5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。

この先、国分寺に向け、府中街道に合流して北上するのだが、分倍河原駅から一旦帰宅。
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2010年8月14日、府中本町駅から府中街道に出て北に向かうのだが、その前にすぐ近くの大國魂神社を参拝する。大國魂神社は、くらやみ祭が奇祭として有名だが、大國魂大神を主祭神とする武蔵国総社であり、一歩足を踏み入れるとたちまち凛とした雰囲気に包まれる。

札ノ辻
神社から府中街道に向かうと、札ノ辻と呼ばれる旧甲州街道と府中街道の交差点には、大國魂神社御旅所の門に挟まれた高札場がある。大國魂神社御旅所は、例大祭の夜、八基の神輿渡御の際、献饌、奉幣等の儀式を行うところである。


武蔵国分寺
北府中駅を過ぎて少し行くと、街道右手の少し離れたところに武蔵国分寺跡碑が立つ跡地がある。


ここは、国指定史跡になっており、府中街道を挟んで反対側には国分寺尼寺跡碑もある。
史跡指定地内の国分寺は、分倍河原の合戦の兵火で旧武蔵国分寺が焼失した後に、新田義貞の寄進によって再建されたもので、武蔵国分寺の後継寺院となる。ここには国指定重文の薬師如来坐像が安置されている薬師堂や仁王門がある。


府中街道に戻り、西国分寺駅を過ぎると右手に恋ヶ窪用水の小さな水路が流れ、緑地の中に散歩道が続いている。そこを進んで行くと、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、畠山重忠と遊女の夙妻太夫(あさづまだゆう)との悲しい恋の伝説が残る姿見の池がある。

しばらく行くと東恋ヶ窪5丁目の5差路で府中街道は左へ折れて行くが、すぐ先の恋ヶ窪交差点のところに、厳島大弁財天の小さな祠と「弁財尊天 聚福之水」と彫られた石碑がある。


ここは、明暦2年(1657)に玉川上水から国分寺村へ水を通すために造られた国分寺村分水と貫井村方面へ通された貫井村分水の分岐点で、更に付近には国分寺村分水と恋ヶ窪村分水の分岐点もあるという水の要所であったという。

この先で、旧道は一旦武蔵野線の東側に行って玉川上水を鎌倉橋で渡り再び西側に戻って進むのだが、府中街道まっすぐ進んで玉川上水に架かる久右衛門橋を渡り、津田塾大の前を通って行くことにする。

九道の辻
この先の八坂交差点は往時九道の辻と呼ばれていた。


鎌倉街道、大山街道、奥州街道、秩父道、江戸道など9本の道がここで交差するのでこの名がついたという。鎌倉攻めの際、この九道の辻にさしかかった新田義貞は、どれが鎌倉への道か迷ったため、一本の桜の木を植えさせて道しるべにしたという。
また、ここには、立川市を起点とし埼玉県新座市を経て志木市の新河岸川に至る全長約24kmの野火止用水が流れている。玉川上水を完成させた老中松平伊豆守が、その功績により、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655)に完成させたものである。

九道の辻から府中街道を北に向かう。
新青梅街道を横切り、西武新宿線の踏初を越えるとまもなく東村山駅の駅前に出る。その先の商工会館の所で、左へ行くのが旧道で、道端に鎌倉古街道の標識が立っている。

久米川辻
ここは府中街道をそのまま進むと、やがて久米川辻に至る。その手前の分岐に常夜燈と地蔵堂がポツンと置かれている。


このあたりは、鎌倉時代から久米川宿があったところで、江戸時代には西武線東側の地区が上宿、西側が下宿と呼ばれていた。久米川辻は宿の中心で、南北方向の府中街道を軸に6本の道が複雑に交差している。

鎌倉街道は、この久米川辻を左折して西武線の踏切を越えてすぐ右折していくが、踏切を渡ってそのまま真っ直ぐ進むと、新田義貞が部下3名を供養するため建立したという元弘の碑で有名な徳蔵寺がある。
徳蔵寺の北側は久米川古戦場で、小手指河原の合戦で鎌倉軍を破って南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行われたところといわれている。古戦場西側に広がる八国山に、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き、旗をたてたといわれる将軍塚があり、そこから下ったところの柳瀬川には勢揃橋が架かっている。

今日はここまでとし、所沢駅から帰宅。