2010年8月22日、所沢駅から中心街を抜け、北に真っ直ぐ延びる県道をひたすら歩く。
所沢~西大家
中心街の元町交差点近くの実蔵院は山号を野老山(ところさん)といい、このあたりは古くは野老沢(ところさわ)と呼ばれていたことから、後に所沢と呼ばれるようになったという。
そのすぐ先の神明社は、所沢総鎮守で、境内には摂社も多数あり、 老木が立ち並ぶ古社である。
神明社の先からは、県道50号線が狭山市駅近くまでほぼ真っ直ぐに続いている。
やがて、入曽の交差点を過ぎると左手に入間野神社があり、そのすぐ先の不老川脇の観音堂裏側に七曲井(ななまがりのい)がある。
「まいまいずの井」と言われる漏斗状井戸である。まいまいずとはかたつむりのことで、井戸の水を汲むためには巻き貝の様に回りながら水際まで下りて行くような形状となっている。
この先は、真っ直ぐに延びる県道を淡々と歩き、狭山市駅手前の白山神社のところに至る。
そこから旧道は駅で分断されているが、駅西側の図書館の前を通って入間川に向かっている。
川に向かって旧道左手に入間川の総鎮守・狭山八幡神社が鎮座している。創建は室町時代初期とされる。新田義貞の信仰篤く、鎌倉幕府打倒の出陣の折、勝利を祈願している。また、図書館の北側ある徳林寺は、新田義貞が鎌倉攻めの際この地に本陣を置き、その守護仏として聖観音を安置したのが始まりと言われている。
川を渡ったあたりが入間川宿だったところで、往時は八丁の渡しで入間川を越えたが、今は新富士見橋で川を越える。
新富士見橋を渡る手前、川沿いの国道を南に少し行くと、木曽義仲の嫡子志水冠者義高が祀られている清水八幡宮が鎮座する。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁という名目で人質にされていたが、義仲が頼朝に討たれると、その身を案じた頼朝の妻政子の計らいにより密かに鎌倉を逃れた。しかし、追っ手によって、結局、ここ入間川河原で殺されてしまった。ちなみに、義高の墓は大船の常楽寺にある。
川を渡って少し先の奥州道交差点に立つ影隠地蔵は、義高が追っ手の目を逃れるために隠れた地蔵だといわれている。
この交差点からやや急な信濃坂を上り工業団地の中を通って行くと、智光山公園の広大な緑地が広がっている。
圏央道をくぐり、南小畔川を渡ってゴルフ場横を進んで行くと、国道407号との交差点には鎌倉街道交差点という名前が付いている。ちなみに、ここで横切る道は八王子から日光へ通じる千人同心街道である。
交差点を横断して少し行くと切り通しの緩い下り坂になり、その先の小畦川手前に旧鎌倉街道の碑と説明板が立っている。
高萩の集落に入り、少し進むと霞野神社がある。
この神社周辺は、女影(おなかげ)原古戦場跡。建武2年(1335)、北条高時の遺児・時行が鎌倉幕府再興をかけて信濃で挙兵した中先代の乱で、鎌倉に向かった時行軍が女影原で足利尊氏の弟義直軍と激しい戦を行ったところである。
神社脇に女影原古戦場跡碑が建てられている。
この合戦で足利直義の軍を破った時行は、更に小手指原、府中、そして井手の沢での決戦にも勝利し、鎌倉を占拠するも、20日後には足利尊氏に滅ぼされた。
霞野神社から旧道に戻り、JR川越線の踏切を渡って道なりに行き、小畔川渡る。
小畦川を渡った先は、見渡す限り平坦で整然と区画された旭ヶ丘地区を通る。ここはもと陸軍高萩飛行場だったところである。
旭ヶ丘を抜けると駒寺野新田、その先は鶴ヶ島市町屋で、県道に出て踏切を渡るとすぐ右側が東武越生線の西大家駅である。
直ぐ右手に延喜式内社である森戸の国謂地祇(くにいちぎ)神社がある。
