大門~岩槻

2023年5月24日 大門~岩槻

JR武蔵野線東川口駅から西の方へ坂を上り、県道105号線に出て御成道の旅を再開。

街道に出るとすぐ右手に諏訪大明神が鎮座する。
この先、県道に歩道はなく、ラッシュアワーのせいか車の通行量が非常に多いため気が抜けない。
やがて大門小学校入口交差点で国道463号に合流すると、交通量が一層多くなる。一応歩道はあるが人一人が何とか歩ける程度のため、すれ違うたびに譲り合いが必要になる。

大門宿
国道が大きく右に曲がるとすぐ右手に大門神社の鳥居が立ち、その奥の方にかなり長い参道が延びている。
大門宿は本陣と脇本陣それぞれ1、旅籠6軒という小さな宿場で、将軍はここでは休憩する程度であった。
車に気を付けながらしばらく歩くと、大門宿本陣表門がある。寄棟造り茅葺屋根の長屋門は、300年以上前の元禄7年(1694)築造というが、しっかり維持されている。


斜向かいには脇本陣表門があり、こちらも立派な寄棟造りの茅葺長屋門で、築造は安永5年(1776)と云われている。


この先で国道463号は左に曲がって行くが、御成道は真っすぐ進む。
右手に見える大興寺山門を入ると供養塔や庚申塔などが多数並んでおり その中でもひときわ大きい徳本上人念仏供養塔は文政4年(1821)の建立という。

大興寺の先で街道は東北自動車道とそれに並行する国道122号を横断し、あらためて県道105号線を進んでいく。
ほどなく今度は国道463号の浦和川越バイパスを越えていく。
東北自動車道の浦和ICのあるこのあたり、国道や高速道が大規模に整備されているのだが、旧街道を歩く旅人にとってはまるで異次元の世界に来ているような感覚に陥る。

バイパスを越えて進んだすぐ先の美園公民館入口近くに玄蕃新田庚申塔が静かに佇んでいた。ここで再び静かな街道を歩きに戻る。
しばらく歩いて市立美園中近くに来ると、左側の草木に隠れるように庚申塔が一基置かれており、すぐ先の道路右側には庚申塔が2基置かれている。
この先もこの街道筋にはところどころで庚申塔が見られる。

しばらく先右手に浦和学院がある代山地区に入ると、左手に上野田の鎮守氷川神社が鎮座する。


由緒書によると、見沼代用水東縁流域の農業地域の一角にある上野田は江戸中期から将軍家の保護のも「野田の鷺山」として知られ鷺の一大繁殖地であった。その後、環境変化により鷺の飛来は絶えている。

ほどなく、街道左側にさぎ山自然公園が見える。公園の奥の方には見沼自然公園が広がっており、広場に見沼代用水を建設した井沢弥惣兵衛為永の銅像が立っている。井沢翁は延々80kmにも及ぶ代用水を、わずか5ヶ月で完成させたという偉業を成し遂げた。


さぎ山自然公園と見沼自然公園の間を流れているのが見沼代用水東縁。

<見沼代用水東縁>
徳川吉宗の時代に見沼溜井を干拓して新田開発し、新たに利根川から用水を引き、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する工事が行われた。芝川の西側の用水を西縁、東側を東渕という。利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれた。

街道に戻ってしばらくは見沼代用水東縁に並行して歩く。
やがて膝子地区に入ると右手に光徳寺が見える。光徳寺は、三代将軍家光以降十三石の寺領を拝し、将軍社参の際、休息所になった。
すぐ先の膝子一里塚は江戸から8里岩槻へ1里に位置し、現在は東の塚のみを残している。


街道はやがて綾瀬川に架かる御成橋(大橋)を渡り、岩槻宿に入る手前で逆U字形に大きく曲がる。
東北自動車道手前で左に曲がり、東武野田線の踏切を越えて東北自動車道の下の工事中のところをくぐったら右に曲がって国道の方に戻っていく。
国道に戻ると、そこにわらしべ人形像が置かれている。


岩槻宿
岩槻は岩槻城の城下町であり、日光社参の将軍が最初に泊まる宿場として発達した。国内有数の人形の産地としても有名で、日光東照宮造営に携わった工匠が岩槻にとどまり、人形造りを始めたといわれる。とにもかくにも人形店が多いということがこの町の大きな特徴である。 
わらしべ人形像のすぐ先右手に加倉の久伊豆(ひさいず)神社が鎮座する。岩槻の東側に鎮座する同名神社は岩槻城域内に位置する岩槻の総鎮守である。

この先、岩槻には人形店とともに多数の寺社がみられる。
通りの左手の浄国寺は、天正15年(1587)建立され、同19年寺領50石の朱印を受け関東18壇林の一つとなった古刹である。本堂の左側を入った奥に岩槻城主阿部家の墓所がある。

江戸時代、六斎市で賑わった旧市宿町を通る街道筋は、すっきりときれいな街並みとなっている。
嘉永年間(1844~55)創業の老舗和菓子屋田中屋本店の少し先、街道左手の芳林寺は岩槻太田氏や藩主高力家ゆかりの寺で、境内には太田道灌像がある。


江戸城、稲付城、河越城を築城した太田道灌は築城名人と言われ、岩槻城も太田道灌の築城によるともいわれている。

街道に戻り、少し歩くと岩槻駅入口交差点で、御成道は少し先の渋江交差点で左に曲がっていくのだが、ここから岩槻城址に寄り道することにした。

15分ほど歩いた先が岩槻城址公園となっており、岩槻城黒門と裏門が復元されている。


城址公園から街道に戻る途中、時の鐘に立ち寄る。


寛文11年(1671)に、当時の城主阿部正春が造らせたもので、「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」とうたわれるほどのものだった。近くの岩槻藩遷喬館は、寛政11年(1799)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯が開いた私塾で、後に藩校となったもの。

渋江交差点まで戻って御成道の方に歩みを進めると、ほどなく右手に浄安寺がある。浄安寺山門は岩槻城の田中口門を移築したもので槍返しの門とも云われていた。本堂左奥には児玉南柯の墓などがある。

今回はここで切り上げて、岩槻駅から帰途に就いた。