2023年4月27日 池袋~川口
今回は東池袋から再開。明治通りを進んで中山道を横断し、滝野川を経たら十条で日光御成道に合流、赤羽・岩淵を経て川口に至る。
池袋駅東口をから首都高速の下を通り春日通りに出て東池袋3丁目交差点を渡ったら、帝京平成大学ビルの前の広いスペースの目立つところにぽつんと子育て地蔵が見える。
こんなところにどうして、と考えてしまうようなところになぜかある。
すぐ先の角を右に入ると帝京平成大学の横を旧道が復活する。
ほどなくJR山手線を跨線橋で越えるが、線路のずっと先にはスカイツリーが見えている。旧道の雰囲気が漂う昔ながらの狭い道をしばらく行くと明治通りに合流する。
やがて旧中山道と現中山道(国道17号)を横断し八幡通り商店街に入って行く。
旧道の狭い道に個人商店が軒を並べる八幡通り商店街はなんとなく昭和の空気がただよっている。
商店街の外れにくると、旧滝野川村の鎮守であった滝野川八幡神社が鎮座している。
八幡神社の先で右折していった先の四本木稲荷神社は陸軍十条兵器製造所にあった稲荷神社を戦後に当地へ遷座したもの。ここにはちょっと珍しい「清め壺」なるものが置いてあった。
四本木稲荷の角を左折し、石神井川沿いの音無もみじ緑地の中を通っていく。
往時の石神井川は金剛寺付近で大きく蛇行しており、その崖には岩屋弁天(滝野川弁天)の祠や滝がある行楽の中心地だったが、昭和33年の狩野川台風で岩屋弁天は崩壊し、その後に行われた治水工事の際残された蛇行部が音無もみじ緑地となっている。
公園を抜けたところにある金剛寺は弘法大師が創建したと伝えられている古刹である。
治承4年(1180)、石橋山の合戦で敗れた頼朝は相模国真鶴から安房国に逃れ、そこから上総、下総の諸将を味方につけ鎌倉を目指したが、その途中、金剛寺の寺域であるこの地に陣を取ったと云われている。
金剛寺を出たら紅葉橋を渡る。金剛寺は、八代将軍吉宗の命により楓100本が植樹され紅葉の名所となったことから紅葉寺とも呼ばれた。それが紅葉橋の名の由来となった。
紅葉橋を渡ると十条の高台へ上っていく。周辺は道路が新しく整備され比較的新しい団地が大規模に造成されている。
北区中央図書館と隣接する公園の横を通って行くと、右の三叉路角に万治2年と承応3年造立の庚申塔が置かれている。
道なりに左の方に曲がり、自衛隊駐屯地正門の少し手前に右に折れると旧道に復帰する。
しばらく昔ながらの狭い道を歩くとやがて日光御成道に合流する。鎌倉街道中道は、近世に整備された日光御成道、日光街道の元になっている。
この先、しばらく道路の拡幅工事中のところを歩く。
日光御成道に合流してほどなく左手にある地福寺は、将軍家の日光社参に際しては、しばしば休憩所として利用され、寛政年間には江戸幕府より寺領12石の御朱印状を受領していた。門前に地蔵尊が6体並んでいるが、一番左の大きい地蔵が「鎌倉街道のお地蔵様」と呼ばれているもの。
しばらく行くと十条富士塚があるはずだが見当たらず。あたりをきょろきょろしてみると、道路拡幅工事の影響か、なんと富士塚は全面改修工事中であった。
環七通りを横断すると清水坂の下り坂となる。かつては切通しの崖からたえず清水が湧き出していたことから清水坂と呼ばれたという。
坂を下りJR埼京線のガードを潜ると左に上る坂道があり、大きな法真寺題目塔が建つ坂を道なりに上っていくと右手に香取神社の石標があり、かなり長い上り石段を上る。
香取神社は旧稲付村の鎮守であったが、その本殿は上野東照宮の本殿(内陣)だったもので、慶安3年(1650)、三代将軍家光が霊夢を見たことにより稲付村に移築されたものという。
その先の法真寺は慈眼大師の肉弟・證導院日寿上人が天正11年(1537)に開山。よく手入れされた庭が印象的的であった。
