江戸城~川口

2023年7月4日 江戸城~川口

大手門~岩淵
江戸城大手門を出た将軍一行は、神田橋を渡り、現在の昌平橋手前で少し右に行った筋違橋を渡ったら、左に曲がって旧中山道に合流し、そこから本郷追分まで中山道を進んでから御成道に入った。

今回の旅では、大手門を出発点に歩き始め、大手町交差点で左に曲がってまずは神田橋に向かう。それにしても、大手門前は東御苑を訪れる大勢のインバウンド客で朝から賑わっていた。


神田橋に向かう途中、読売新聞社前交差点を左に少し行った将門塚に寄道した。


平貞盛に討たれた将門の首級は京都に送られたが、三日後に白光を放って飛び去りこの地に落下したのだという。

元来た道に戻るとほどなく高速道路に覆われた神田橋が見えてくる。江戸時代にはこの手前に江戸城外郭門のひとつ神田橋門があり、周辺は空き地であったという。
その先、神田美土代町を抜けたら小川町交差点を右に曲がっていく。美土代(みとしろ)という町名は、伊勢神宮にささげる初穂をつくる水田の御田代があった故事からつけられたといい、神田も同じ故事に由来するという。
このあと、往時は、筋違橋門のところに架かる筋違橋を渡った。筋違橋門は、将軍が上野寛永寺や日光に出向く御成道にあったので御成門とも呼ばれていた。筋違橋は、現在の万世橋と昌平橋の間に架けられていたが、今はないので万世橋を渡ることにする。万世橋は筋違見附を明治5年に取り壊した時に出た石材を再利用して架けられた。


万世橋を渡って左に進み、旧中山道に合流して神田明神下交差点で左に曲がり坂を上って行く。中山道歩き旅でここを歩いたのは2012年だったので11年ぶりになる。
坂の左側には湯島聖堂の築地塀が重厚な佇まいを見せている。湯島聖堂は元禄3年(1690)に徳川綱吉によって建てられた孔子廟で、その後、昌平坂学問所として使われていた。
坂の右側には、少し道路を入った奥に朱鮮やかな神田明神楼門が見える。


天平2年(730)創建というから長い歴史を持つが、江戸城増築に伴い現在地に遷座させられた。江戸三大祭りの一つに数えられている神田祭りだが、コロナ禍のため今年は4年ぶりの通常開催となって大いに盛り上がっていた。

しばらくすると、本郷3丁目交差点に「本郷も かねやすまでは 江戸の内」という川柳で有名なかねやすがある。現在は洋品店であるが元々は亨保年間に兼康祐悦なる人物が歯磨粉を商う店であった。
交差点を渡った先の歩道際に「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」の説明板が建てられている。江戸から追放される罪人を親類縁者が涙で見送った所であった。
別れの橋跡のすぐ先、左へ下る道が菊坂通りで、石川啄木・宮沢賢治・樋口一葉・坪内逍遙など名だたる文人所縁の地である。

本郷通りを少し行くと東大赤門が見えてくる。東大本郷キャンパスの中心は前田家の屋敷跡が使われており、赤門は文政10年(1827) 11代将軍家斉の溶姫(やすひめ)が前田家に輿入れしたときに建てられたもの。

本郷追分
レンガ造りの趣のある塀が続く歩道をしばらく進むと、やがて本郷弥生町交差点を渡った先の丁字路交差点に至る。ここが中山道と御成道の追分だったところで、交差点角にある宝暦元年(1751)創業の高崎屋という酒屋の前にかつて中山道最初の一里塚があった。今は、高崎屋の中山道側に追分一里塚跡説明板がひっそりと置かれている。


高崎屋の御成道側の正面には東大農学部正門が構えている。
その少し先、とうがらし地蔵が有名な正行寺の向かい側の道を入ると、東京10社の一つ根津神社が鎮座している。
根津裏門坂の方から入るが、表参道の方まで回ってあらためて神橋を渡ると、楼門、唐門、権現造りの拝殿・本殿と、どれも国の重要文化財に指定されていて歴史の重みを感じるみごとな建物が続く。


社殿を囲む透塀(すきべい)も実に見ごたえがある。


境内左側の乙女稲荷神社に沿う高台斜面は約2000坪のつつじ苑になっていて、50品種3000株のツツジが植栽されている。今は時期ではないが、開花している様子が目に浮かぶほどの見事さである。

街道に戻り500mほど歩いた天栄寺前に駒込土物店跡碑と青果市場跡碑が建てられている。ここは近隣の農家が農作物を持ち寄って販売し、後にやっちゃ場(青物市場)に発展したところである。