国謂とは国井であり、大昔からその土地にある湧水を意味するのだという。地祇は土地の神様のことであり、この神社は湧水を利用して農耕を営んでいた人々が祀った神社ということになる。
西大家駅前に来たところで、今日はここまでとした。
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2010年8月29日、西大家駅に着いて前回の続きを歩く。この先、旧街道は鉄道路線を離れてゆくので、鉄道に最接近する秩父鉄道小前田か東武東上線男衾あたりまで、かなりの距離を歩くことになる。
西大家
西大家駅から国謂地祇神社の横を通って北へ進むと、民家もまばらな道が続き、高麗川を森戸橋で渡るとやがて県道川越越生線に出る。県道を左へ少し行き、鎌倉街道の標識の立つところで、右の細道に入り、農地の間を抜けて行く。
やがて左に埼玉医科大、特別支援学校が見えてくる。越辺川(おっぺがわ)の手前の広い道に突き当たったら越辺川に沿うように北に向かって進み、苦林の先で橋を渡る。
越辺川を渡った今宿交差点には、地蔵堂と石仏が並んでいる。今宿は昔の苦林宿に対して新しい宿という意味であり、江戸時代になってから開けたという。
しばらく県道を北へ行くと、やがて鳩山中学のあたりに至る。その先しばらく行くと大橋交差点がある。ここに架かる新橋を渡り、北に少し行くと笛吹峠に向かう笛吹通へ入って行く。地図で見ると、このあたりにはゴルフ場がいくつも並んでいる。
笛吹峠
ゆるやかな坂道を行くと、すぐに鳩山村と嵐山町の境の笛吹峠を越える。
正平7年(1352)新田義貞の三男義宗等が小手指ヶ原で足利尊氏と戦い、最終的に笛吹峠で敗れた義宗等は越後に落ち、足利尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった。
峠を越えて将軍沢を降りて行くと、坂上田村麿ゆかりの縁切橋に至る。東国へ遠征した坂上田村麿がこの地で軍勢の準備に追われている時、京から心配のあまり奥方が追って来てここで会ったが、「大命を受けているのに、妻女が来るとは何事か、今から縁を切るぞ」と宣言したことから縁切橋の名が付いたという。
その先の大蔵は、木曽義仲の父で源頼朝の叔父にあたる源義賢のゆかりの地である。大蔵の十字路を左折して少し行くと、森の中に大蔵神社がある。この付近一帯が、源義賢が居住したという大蔵館跡であると云われる。
大蔵館跡を過ぎて都幾川を渡ると嵐山町菅谷地区に入り、国道254号を西に少し行くと菅谷館跡がある。
菅谷館跡は畠山重忠の居館跡であるとされている。畠山重忠は鎌倉幕府創設に多大に貢献し、宇治川の合戦や一の谷の合戦、奥州藤原氏の征討などで多くの手柄をたてたが、頼朝の死後、北条氏の陰謀により二俣川で謀殺された。
嵐山
ここから北に少し行くと武蔵嵐山駅に向かう。武蔵嵐山は京都の嵐山に似た景勝地として名付けられた。
武蔵嵐山駅を過ぎると、北側に走る関越自動車道と並行する県道をひたすら歩いていく。
やがて国指定史蹟の杉山城跡がある小高い丘が右手に見えてくる。杉山城の詳しいことは不明だが、松山城主上田氏の家臣、杉山主水の居城と地元では伝えられている。
関越道嵐山小川ICに接続する県道を過ぎ、新川に架かる高橋を渡るとやがて奈良梨である。
この先、県道は能増を過ぎ、市野川を渡って坂道を上がり切ると今市地蔵前交差点で、分岐のところに地蔵堂がある。左へ行くと今市の集落で、真っすぐな道の両側に家並みが並んでいる。
今市の集落から先、県道を道なりに行けば荒川を渡って花園に出るが、帰りの電車をどこで乘ればいいか迷った上、北柏田交差点で左にそれて、少し遠いが6kmほど離れた男衾(おぶすま)駅に向った。