街道に戻って進むと、赤羽駅に近づくにつれ歩道が広くきれいに整備されている。その途中に、稲付村一里塚の説明板が建てられていて、説明によれば、実際には一里塚は200mほど北にあったといい、村内寺社には、香取神社、静勝寺、鳳生寺、普門院、法真寺があった。
少し先、左手路地の緩い上り坂は真正寺坂で、路地入り口付近に建つ庚申塔は明和6年(1769)の造立で道標も兼ねており、「これより いたはしみち」と刻まれている。この先中山道につながっている。
そのすぐ先の左手路地を入った奥の方に竜宮城のような普門院山門が見える。門を潜るとインドの仏塔のような共同墓地があり、本堂は中国風の建物の珍しい寺院である。
さらに少し先で左手路地を入ると突き当りが稲付城跡となっている。
階段上の静勝寺境内は大田道灌が築城したと伝わる砦跡で、明暦元年(1655)に道灌の子孫大田資宗が堂舎を建立し静勝寺としている。本堂前の道灌堂には元禄8年(1659)に造立された木造大田道灌座像が厨子に入れられ安置されている。
静勝寺から街道に戻り、JR赤羽駅の自由通路を通って駅の反対側に出る。
左手の飲食店街を進んでいくとものすごい人出で賑わっていた。もともとにぎやかな町なのかもしれないが、コロナ禍が落ち着きを見せてきている中、一斉に人々が解放されたような活気に満ちている。
*私が訪れた翌日、4年ぶりに赤羽馬鹿祭りが開催されたことがTVニュースで報じられていた。
<馬鹿祭りのいわれ>
およそ500年の昔、江戸の開祖といわれる太田道灌は、現在の静勝寺境内に稲付城を築き、江戸北方防備の要とした。文武両道に秀で、特に詩歌管弦の遊びには、遠く京の都から師を招いて、地元民にも普及につとめていた。その偉業をついで「赤羽の地にも住民の祭りを」と、昭和31年に「第1回赤羽馬鹿祭り」が開催された。第1回の開催日4月1日(エイプリルフール)にちなみ「赤羽馬鹿祭り」と名付けられた。
飲食店街を抜け、人通りも少ない高架沿いの道を進んで行くと突き当りの丁字路のところに宝憧院(ほうどういん)がある。境内には二基の庚申塔ほか、いくつかの石塔がある。
宝憧院前の道は日光御成道(岩槻街道)と板橋道が合流する交通の要衝で、ここに立つ道標は元文5年(1740)の造立で、「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西
西国富士道 板橋道」「南 江戸道」と刻まれている。
宝憧院前から右の方に進み、赤羽交差点から国道122号を進んで新荒川大橋に向かう。
橋の手前に造り酒屋小山酒造の店舗があり、そのすぐ先に岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑が建てられている。岩渕宿には何軒かの旅籠や本陣があったのだが往時を伺わせてくれるのはこの石碑のみとなっている。
この先は新荒川大橋で対岸へ渡る。
橋を渡ると堤防の上に中学校がある。その先にかつての「川口の渡し善光寺」が堤防上に移設されているということだがそこまで行かず、大橋を渡って左の方のスロープを下りていくと、交差点の角にポケットパークがあり、鎌倉橋跡の碑が建てられている。平安時代末期、源義経が源頼朝の平氏打倒の挙兵に加わるため、奥州平泉から鎌倉へ向かう途中、この辺りで兵を改めたということが『義経記』に記されている。当時からこの地は奥州への重要な交通路であった。
そこから先、かつての川口宿、現在の本一通り商店街へ入る。
短い区間だがかつての川口宿の中心街だったところに旧本陣門や何軒かの古い建物などが残されている。
本一通り商店街を抜けると川口宿ポケットパークがあり、「日光御成道と川口宿」と題された説明板や「川口宿絵碑」、「鍋屋の井説明碑」等が建てられている。
鎌倉街道中道の旅はここまでとし、ここから近い川口神社を参拝して帰途に就いた。
この先の鎌倉街道は、日光御成道、日光街道を経て奥州方面へと続いている。