2023年3月4日 鎌倉~大船~下永谷
まずは旅のスタート地点として鶴岡八幡宮に向かう。我が家から鎌倉へは小田急線の藤沢からJR線が早いが、この日は天気がいいので、江ノ電で稲村ケ崎に寄って江の島越しの富士山を眺めてから行くことにした。
鎌倉駅から若宮大路に出るとすぐ左手に大きな二の鳥居があり、そこから三の鳥居までは一段高くなった段葛(だんかずら)と呼ばれる道が鶴岡八幡宮本宮に向けまっすぐ延びている。
鶴岡八幡宮の参道である若宮大路は、由比ヶ浜の一の鳥居から鶴岡八幡宮までおよそ2kmのまっすぐな道で、鎌倉の街の中心を貫いている。
段葛を進んで三の鳥居をくぐると、右手の源氏池に旗上げ弁財天社が見える。源頼朝旗上げに際して妻の北条政子が建立したと伝えられている。
少し先の流鏑馬馬道を左に曲がり、県道21号線に出て北へ100mほど行くと、車祓所のところで左へ入る上り坂が見える。ここが鎌倉七口の一つ巨福呂坂(こぶくろさか)の旧道になる。
ちなみに、鎌倉七口は巨福呂坂のほか、極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、朝夷奈切通、名越切通の6つの切通からなる。
巨福呂坂の旧道に入って行くと、正面に巨福呂坂送水管トンネルが見えてくる。そこを右の細道へ進むと青梅聖天社参道の急な階段が崖に張り付いている。そのすぐ先には庚申塔や道祖神などの多数の石仏・石塔が並んでいて旧道の趣が少しばかり残るが、その先の突き当りで旧道は消滅していて先には進めなくなっているので元来た県道に戻る。
現在は巨福呂坂切通しに代わり、県道の巨福呂坂洞門を通っていく。
洞門を抜けたところで振り返り見ると、洞門の右横に古びた鎌倉市の巨福呂坂送水管トンネルが見える。先ほど旧道で見えていたトンネルの反対側になる。
巨福呂坂洞門のすぐ先の建長寺は、北条時頼が建長5年(1253)に創建した禅寺で、鎌倉に数ある寺の中でも特に名が知られている。多数の文化財が見られる寺だが、たまたま大学の恩師の墓所が境内塔頭にあることから近年何度か訪れている。
建長寺と道を挟んだところにある長寿寺も建長寺塔頭のひとつ。
足利尊氏により建武3年(1336)に創建され、尊氏没後、父の菩提を弔うため初代鎌倉公方足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。境内裏山に尊氏の遺髪を埋葬した五輪塔がある。街道からは、階段上に江戸後期に造られた茅葺の山門が見える。拝観は季節・曜日限定ということだが、一度は訪れてみたい。
この後も、街道を進むにつれて、明月院、東慶寺、円覚寺と次々に名刹の前を通るため目移りしてしまう。
円覚寺に近い北鎌倉駅前を通り過ぎると、少し先で小袋谷川に架けられた小さな十王堂橋を渡る。
しばらく行った小袋谷信号の一つ先の変則五差路のところに架かる橋は水堰橋(すいせきばし)で、鎌倉街道はこの橋の手前を右に曲がる。橋際にせゐ志しく橋碑と観音道標が建てられている。享保12年(1727)建立の道標上部に観音菩薩の浮き彫りがあり、下部に「右とつか」「左藤さわ」と刻まれている。
鎌倉に駆け付けた武士達がここで隊列を整えたといわれ、そのことがこの橋の名の由来される。
水堰橋手前を右に曲がっていくと、JR横須賀線の踏切の向こうに成福寺(じょうふくじ) の茅葺の山門が見える。この寺は三代執権北条泰時の子、泰次によって開かれた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。
住宅街の細い道を進んでいくと、交差点向う側に離山富士見地蔵尊が見えてくる。かつて街道沿いに三つの独立した山があったことからこの附近は離れ山と称され、この辺にはその一つである地蔵山があったという。