やっちゃ場跡から数分先の南谷寺境内に祀られているのは目赤不動尊


伊賀国赤目山で不動明王を授けられたので赤目不動と言われていたが三代将軍家光から「目赤不動尊とせよ」と言われ目赤になったのだとか。ちなみに江戸時代から目白・目黄・目青・目黒とともに江戸五色不動として多くの参拝者があった。

それにしても、この界隈の街道沿いには非常に寺が多い。

さらに数分歩いた右側の吉祥寺は太田道灌が江戸城内に開いたという由緒のある寺。徳川家康関東入府にともなって水道橋に移され、明暦の大火後駒込の現在地に移っている。


ちなみに、この寺には「お七・吉三比翼塚」なるものがある。八百屋の娘お七が恋した相手はこの吉祥寺の寺小姓・吉三郎であった。

吉祥寺を出てしばらく進むと左側路地を入ったところに六義園入口がある。川越藩主・柳沢吉保が元禄8年(1695)、五代将軍徳川綱吉より下屋敷として与えられたこの地に7年の歳月をかけて桂離宮の様式を取り入れて造らせた。明治時代に入り三菱創設者岩崎弥太郎の所有となった後、昭和13年に東京市に寄付され、現在は東京都立庭園の一つとなっている。かつて庭園巡りで訪れたことがある。

街道を進んで六義園染井門前を過ぎ、山手線上の駒込橋を渡ると妙義坂と言われる下り坂になる。
坂の途中、右側に妙義坂子育地蔵尊の御堂が設けられており、道路を挟んだ反対側のやや狭い路地を入ると妙義神社が鎮座している。


白雉2年(651)に白鳥社として創建されたという古社で、太田道灌も戦勝祈願したという。

霜降橋信号の先、石垣に沿って大炊介坂(おおいのすけざか)を上り、左に曲がっていくと旧古河庭園入口がある。六義園同様、東京都立庭園の一つである。もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅で、のちに古河家の所有になったもの。英国風洋館と洋風庭園は、鹿鳴館の設計を手がけたイギリス人ジョサイア・コンドルの設計になるもの。かつて訪ねたことがあるが洋風・和風の庭園が見事に調和していて素晴らしかった。

古河庭園前で左に大きく曲がった街道の右手には、滝野川消防署の横に平塚神社の鳥居が見える。
そこからしばらく進むと、道路の真ん中に見えてくる大きな木は西ヶ原一里塚


これは、江戸から2番目の一里塚で、左右とも現存している貴重なもの。道路改修に伴って撤去されそうになったところを、渋沢栄一等による運動で左右共に保存が実現したという。 道路の真ん中に見えたのは左塚で、右塚は道路の右側に残されている。

一里塚の少し先から六石坂の下りとなるが、この坂の右側が、八代将軍吉宗が鷹狩りの際しばしば立ち寄ったという飛鳥山で今は公園となっている。
公園に入ってすぐ右側の渋沢栄一の居宅があったところは、現在は旧渋沢庭園となっており、晩香慮(ばんこうろ)と青淵文庫といった重要文化財指定の貴重な建物がのこされている。
また、公園内には元文2年(1737)に建てられた飛鳥山碑があるはずだが、見落としてしまった。この碑には、将軍吉宗の治世が行き届いて世の中太平である事、等縷々記されているが、すべて格調高い漢文形式であることなどから難解の碑といわれている。

飛鳥山公園をさらに進んでいくと、公園の左側の国道122号を都電が走っている。
街道は、すぐ先の音無橋のところから右に曲がり、王子駅の方に向けて飛鳥大坂の急坂を下っていく。この急坂をものともせず上ってくる都電を見たときにはしばし見とれてしまった。


音無橋の下は音無親水公園となっている。かつてこの辺りの渓谷は江戸時代には物見遊山の客で賑わう観光名所だったという。河川改修工事で石神井川の流路は大きく変わったが、残された旧流路にかつての渓流を取り戻したいとして音無親水公園となった。鎌倉街道中道を歩いた時に立ち寄ったここから少し上流の音無もみじ緑地のところもかつては物見遊山客で賑わったということだったが、そこで見た深い渓谷の雰囲気がふたたび思い起こされた。

急坂を下った先の王子駅周辺は、石神井川(音無川)を渡るところでJRガード、道路などが複雑に交差しており、地図など全く役に立たず手探りで道を探りながら進んだ。
一旦急坂を下った街道は、王子駅周辺商店街の複雑な道を抜け、王子神社の北で王子大坂(うとう坂)の急坂を上ってふたたび河岸台地の上に戻り、十条方面へ向かった。

岩淵~川口
しばらく進んだところで音無橋を直進してくる都道455号線に合流し、さらにその先で鎌倉街道中道と合流する。
この先、富士神社、稲付一里塚跡、稲付城跡、岩淵宿等を経て川口までは、つい先頃鎌倉街道中道の旅で歩いたばかりなので、このページでの記載は省略する。