小前田~高崎

2010年10月17日、東武東上線寄居まで行き、そこから秩父鉄道小前田まで行って再開。今回は、ゴールの高崎までを目指す。

小前田
小前田は、往時、鎌倉街道と秩父往還(県道140号線)が交差する交通の要所であった。小前田駅のところから県道175号線を北に進むと、少し先で県道と交差するが、その先の原宿は鎌倉街道の宿駅だったところで、集落の中央付近には八幡神社が鎮座している。


八高線用土駅前を過ぎると、やがて右手に普門寺がある。その先の野中交差点あたりは、猪俣、児玉、横山、村山、野与、丹、西、などで知られている武蔵7党の一つ猪俣党の本拠地で、保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名である。街道を西に外れたところには、史跡がいくつか残っている。ちなみに、武蔵7党は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

街道をさらに行った天神橋のところで国道を渡ると、すぐ左斜めに分かれる道が旧道である。ここから先の旧道は国道に沿ってジグザグにつかず離れず、児玉手前のみか神社あたりまで続いている。
旧道に入るとゆるやかな上り坂になって、すぐ右手に雷電神社がある。征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の為、この地に至った時、激しい雷に遭遇し、これを鎮めるために雷電を祀ったのが始まりと伝えられる。

庚申塔や道祖神などがところどころに残る旧道らしい道を進んで行く。
広木というところで、枌木川にさしかかったら旧道を少し外れて、川沿いを少し行くと曝井(さらしい)の遺跡がある。さらし井は枌木川の端にある岩石で囲まれた湧き水で、その昔、織布を洗いさらすために使われ、ここでさらされた布は多く調庸布として朝廷に献納されたという。


旧道に戻って西へ進むと、途中に国道北側にあるみか神社の参道入口がある。


参道は国道に分断されて、常夜燈だけが残ってしまったようだ。みかとは酒造りに使う大型の甕のことで、周辺の美里町・児玉郡は古くから拓けた地で数多くの古墳が点在、埴輪や甕等の土器が製作されていたという。

みか神社の先から一旦国道254号を歩いて行くと右手の畑の中に幾つかの小山が見えるが、これは広木・大町古墳群で、6世紀から7世紀にかけて造られたもので8基が保存されている。
その先の広木一里塚跡のところで、再び国道から分かれて旧道に入り、小山川を渡って児玉市街に入っていく。

児玉
児玉中央病院の先、龍體稲荷神社の前を抜けて旧道らしい風情ある道を北に向かう。少し行くと玉蓮寺の裏手に至る。玉蓮寺は児玉党の領主、児玉六郎時国の開基で境内は時国の館跡である。日蓮上人が佐渡に流罪となった時と赦免を得て佐渡から帰る時、ここに泊まったと云われる。
玉蓮寺の西隣には東石清水神社がある。源頼義、義家親子が奥州平定後鎌倉へ帰る途中この地に立ち寄り、京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まると伝えられている。

北に向かい、児玉駅前通りにでたら、T字路を左に少し行き、すぐ先の分岐の左小路が鎌倉街道で、しばらくは道なりに直進する。
JR八高線ガードをくぐり、長福寺脇を通ってから左の方にまわりこんで雀の宮橋に出たら、この先、八高線沿いに進むが、赤根川踏切を越えた所に塙保己一の生家がある。江戸時代の国学者塙保己一は、盲人ながら歴史書の『群書類従』、『続群書類従』を編纂した人である。
塙保己一の生家には寄らず、そのまましばらく進んで熊野神社のあたりで八高線の踏切を越える。
踏切を越えてしばらく進むと、やがて丹荘駅近くの神川町役場前を通る。

丹荘
県道を越えて低地を下りて行くと、田畑の真ん中を突っ切って神流川に突き当たる。当時の渡し場跡である上肥土まで来ると、付近には橋がなく、最寄りの橋は下流に3kmほども行った藤武橋を渡るしかない。やむなく、とぼとぼと神流川堤防上の道を歩き、藤武橋を渡る。


本来なら、ここから丹荘側の渡し場跡である神川町上肥土対岸の本郷道中郷まで行って鎌倉街道に復帰し、先に進むところだが、ゴールの高崎までの行程を考えると時間的に無理があるため、藤武橋を渡ったらそのまま国道254号を進み、出来るだけ高崎までの最短ルートを行くことにする。

山名
上信越自動車道のガードをくぐったあたりで鎌倉街道に復帰し、しばらく行って鏑川(かぶらがわ)を渡ると高崎市に入る。
高崎商科大学の前を通って烏川(からすがわ)を渡り、新幹線に沿って進むといよいよ市街に入る。
新幹線のガードをくぐると右に荘厳寺、左に琴平神社がある。この琴平神社にはいろいろ珍しいものがあるというので立ち寄ってみたいところなのだが、今回は時間の余裕が無いので残念ながらパスして先を急いだ。

高崎
高崎市中心街の高崎駅前通りを渡ると官庁街の一角に高崎城址がある。城下町の面影を残す東門、乾櫓、お堀が残っていて、跡地は城址公園になっているが、ここに辿り着いた時にはすでに陽も落ち真っ暗闇となっていた。(下の写真は乾櫓)


ちなみに、高崎城は慶長3年(1598)箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により和田城跡に築いた城である。秀吉の命により江戸に移封となった家康は、このころすでに後の五街道整備に着手しており、各地と覇府鎌倉を結ぶという鎌倉街道のかつての役割は薄れていた。
和田城の築年は定かでないが、鎌倉幕府の初代侍所別当などを務めた和田義盛の後裔が築いたといわれる。有力御家人だった和田義盛だが、頼朝の死後北条氏と対立し、延暦3年(1213)の和田合戦で敗れて一族はほとんどが滅亡した。そんな中、義盛の6男・義信(一説には8男・義国)が上野国に逃れ、現在の高崎市箕郷町和田山に蟄居したとされる。その後、次第に勢力を増した和田氏は、13世紀初めに赤坂(後の和田、現高崎)の地に移り、その後裔が和田城を築いたとされる。
戦国時代には、この地域は上杉・武田・北条といった大勢力の抗争の中にたびたび置かれ、和田氏が小田原北条氏に属した為、天正18年(1590)の小田原の役での北条家滅亡にともない和田城は廃城にされた。
近世に於いて中山道、三国街道を中心に交通の要衝となった高碕は、中世に於いては古代東山道が通り、鎌倉との繋がりとともに越後や信濃、京都とも繋がる重要な地であった。

神流川越えで大きく迂回したあと、高崎に至るまではゆっくり街道歩きを楽しむ余裕は無く、ただひたすら歩くことになってしまった。
ようやく高崎にたどり着いて一息つきたいところであるが、早々に高崎駅から帰途についた。
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私の初めての街道歩き旅は、こうして何とか無事ゴールすることができた。
鎌倉街道というだけあって、この街道の行く先々で、鎌倉幕府成立から消滅に深くかかわった関東武士たちの栄枯盛衰を垣間見ることができた。同時に、私自身が普段暮らしている地域に関わることを含め、この時代についてあまりにも知らないことが多いことに気が付いた。
歩き終えた今、鎌倉、室町時代から安土桃山時代に至る中世の歴史と文化について、あらためてじっくり勉強してみようという気持ちが湧いて来ている。