地蔵の横に立っている標柱の側面には旧鎌倉街道中ノ道と刻まれている。
旧道はその前の住宅地の中の細い道だが、右の方に曲がって大船中学校前を通って行くと常楽寺がある。すぐ近くに知人宅があって、このあたりには何度か訪れたことがある。
嘉禎3年(1237)、三代執権北条泰時が義母の供養のため粟船御堂を創建し、仁治3年(1242)泰時がなくなるとこの地に葬られ、その法名をとって常楽寺と呼ぶようになった。
後に、建長寺を開山した蘭渓道隆が五代執権北条時頼により鎌倉に招かれた際、建長寺が出来るまでは常楽寺の住持としてここで禅を広めたこともあり、臨済宗建長寺派においては「常楽は建長の根本なり」と重視され続けたという。
また、この常楽寺裏手の山の中には木曾塚(木曽義高の墓)があり、「木曽清水冠者義高公之墓」と彫られている。そのすぐそばに粟船稲荷姫宮の墓があるが、これが大姫の墓かどうかは定かではない。
離山交差点の方に戻って鎌倉街道に戻り、しばらく行くと大きな工場に阻まれて旧道は消滅するため、ここは大船郵便局の方に迂回して進む。
旧道に復帰するとやがて右手に笠間の鎮守青木神社の参道が見えるが、参道の先に見上げるような急な長い階段が延びている。ここは手を合わせるだけでパスして先に進む。
少し先の道路際に笠間の庚申塔と呼ばれる4基の庚申塔が並んでいる。左から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年(1823)、万延元年(1860)の建立で、笠間村の出入り口で魔除け厄除けとして祀られた。
少し進んだ法安寺の先に道標を兼ねた今泉村不動が建っている。宝永7年(1710)に建立されたものでちょっと分かりづらいが、道標には「今泉村不動 江之道」と記されている。
この先の笠間交差点は3本の道路が交差しているが、一点で交わるのでなく少しずれている変則的六差路になっているので、まことに分かりにくい交差点である。車で何度も通っているが、いつもとまどってしまう苦手な交差点だ。
交差点を越えるとすぐにいたち川に架かる新橋(にいばし)を渡る。
新橋を渡った右側に延命地蔵ととつ加道道標が並んで立っている。道標には、「従是とつ加道」 「従是ぐミやうじ道」と記されており、右へ行く「ぐミやうじ道」が旧鎌倉街道になる。
往時、このあたりには宿駅があり、鎌倉公方が武蔵国へ赴く時はここで昼食をとることが慣例になっていたそうだ。
ぐミやうじ道に入って西本郷小学校の少し先、住宅地に稲荷神社の小さな祠と馬頭観音、地蔵、庚申塔などの石仏群が並んでいる。
旧鎌倉街道はJR根岸線のガードを潜った先の三叉路を左の細い道に入る。 左角の大きな屋敷の石垣下に正徳5年(1715)建立の道標があり、「従是ぐミやうじ道」と記されている。
おおきな長屋門が備わっているこの屋敷の石垣に沿って細い上り坂を進むと、やがて本郷台小学校脇を通り、本郷台地区の大規模な新興住宅地の中に入って行く。
しばらくは尾根筋の見晴らしの良い道を進み、小菅ヶ谷小学校近くを通って環状3号を跨道橋でまたいで行く。
その先もしばらく住宅地を通り、やがて舞岡公園の中を進んでいくと、鎌倉街道は再び日限山地区の大規模な新興住宅地の中を通っていく。
このあたり旧街道の趣が感じられるものは何もない。
大規模住宅街の中を通ってしばらく道なりに行くと、やがて日限地蔵前信号のところに出る。左手の日限山(ひぎりやま)の坂道を上がって日限地蔵尊に寄っていく。真言宗八木山福徳院といい、日を限って願を掛けると願いが叶うと言われ、今も毎月4の付く日に願いごとをすれば必ず成就するとされており、多くの参拝人が訪れて賑わうらしい。
山の上は広くなっており、日限地蔵尊前を通っていくと再び大きなバス通りに抜けて出る。
少し行くと下永谷駅があったので、この日はここでいったん切り上げて帰宅。